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政権交代は、あるのか 年内に総選挙、激しい攻防(2/2ページ)2009年1月1日13時0分
http://www.asahi.com/politics/update/1231/TKY200812310148.html ■比較第1党ねらう民主、新顔の浸透が課題 選挙区で150を超える議席を獲得し、比較第1党になれば、比例を含め野党で過半数を確保できる--。民主が描く政権交代のシナリオだ。連合の支援に加え、農業政策や後期高齢者医療制度批判などで自民支持層を切り崩し、国民新との共闘で郵政票の取り込みも図る。選挙区で擁立を絞る共産の戦略も追い風になりそうだ。 昨年末現在、民主は239選挙区で公認を決め、23人の内定者を含め最終的に270人程度を擁立する方針。選挙協力で、社民11人、国民新8人、新党日本1人、無所属2人を推薦している。岩手4区の小沢代表は東京12区への国替えもささやかれるが、明言はしていない。候補者の決まっていない空白区のうち、江田憲司氏の神奈川8区や平沼赳夫元経産相の岡山3区などは擁立を見送り、実質支援する可能性が高い。 ただ、前回惨敗した首都圏や関西圏の都市部は新顔に切り替えた選挙区が多い。小沢代表の「抜き打ち視察」などで引き締めを図るが、無党派層対策を含め、どこまで浸透できるか課題も残る。社民、国民新と競合する18選挙区の調整も難題だ。 共産は選挙区148人、比例単独で17人を公認。京都1区を「必勝区」と位置づけ、比例650万票、計20議席前後をめざす。経団連やトヨタなどの大企業とも会談。雇用悪化が進む中、早くから非正規雇用問題に積極的に取り組んできたことをアピールする。 社民は選挙区31人、比例単独2人を公認し、最終的に40~50人擁立する方向。候補者の3分の1程度を女性にする方針で、シングルマザー対策など女性政策に力を入れ、10議席以上が目標。郵政民営化見直しを掲げる国民新は選挙区候補12人を固め、現有5議席の上積みを狙う。 改革クラブは現職1人を擁立予定。新党大地は鈴木宗男代表の比例区での議席確保を狙う。 東京で新顔1人を公認する予定の新党日本は参院議員の田中康夫代表の衆院へのくら替えが焦点だ。 田中康夫 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋 来歴 1956年4月12日、東京都武蔵野市に生まれる。ただし本籍地は静岡県庵原郡富士川町(現・富士市)となっている。その後父親の田中博正が信州大学教授に就任したため、1964年4月に家族全員で長野県上田市に、さらに1966年には松本市に引っ越す。 1969年、信州大学教育学部附属松本中学校に入学し、在学中は初代サッカー部部長を務めた。1975年、長野県松本深志高等学校卒業。東京大学教養学部文科2類を受験して失敗、東京の駿台予備学校で浪人生活を送る。この際駿台文庫の『基本英文700選』を愛用し、後に著書『田中康夫の大学受験講座』においても同書を激賞している。 1976年4月、一橋大学法学部入学。なおしばしば田中は法学部出身であることを表す際に「方角を間違えて阿呆学部に入った僕は...」との表現を用いる。 1980年、卒業直前にサークル「一橋マーキュリー」での横領事件 (サークル員の合意を取らずに資金を流用してサークル用に神宮前のマンションを借りていた事件)を 起こしたとして停学処分を受け留年、 そのあおりで日本興業銀行からもらっていた内定は取り消される。しかしこの停学期間を利用して第1作『なんとなく、クリスタル』を執筆、その年の「文藝賞」を受賞する。 1981年3月に一橋大学法学部を卒業し、 モービル石油に入社するも3ヶ月で退社。 以後、文筆活動やテレビ出演などを行う。 1991年には柄谷行人や中上健次らとともに、湾岸戦争への日本加担に反対する声明に参加している。なお同声明に参加した作家は他にいとうせいこう、島田雅彦、高橋源一郎などがいる。 1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生する。『オン・ハッピネス』の舞台でもある神戸市の被災に衝撃を受け、ボランティア活動に従事した。『神戸震災日記』巻末では「活動を続けるうちに神戸と自らは多面性を持つ点で共通しているのではないかと思うようになった」と述懐している。 ボランティア活動を通じて、神戸市の公共事業関連の問題を知り、神戸空港建設反対運動を行う。1998年には「神戸市民投票を実現する会」の代表にも就任した。 2000年、長野県知事選挙に出馬し、当選。2期務めるが、3選を目指した2006年知事選では落選(詳細は#長野県知事時代を参照)。 2007年、参議院議員選挙比例区に新党日本から立候補し、初当選した。 参議院議員時代 その後の2007年には、4月の東京都知事選や統一地方選挙の北海道夕張市長選挙への立候補を示唆したものの、最終的に見送った。 2007年7月の参議院議員選挙には、新党日本からジャーナリストの有田芳生らとともに比例区から立候補した。なお、この選挙の際に新党日本は選挙区には候補者を立てなかった。 その直前の7月5日には、荒井広幸幹事長と滝実総務会長が、党運営及び参院選に際しての選挙公約が党所属国会議員である滝と荒井の了承を経ずに決定されたことをめぐって離党し、結党当時に国会議員であったメンバーはいなくなる。これに伴い新党日本に現職国会議員がいなくなったことにより、選挙活動に対する政党助成金が大幅に減った。 しかし、政治団体の場合は比例区に候補者を擁立するには合計10人以上擁立しなければならないところだったが、2005年の衆院選の得票率で政党要件を満たしていたため、10人擁立しなくても比例全国ブロックで立候補できた。田中は比例区で458,211票を獲得し初当選した。この参院選における田中が当選したことに伴い在籍国会議員が復活したため、新党日本は再び政党助成金が受け取れるようになった。 なお、同年9月の第168臨時国会の開会を前に民主党代表・小沢一郎が単独会派での参院過半数をめざし、全国区で人気の高い田中に対して参議院での統一会派結成を打診。田中はこの要請を承諾し、9月10日付で統一会派「民主党・新緑風会・日本」を結成した。 ≪モービル石油に入社するも3ヶ月で退職。 他人の飯食う経験が極度に少ないね。 「一橋マーキュリー」での横領事件も起こしているし。 参院比例代表、田中の名前で獲得、それを辞任しても比例名簿繰り上げ当選。 で、衆院で田中また出る、 おかしくないか。選挙制度の悪用だ。 小沢チンピラ君の周りには姑息な人物が集まる。≫ [使命因果応報責任]カテゴリの最新記事
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