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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年11月10日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
● 悪魔性

 人の不幸な話ほど、楽しいものはない。……という悪魔性は、だれにでもあるものか。私の知っている人に、いつも他人の悪口ばかりを言っている人がいた。そのとき、60歳くらいではなかったか。女性だった。

 「あのAさんの父親は、窃盗罪で逮捕されたことがある」
 「Bさんの家の長男は、離婚歴がある」
 「Cさんは、かなりあくどいことをして、金をもうけたそうだ」と。

 一般論として、世間体を気にする人は、相対的な尺度で、自分の位置を決める。隣の人より、収入が多ければ、金持ちであり、隣の人より、収入が少なければ、貧乏である、と。もちろん隣の人が幸福だと、自分は不幸と感じ、反対に、隣の人が不幸だと、自分は幸福と感ずる。

 その結果として、いつも自分より、「下」の人ばかりを見るようになる。そのほうが、居心地がよいからである。そしてさらにその結果として、ここでいう悪魔性をもつようになる。「他人の不幸ほど、楽しいものはない」と。

 そこで私や、あなた自身は、どうかということになる。

 たとえばここにたいへん不幸な人がいる。経済的にも家庭的にも、恵まれず、苦労の連続。おまけにその人自身も、大きな精神的な問題をかかえている。

 そういう話を聞いたときの心理的反応は、つぎの6つのタイプに分類できる。

(1) 自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と納得する。)
(2) 同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
(3) 嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
(4) 無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
(5) 学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
(6) 妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)

 言いかえると、他人の不幸な話を聞いたときの、自分の心の中の反応を知ることで、自分自身の人格の完成度を知ることができる。言うまでもなく、「人の不幸な話ほど、楽しいものはない」と思っている人は、きわめて人格の完成度の低い人ということになる。

 つぎの話を読んで、あなたはどう感ずるだろうか。

【テスト】

 X氏(47歳)は会社をリストラされた。そのとき得た退職金を使って、市内に小さな事務所を開いた。しかし折からの不況で、半年後には、多額の借金をかかえて閉鎖。そのころ、妻は、二人の娘(小6と小2)を連れて、家を出た。X氏は、酒に溺れるようになり、スナックで暴力事件を引き起こし、傷害罪で逮捕。そのショックで、X氏は、緑内障になり、右目の視力を、ほとんどなくしてしまった。

 この話を読んだとき、あなたの心の中では、どのように感じただろうか。どのような反応が起きただろうか。上の(1)~(6)を、人格の完成度の応じて並べなおしてみると、こうなる。上の位置の人ほど、人格の完成度が、低いということになる。

★嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
★無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
★自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と安心する。)
☆学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
☆妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)
☆同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
☆(神性タイプ)(神々しい包容力で、他人の不幸を共有できる。)

 ここで重要なことは、人格の完成度の低い人からは、高い人がわからない。しかし人格の高い人からは、低い人がよくわかる。それはちょうど、山登りに似ている。低い位置にいる人には、山の上からの景色がわからない。自分がどこにいるかさえわからない。

しかし高い位置にいる人は、低い位置の人がどこにいるか、手に取るようにわる。当然、視野も広くなる。(だからといって、私がその視野の高い人というわけではない。自分でも、そうなりたいと願っている。念のため!)

 さらに人格の完成度の低い人は、たいていのばあい、自分の(低さ)にすら、気づくことがない。ないばかりか、自分を基準にしてものを考え、「他人もそうだ」と決めてかかる傾向が強い。
 
 冒頭にあげた女性も、いつも、こう言っていた。

 「他人の心なんて、信用できない」
 「人はみな、タヌキだ」
 「渡る世間は、鬼ばかり」と。

 どこかさみしい人生観になる。

 しかし人格の「格」をあげるということは、むずかしいことではない。ないが、しかし勇気のいることである。たとえば奉仕活動(ボランティア活動)をしたことがない人は、奉仕活動をすること自体を、「損」と考える。

 子どもの世界でも、こんなことを言った高校生がいた。「生徒会活動をするヤツは、バカだ。受験勉強ができなくなる」と。幼児でも、「スリッパを並べてくれない?」と声をかけただけで、「どうして、ぼくがしなければいけないのか!」と言いかえしてくる子どもがいる。

 そうしたレベルの低い人生観を変えることは、簡単なことだ。自ら進んで、奉仕活動をしてみればよい。しかしそこには、大きなカベがある。そのカベを越える力が、勇気ということになる。

最初、これは私の経験だが、そういう自分が、バカに見えてくる。バカらしさを感ずる。それはたとえて言うなら、他人のあとをついて歩きながら、その他人が捨てるゴミを拾って歩くようなバカらしさである。

 そのバカらしさを越えるためには、勇気が必要である。

 こうして私たちは、自分の中の悪魔性と戦っていく。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。人は、自ら、その悪と戦って、善人になる。

 実のところ、私の中にも、悪魔性がある。ないとは思わない。ときに、他人の悪口ほど、楽しいものはないと思うこともある。「あいつはアホだ」「こいつはバカだ」と、ワイフと笑いながら話しこむこともある。私は、決して、善人ではない。それにもともと、生まれが生まれだから、それほどの善人になれるとも思っていない。期待していない。

 しかしこれだけは言える。

 明るく、朗らかに、楽しく人生を生きるためには、自分の中に潜む悪魔性は、敵である。戦うべき、敵である。その悪魔性に毒されると、人生そのものをムダにする。事実、冒頭にあげた女性は、見るからに醜悪な顔をしていた。今、その女性を思い出しながら、「私は、ああはなりたくない」と思っている。
(はやし浩司 悪魔性 人格の完成度 人格 善人論)






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最終更新日  2009年11月10日 09時43分02秒



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