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2010.11.25
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カテゴリ:ふる~い洋楽

 

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映画「マネキン」の主題歌が印象深いバンドですねぇ。

ウィキを読んでいると、そのバンドごとにいろんなドラマがあったんだろうなと考えさせられます。スターシップってバンドもかなり波乱万丈だったみたいです(ノ∀`*)アイター

 

MTV時代に生き残るためのスタイルを受け入れようと考えたスリック/トーマスがバンドの方向性を握るようになる。バンドの変容は進み、あるライブでは女性バック・コーラスを配置する案まで出て、これにカントナーは激怒。また、最も勢いに乗っていた後進バンドジャーニーの前座を務めるという提案もあったが、かつて一緒にツアーをした時に比べ極度に安い報酬を提案されたために拒否、という話も残っている。このような経緯から、もはや主導権が取れなくなったカントナーは、もう1枚アルバムを制作した後に解散するという意思を表明するが、他メンバーは存続を要求。1984年、結局カントナーが単独で脱退し、残ったメンバー達にバンド名「ジェファーソン・スターシップ」を使わないように訴訟を起こす。(公判中、一時スターシップ・ジェファーソンと名乗って公演を続けたといい、事態の混乱を物語っている)1985年の判決の結果、両者とも使えないことになり、折衷案として「ジェファーソン」をはずして「スターシップ」となり、新たにRCAと4枚のアルバム制作の契約を結んで再出発した。

バンドは当時先端のエレクトロ・ポップを全面的に取り入れ、シングル「シスコはロックシティ(We Built This City)」(これは邦題だけで実際は特定の街を歌ったものではない。)は、エアプレイン時代から通算してもシングル初となる全米1位(1985年11月16日付 - 23日付)を獲得。アルバム『Knee Deep in the Hoopla』も成功を収め、エアプレイン以来果たせなかった日本公演も実現している。

アルバム制作中に、元々脱退も考えていたディヴィッド・フライバーグが脱退。次のアルバム発表前には、1974年以来事実上の音楽的リーダーだったピート・シアーズも音楽性の変化に不満を感じて脱退。これにより外部ライターの楽曲を中心に完全にマーケティング主導型の制作をする体制になり、全く新しいファン層の獲得に成功。さらに勢いは衰えず「Sara」(1986年3月15日付)、「Nothing's Gonna Stop Us Now(愛はとまらない)」(1987年4月4日付 - 11日付)の2曲のNo.1ヒットを生み、セカンド・アルバム『No Protection』も成功した。≪
ウィキペディアより引用≫

 

StarShip - Nothing's Gonna Stop Us Now                          youtube                       mega






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Last updated  2010.11.25 12:36:28
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