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■国民主権の構造と射程
外国人地方参政権の合憲違憲を分かつ分水嶺は「国民主権の原理と抵触しない外国人地方選挙権」が成立するかどうかです。而して、これを確定する鍵は「国民」「国民主権」「国家」の意味である。あたり前の言葉として使われてきたこれらのタームを<脱構築>することによって、それらを<非自然化>する、すなわち、それらの内容や主張が必ずしも自明なものでも普遍的なものでもないという経緯を示さなければならないのではないか。これが前節までの帰結でした。 「国民主権の原理と抵触しない外国人地方選挙権はどのようにして可能か」。これは、あたかもカントが『純粋理性批判』を通して「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能か」を追求した如き難事業に思えます。しかし、本稿の読者の中には、ここまでの記述を読んで、<脱構築→非自然化>などの高尚で好事家的な思索を進めるのは筆者の勝手だろうが、土台、「1995年判決の判決理由は、現行憲法93条2項に言う「住民」も、「国民主権の原理及びこれに基づく憲法15条1項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることも併せて考えると、・・・日本国民を意味する」と言っているのだから、憲法訴訟の類型の違いなどに関わらず、やはり、外国人に地方選挙権を付与する制度は違憲なのではないだろうか」という疑問を払拭できない方も少なくないのではないでしょうか。俗に言う「縦に切ろうが横に切ろうが豆腐は豆腐」ではないのか、と。以下、説明します。蓋し、この論点を確信犯的に蒸し返すことで本稿の骨格的考察に具体性の彩を与えられる、鴨。と、そう考るからです。 ◎開かれた構造としての法的言語 ある言葉に「一対一」的に唯一の意味を対応させるISOやC言語の世界とは違い、日常言語の世界では、ある言葉の意味は重層的であり、また、その言葉が置かれたテクストのコンテクスト、あるいは、そのテクスト自体が置かれている「社会的−歴史的なコンテクスト」によって異なります。例えば、「鳩」は「鳥綱>ハト目」に属する動物を指す言葉であると同時に、「平和」を象徴したり「糞公害」を連想させる記号でもある。このことを想起すれば、また、「現代の観点から歴史は常に書きかえられる」という箴言を想起すれば日常言語の曖昧さは了解できるのではないでしょうか。 而して、所謂「法的安定性−司法や行政の予測可能性」をそれが実現を期すべき価値の一つとする(その最たるものが「罪刑法定主義」「刑罰不遡及」「一事不再理」等の諸原則なのですけれども)法的言語の世界でも、言葉の意味の重層性とコンテクスト依存性は必然であり、蓋し、法的言語もその意味において開かれた構造が組み込まれているのです(大急ぎで補足しておけば、法的言語の世界における言葉の重層性やコンテクスト依存性は、必ずしも、絶対的の悪ではなく、そのような曖昧さや柔軟性があるから、法的言語の世界以上に曖昧で、万人の万人に対する<藪の中>状態で、かつ、変転極まりない人間社会の秩序を法が維持できている側面も見逃せません)。 例えば、凶器準備集合罪「二人以上の者が他人の生命、身体又は財産に対し共同して害を加える目的で集合した場合において、凶器を準備して又はその準備があることを知って集合した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する」(刑法208条の3)にいう「凶器」の意味は実に曖昧。「凶器」には、警察官のピストルや刀剣マニア品評会に持ち込まれた日本刀は含まれるのか、金属バットや傘はどうなのか(★)。 例えば、20名近い任侠系の男衆がある資産家に危害を加えようと手に手に金属バットを持って早朝5時にその資産家宅に隣接する広場に集合する行為は、凶器準備集合罪に該当し、かつ、金属バットは凶器とされるでしょう。他方、同じ男達が同じ金属バットを持って、資産家宅に隣接するグラウンドで野球に打ち興じようと早朝5時に集まった行為が凶器準備集合罪に問われるはずもなく、また、金属バットも凶器とされることもありえない。畢竟、このように、人権確保の観点から法的安定性を最大限に希求しているはずの刑法においても言葉は(良い意味でも悪い意味でも)曖昧にならざるを得ないのです。 ここで本稿の考察を少し先取りしてコメントしておきます。つまり、いくら「曖昧さは悪いことばかりじゃない」とはいえ、法的言語の意味が「万人の万人に対する我田引水」でしかないようでは社会秩序を維持することも、公共的な言説空間で議論を生産的に積み重ねることも不可能になるということ。而して、法的言語の宿命的な曖昧さ(法的言語の「事物の本性」としての曖昧さ)を与件としつつも、それをある一定範囲内に制御する仕組みとルールが希求されるのであり、その様な仕組みとルールとマナーを(これまた公共的な法的言説空間内で)拘束力のあるものにする営みが、法概念論・法学方法論・法価値論を中核的内容とする法哲学・法理学の知的蓄積に他ならない。蓋し、憲法基礎論もまたそのような意味での法哲学の各論と私は位置づけています。 ★註:凶器準備集合罪における「凶器」 刑法学の伝統的議論によれば「凶器」には「性質上の凶器−用法上の凶器」という二種類の事物が含まれます。その事物が「人を殺傷することを本来の用途としている」場合、すなわち、その事物の性質から見てそれが「凶器」に該当することが明らかな「性質上の凶器」と、他方、その性質からは「凶器」であるかどうかを判定することはできず、実際にその事物がどう使われたかをも加味して初めてその事物が「凶器」だったか否かがわかる「用法上の凶器」の二者が、凶器準備集合罪の「凶器」には含まれるとされています。 ◎開かれた構造としての憲法の言語空間 一般的に法的言語の世界が開かれた構造をしていることの帰結として、また、「事実と規範」の二つの世界の架け橋でもある憲法の特殊性から憲法の言語空間も(憲法規範を構成する言辞は、意味において重層的でコンテクスト依存性が観察される)開かれた構造をしています(★)。 例えば、「二重の基準論」によれば、経済的自由権と精神的自由権とでは、同じ「自由」でも保護される度合いが異なるとされている(尚、「二重の基準論」に対しては、井上達夫さんから極めてラディカルな批判が出されていますが(『法という企て』(東京大学出版会・2003年))、ここでは通説に従い井上さんの批判には触れません)。現行憲法の21条と22条、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」という隣りあった二つの条文の中の「自由」という同じ言葉は意味を異にしているのです。 21条と22条における「自由」の意味の差異は、異なる条項間の同じ言葉の意味の違いに関するものにすぎません。けれども、現行憲法22条に謳う「職業選択の自由」の規範意味の射程が問題になった薬事法違憲判決(最高裁大法廷1975年4月30日)を見るまでもなく、同じ条項内の同じ言葉に相異なる意味が背負わされることも稀ではないのです。畢竟、ヴェニスの商人説第5項はこの開かれた構造としての憲法の言語空間という事象を踏まえたものです(★)。 ならば、現行憲法93条2項の「住民」の意味が、異なる類型の憲法訴訟においては異なる意味を持ちうること、それどころか、「外国人8713;住民」「外国人∈住民」という真逆もあり得ること、少なくともその可能性は説明できたのではないかと思います。憲法解釈の領域では「縦に切った豆腐と横に切った豆腐」は必ずしも同じとは限らないのです。 而して、憲法の言語空間が開かれた構造を宿命としているがゆえに、逆に、国語辞書的なBig Wordsの意味だけで現前の紛争が解決できる保証はどこにもない。例えば、「公共の福祉」「表現の自由」「特別権力関係」「政教分離」「大学の自治」そして「国民主権」。これらを「切り札」にしてあらゆる人権を制約すること、逆に、これらを「錦の御旗」として、あらゆる法規制を違憲にできるなどの古き良き時代には、現在の憲法研究者も司法・行政の関係者も住んではいない。ならば、外国人地方選挙権の合憲性・違憲性を究明するためには「国民」「国民主権」「国家」という言葉の意味に沈潜せざるを得ない。と、そう私は考えるのです。 ★註:事実と規範の世界を跨ぐ憲法 憲法とは国家の最高法規であり、実定法上それを根拠づける法規は存在しません。畢竟、憲法は政治的実力によって<事実>の世界から<規範>の世界に産み落とされ、その後は、その規範の世界でこんどは自分が産んだ下位法という雛鳥をその規範の翼の下で育てるすべての下位法規の母鳥となる最高法規なのです。 ★註:憲法の言語空間における意味の多様性と憲法訴訟 現在の憲法訴訟論の地平からは(一応、二重の基準論を前提にした上で)精神的自由の制限か、経済的自由の制限か、経済的自由の制限とすればそれは(食品や住居等の安心安全を図るための)社会的規制かそれとも狭義の経済規制か、更に、後者とすればそれは(単に所有権や経済活動の自由を制限する)消極的な経済規制か、それとも、ケインズ政策の断行、社会経済の円滑な運営や福祉国家の実現のための積極的経済規制であるかに従い、権利が国家により保障される度合には差があるものと考えられています。理念的に言えば、規制を行なう国家にとって違憲判決を喰らい易い順、すなわち、権利制限のための敷居が高い順(高→低)に並べれば次の通り、 表現内容に着目した精神的自由の制限 表現内容には無関係な精神的自由の制限 消極的経済規制 積極的経済規制 社会的規制 而して、憲法が「権利制限を制限する度合」は、具体的には、(イ)憲法訴訟の審査基準:どの程度の厳格さで人権侵害を審査するか(および、この裏面としての「自由を制約する法規に合憲性が推定されるかどうか」あるいは「違憲を立証する責任は誰に帰属するか」)、そして、(ロ)憲法訴訟の具体的な合憲性判断基準:何が満たされれば違憲とされるかの二つの軸の交点に求められるのです。 例えば、梨園の御曹司にとって歌舞伎俳優として世過ぎ身過ぎすることは、単なる「職業選択の自由」ではなく「人格権的−精神的自由権的な色彩」さえ帯びるでしょう。ならば、もし、世襲批判が湧き起こり「高麗屋・成駒屋・成田屋・音羽屋の直系男子は梨園に入るべからず」などの法規制が制定された場合には、この規制の合憲違憲判断には(現行憲法14条の「平等条項」に加え)経済的自由を定めたとされる22条の解釈を巡る訴訟であるにも関わらず、二番目に厳しい「表現内容には無関係な精神的自由の制限」に関する審査基準と合憲性判断基準が適用されることになると思います。しかし、タクシー免許やタクシー会社の台数規制等々、他の多くの経済規制には、同じ22条の解釈が争点になるに関わらず(私の空想の産物にすぎませんが)「梨園世襲制限訴訟」とは違い遥かに緩やかな審査基準と合憲性判断基準が適用されているのです。 蓋し、前提として外国人地方選挙権を基本的人権とは捉えられないと解するヴェニスの商人説は、この選挙制度を巡る憲法訴訟は、社会的規制もしくは積極的経済規制の合憲違憲を問うものであり、それに対する審査は、(イ’)当該の制度に合憲性が推定され、違憲の立証責任は一審の原告側に帰属する緩やかな審査において、(ロ’)明白性の原則が適用されると私は考えます。 <続く> 転載元: 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |