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高橋信次先生に学ぶ

高橋信次先生に学ぶ

正しい宗教(正法)指導者の条件とは

園頭広周先生は、正しい宗教(正法)指導者の条件として、下記の内容を著されました。

それは、高橋信次先生昇天後、存命中に作られた団体の混乱と、講師陣の反乱などを戒めるための内容でもあったように思えます。

人生の根本教義にふれ、またそれを正しく伝えると言う事は、大変な事でもあると思います。
一歩誤ると、マインドコントロールの世界に嵌り、その人の人生や心をダメにしてしまう恐れもあるでしょう。

事実それらは、実際に社会問題を起こしてしまう様々な宗教があることでも、証明されてしまっているわけです。

いくら、言論の自由、思想の自由があるとはいえ、ある一定の基準、フィルターにかけてみないと大変な事になってしまいます。

何かを求めたい、あるいはすでにどこかの宗教団体に所属に所属されている方も、一度はこの基準にふれながら、判断していただきたいと思います。

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( 正法誌より )

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① 正法の指導者は信者に誓いを強制しない


キリストは、「天を指差して誓うな、地を指差しても誓うな」と、外に向かって形に現して誓う事は、サタンのさせることであるといって、いかなる形の誓いもしてはならないと、戒められました。

誓いは自己の内在する神の生命に対して行なうべきもので、それもその人が自分自らの自由な心を持って、自主的自発的に行なうべきものであります。

それを指導者自身が信者に向かって、「私に誓いなさい」と誓いを強制し、誓わない者をサタンだと呼ぶ事は、この事だけ一つでも、その指導者が真理を知っていないことを証明することになります。
人に向かって誓うということは、その人によってこちらの心の自由自在さを、束縛させることになります。

悟りというものは、心の自由自在さによって得られるものでありますから、「誓う」「誓わせる」という行為は、人が「悟る」ことを妨げることであるばかりでなく、人によっては「誓いを破ったら罰が当たるかも知れない」という二重に人の心を束縛することになります。

多くの教団が信者の大会等で「会員を何名ふやします」「寄付をいくら集めます」
と宣言させていますが、このような事は組織運営上の問題であって、信仰とはなんら関係のないことであります。

しかし、信者側では教団の決定は、神の命令であるかのように信じてしまうので大変です。
目標を達成しないと信仰が足らないといわれるだろうと、心の中では半分恐怖心を持って走り廻るということになります。

お釈迦様やキリストが、「信者を何名増やしなさい」とか、「殿堂を作るので、いくら金を集めなさい」とか言われたでしょうか。

ともかく、何らかの形においても、信者に誓わせて信者を教団に束縛しようとするやり方をしてはならないのです。


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② 正法の指導者は服装、食物、住居などにこだわらない


住居や服装、持ち物によって自分の権勢を示そうとする事は、宗教指導者の為すべき事ではありません。
不必要に広大な住居を構えている人、講演の度毎に服装や持ち物を変える人、色々ですが、悟りを深めた人は、この世のものに執着を持たないので、自分を飾るということをしません。

お釈迦様は、ご自身の服装を飾ったりはされませんでした。
キリストもそうです。
法は、心で説き、心で聞くものでありますから、服装や持ち物などに心をとらわれない事です。


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③ 正法の指導者は他力信仰を説かない


「悟る」ということは、「自分の心を知る」ことです。
自分の心を向上させ、自分の心を磨く事が出来るのは自分自身しかありません。
正しい指導者は、他力で救われる事を説かないのです。

あくまでも自力であります。
自力を尽くした時に、また他力があるのです。

いくら人を救っても、自分が心で悟る事が出来なければ、何時までたっても自分が救われる事はないのです。
「菩薩行」とか「愛多行」といって、先ず人を救えと説くのも、大乗仏教時代になってからの説き方で、お釈迦様は「自力で悟る」ことを説かれたのであります。

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④ 正法の指導者は愛深くなければならない


正法の指導者は、心の在り方の大事さが分かっているので、一切憎しみの心を持たないのであります。
悟るという事は、心の自由自在さを得ることです。


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⑤ 正法の指導者は既成宗教家の家系には絶対生まれない


永い歴史の中で、既成宗教は正法に反する色々な矛盾を内包しています。
そういう家に生まれると、小さい時から間違った事を知らず知らずのうちに、正しいと信じ込むようになり、やがて成長してその間違いに気づき、それを改革しようとすれば、社会道徳的通念として、祖先や親を攻撃批判する祖先無視、親不孝の罪を犯すということになります。

お釈迦様は自分の子供を、後継者にはされませんでした。
宗教家の家に生まれたからといって、正しく法を説く事が出来るとは限りません。
やはり、正しく説く力を持った人が継ぐべきで、教団の継承を世襲制にするという事は間違っております。

既成宗教家の家に、正法を説くにふさわしい力を持たれた人が生まれないという事は、あの世からの計画であります。

お釈迦様は当時の王の家に、キリストは大工であった家に生まれて正法真理を説かれました。

正法真理は、血統によって世襲制によって伝えるべきではなく、正法真理を伝えるにふさわしい人から人へと伝えられてゆくべきであります。


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⑥ 正法の指導者は「衆生病むが故に我病む」と説かない


「衆生病むが故に我病む」という言葉は、維摩経の中で維摩居士がいっている有名な言葉で、既成宗教の神道、仏教、キリスト教の指導者は余りこのような事は言っていられませんが、新興宗教の教祖または指導者達は、よくこの言葉を使って信者を使って欺瞞していられる人があります。

人の因縁を引き受けることによって、救うということが正しい事であったとしたら、お釈迦様を始めとしてキリストも、また、人を救う事を天命として心得ていられる人達は、皆病気でよいよいだという事にならなければなりません。

宗教家であって健康だという人達は、人を救う力の無い、愛の無い人達だということになります。
自分が健康であるという事は、宗教家として恥ずべき事だという事になります。

凡そ我々は、人の因縁、業を引き受ける事は出来ないのであります。
自分の心の中に、病気になる因縁がなければ病気はしないのであります。

これと同様に、我々は先祖の因縁も、引き受ける事は出来ないのです。
先祖が作った因縁は、先祖自身が消滅させないといけないのであります。
先祖に対しては、感謝しなければなりませんが、お経を上げて先祖の因縁を浄めるということは、出来ないのであります。

お経は棒読みに、ただ唱えたのではいけないので、お経に書かれてある教えを、よく分かるように教えてあげて、よく分からせるという事が大事なので、「何巻あげたらよい」と、あげる回数によって救われたり、救われなかったりすると、説く事は間違いなのであります。

自分の因縁、業は、自分が悟る以外に解消する道はありません。

悟りとは、「自己解放の道」なのであります。

自分で自分の心を縛っていた、その心を解いて、「宇宙即我」を知る事が悟りなのであって、そのような境地に達するには、自分が精進をしなければいけないので、他人がやってくれて、それで自分が悟るという事は、出来ないのであります。

正法の指導者は、健康で心を調和させて、人を救ってゆくのであります。


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⑦ 正法の指導者は「信者の因縁、業を引き受ける」と説かない


自分の心を向上させ開いてゆくのは、自分にしか出来ないので、他人が自分の心を良くしてくれるのは、絶対に出来ない事です。

他人によって、人の心を良くする事が出来るのは、実際はその人が他人の言葉を聞いて、「そうだ、その通りにしなければならない」と、納得し決心したからであります。
他人に言われても、その人が「そうだ」と思う事も無く、心を変えるという事をしなければ、どうにもならないわけです。

他人に言われなくても、自分で自分の心を変えれば、良い結果は自然に出てくるのであります。

教祖に言われて良くなった、救われたという人達は、「自分の業を引き受けてもらったから、これで良くなるという信念が出来てきてしまいます。

その心の結果、良い事が出てきたのであって、こういう事は、実際は自分が自分の心を変えたからだ、という事に気づかずに、「教祖様によくしてもらった」と信じ込んでしまうので、精神的にその教祖の奴隷になってしまうのであります。

そうなると、その教祖の人の考えの枠にはまってしまって、それ以外の自由な考え方が出来なくなって、自由な心境に到達して悟る、という事は出来なくなってしまいます。

正法を良く分かっている指導者は、その人が良くなったのは、その人が心を明るく変えた、努力の結果である事をよく知っていますから、絶対に恩着せがましい事は言わないのであります。

恩着せがましい事を言う教祖、指導者は正法がよく分かっていないのであります。


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⑧ 正法の指導者は肉体行によって悟る事を説かない 悟りは心でするものである事を説く


お釈迦様は出家されて、それまでに伝えられていたバラモンの教えにしたがって、色々な肉体行、断食等されたのでありますが、結局は「苦行は悟りの因にあらず」という事を知られて、苦行を止められたのでありました。

然るにお釈迦様が説かれた仏教を伝えるという宗教団体が、断食したり、滝に打たれたり、水行しないと悟れないのである、と言っている事が、お釈迦様の教えに背いていることであることに気づかないことは、おかしなことであります。

肉体行をやって、いくら肉体を苦しめてみても、悟りは心でするものでありますから、心が悟らないと何にもならないのであります。

肉体行をした人は、「俺は普通の人の出来ない、厳しい行に耐えてきたのだ」という自我が強くなって、悟りに一番大事な心の自由自在さを失ってしまっています。
又、少しばかりの霊能があるということで、自惚れがあります。

肉体行によって得た霊能と、悟りとは何の関係もありません。

何らかの霊能を求めて信仰するという事は、既にそのことが一つの欲望であり執着なのでありますから、正しい信仰をする人は、何かを求める心を捨て、自分の心を見つめなければいけないのであります。


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⑨ 正法の指導者は反省と禅定の大事さを説く


信仰は心でするものであって、肉体でするものではありません。
総括的に正しい宗教か否かを見分ける基準を申し上げます。


一 発生による区分
 
1 啓示宗教 

あの世からの正しい啓示によって始められたものは、正しい神の教え、正法が説かれるので、普遍的妥当性、一貫性、普遍性がある。

2 知的宗教

教祖の知性によって組み立てられたものを、恰も神の啓示によって始められたように説くので、一貫性が無く、始めと、中頃と、終わりとでは説き方が違ってくる。知的には納得出来る点はあるが、霊的な自覚が得られない。

3 憑依宗教

肉体行によって得た霊能は、全て憑依の結果である。
一貫性が無く恐怖心を与え、法を説く事をせず、ただ信ぜよという。


二 地理的、地域的による区分

1 世界宗教

世界中、どこの国でも信ぜられるもの、また、いつの時代でも信ぜられるもの、仏教、キリスト教は世界宗教である。
正法はいつの時代でも、どこの国でも正しく信じられるものである。

2 国家宗教、民族宗教

一つの国、一つの民族でしか信じられないもの、それは正法ではない。

3 土俗宗教、民間信仰

ある一部の地方だけしか、信じられていないもの


三 正法である事の条件

1 科学的合理性を持ち、 (文証、理証)

2 道徳的合理性を持ち、 (文証、理証)

3 霊的自覚を満足させ、 (現証)

4 結果的に、自分の心が向上し偉大になりつつある事を自分で自覚し、一切の感謝と調和を実現するもの   (現証)


この4つの条件を、正法は備えていなければなりません。
道徳か宗教か分からないものがありますが、宗教は必ず霊的自覚を満足させる行為を、もたなければなりまぜん。

また宗教と称しているものの中には、父母に感謝せよ、夫婦調和せよ、と道徳的な事を説いても、霊的自覚を得させる行法を持っていない宗教があります。

霊的自覚を得させる行法が「反省と禅定」でありますから、「反省と禅定」を指導しない宗教家は、宗教としては不完全だという事になります。

仏教の各宗教団体が禅定をしていない為、ヨガの瞑想が盛んになってきました。
ヨガの瞑想とお釈迦様が教えられた禅定、高橋信次先生が教えられた禅定とには、根本的な違いがあります。

心を偉大に成長させるには、必ず禅定が大事であります。


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⑩ 正法の指導者は金銭で救われる事を説かない


業は、身口意の三業といいますが、業は心で作るのであります。
心で作った業は心を変える以外に業を直す道はないのに、心のあり方の大事さはよく教えずに、金銭や物を沢山寄進すれば、救われると説いている宗教があります。それは間違っています。

神は金銭を必要とされません。
また、自分の心を変えるのには、一銭の金もいりません。
金銭を必要とし、また会員が増え、新聞や本が売れたほうがいいのは、教団を運営する人間が、都合がよいからであって、神がそれらを求めているのではありません。

金銭や物によって、神の救いが左右されることは、ありません。
信仰は無知であってはならないのです。
正しい信仰には智慧が必要であります。


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⑪ 正法の指導者は罰が当たると説かない、恐怖心を与えない


神は絶対に罰を与えません。

罰はその人の心のあり方が、正法中道にはずれた時に起こってくる自然の警告であり、反省させるための現象でありますから、心の在り方を変えると罰は無くなります。
それを、色々な方法で信仰しないと、また教団の方針通りにしないと罰が当たる、と恐怖心を与えるのは邪教であります。

口に神の名を唱え、愛を溶きながら、一方では全く正反対の恐怖心を与えている指導者は宗教家としての資格なしです。
知らず知らずのうちであっても、信者に恐怖心を与えている宗教家がいる限り、日本の宗教界は、愛に満ちた明るいものにはならないでしょう。


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⑫ 正法の指導者は、祖先の因縁とか前世の因縁だといわない


神は人間に、完全な自由を与えていられます。

祖先が犯した罪は、祖先自身が自分で反省しなければならないので、子孫がいくら善い事をしても、それで祖先の因縁が切れるということはありません。゜

祖先と子孫は血統上、肉体的には繋がっていますが、霊は別々です。
祖先にどんなひどい因縁を作っていた人があったとしても、今生きている人が、心を正しくしていたら、その人は立派に幸福になれるのです。

「先祖の因縁だ」「前世の因縁だ」といって、恐怖心をそそって信仰させているのは、日本だけの独特の現象です。

「祖先の因縁だ」という指導者があったら、「何という人の、どういう因縁ですか」とはっきり聞きなさい。
また、「前世の因縁だ」という指導者に対しても、「いつの前世のどういう因縁ですか」と、聞きなさい。

この世のことは、この世に生きている人の責任であって、決して先祖や前世の因縁ではないのです。

心の綺麗な人は、死ぬとすぐ天上界に行きますが、間違った事をした人は一度地獄界へ堕ちます。
地獄界から悪い因縁を持ったまま、そのまま、また地上界に生まれることは絶対に出来ないので、地獄界に行った人は、生きていた時の事をよく反省をして、心を綺麗にして天上界へ行ってからでないと、地上界に生まれてくる事は出来ないのです。

ですから、この地上界に生まれてきている人は、みな祖先の因縁とは関係なく、自分の前世の因縁も綺麗に清算して、新らしい霊の勉強をするために生まれてきているのです。
この世で起こっていることは、この世で生きている人達の心によって起こっていることで、全てこの世の人達の責任なのであります。

「祖先の因縁を切るために」「前世の因縁を切るために」と、沢山の金を要求する指導者を信じてはいけません。

「子供よ、不幸になれ」という親がいないと同じように、子孫を不幸にしようとする祖先がいられるハズがありません。
祖先の因縁だということを信じてはいけません。

証拠もない前世の因縁など、信じてはいけません。
生きている今の在り方を、正法中道にかなったものにして、全てと調和する心を持てば、人生は必ず幸福になるのであります。


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⑬ 正法の指導者は偶像を崇拝しない


日本人は、何故か偶像崇をする人が多い。
キリスト教、回教では偶像崇拝を禁じています。

何かを拝まないと、幸福にならないのだとしたら、キリスト教や回教の人々はみな不幸だという事になりますが、果たしてそうでしょうか。

お釈迦様の時代には仏像というものはなかったのですから、お釈迦様が「仏像を作って拝みなさい」
と言われたわけではありません。
また、お経というものも、お釈迦様の時代には無かったので、お釈迦様が亡くなられた後に、お経も作られたのであります。

仏像というのは最初は、「お釈迦様という方は、このような方であったのだ」という事を、皆に知らせるために彫刻されたのが、いつのまにか拝む対象物となってしまって、拝めば救われる、という事になってしまってしまったのです。

お経も、「お釈迦様はこの様に教えられました」と、私達が日常生活に実践する心のあり方が書かれてあるのに、いつのまにか、何べんでも沢山、回数多くあげれば救われる、というようになってしまいました。

それはみな間違いであります。
竹林精舎、祇園精舎には仏像もお経も、無かったのであります。

また、天地宇宙を創造された神が、人間が手でこしらえた、小さな形あるものにしかいられない、と考えることもおかしなことです。
神は天地宇宙に遍満していられ、また我が心の内にあるのでありますから、人間がこしらえたものを神仏として拝む必要はないのであります。


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⑭ 正法の指導者は最初から(素直に信ぜよと説かない・「疑問を持て」と説く


最初から(素直に信ぜよ」と説く指導者は、正しくありません。

それは、説いている事に絶対の自信が無く、信者の質問に答えられないものがある事を、知っており、質問を封じるために言われている事が多いからです。
質問する信者に対して、「あなたが疑問を持つのは、まだ信じ方が足らないので、深く信じたらそういう疑問は無くなってきます。」という言い方は、どこの教団でも言っています。

このような言い方をされると、質問をする人は信心の足りない人だ、ということになりますから、大抵の場合、質問をしなくなります。

高橋信次先生は、講演の冒頭から、
「皆さん、私の話す事を頭から信じてはいけません。疑ってかかって下さい。疑って疑って、もうこれ以上は疑う余地が無いと判ったら、その時初めて素直に信じて下さい。」
と言っていられました。

「自分の所説は、絶対間違いがない」という自信があったら、「どんな人の話も聞き」「どんな教団の本も読みなさい」と言えるはずです。

無批判に、盲目的に狂信的に、「素直に信ぜよ」と説く教団は、邪教的要素があると思って間違いありません。

日本の各宗教団体の教祖、また代表が、「すなおに信ずるな」「疑ってかかれ」「外の教団の話も聞いて来い」と、勇気を持って言われるようになったら、日本の宗教界は正しい方向に向いて行きます。
そう言われない限り、日本の宗教界は明るく正しいものにはならないでしょう。


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⑮ 正法の指導者は、絶対に感情的にならない


正法の指導者は、心の安らかさが大事であることよく知っているので、絶対に感情的になりません。

「腹を立ててはいけない」と説きながら、周囲のものに忠告されると、すぐ感情的になって腹を立てるようでは、心が出来ていません。

一般社会では、媚びへつらう者が、ともすれば優遇されることがあったとしても、宗教界ではそういう事が、あってはならないと思うのです。

宗教の指導者は、一般社会人と違って、人の心の在り方を指導するのを、専門としているのでありますから、どんな時でも感情的にならないように、自由自在に自分の心をコントロール出来なければいけないと思います。

そこまで完全に出来ないにしても、それを目指して精進している謙虚さは、示すべきではないかと思います。


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⑯ 正法の指導者は悟ることの真意と悟りへの具体的な道を示す


お釈迦様は(宇宙即我」を悟られ、悟りへの道として「八正道」を説かれました。
ですから、仏教教団はみな「八正道」を説かなければなりません。

「八正道」には「正定」があります。

「正定」とは禅定であり瞑想でありますから、お釈迦様の教えを説くには、正しい禅定、瞑想の仕方を説かなければなりません。

キリストも瞑想を教えられました。

心の成長と悟りを自覚するには、禅定瞑想以外にありません。
禅定瞑想をせずには悟りは得られません。



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