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海の夜明け~Our daybreak~45




海の夜明け~Our daybreak~45 【二章―12】


昨日が晴香による虐めが始まってから二週間目だったことに、気づいた悠里だが認めるには強さが必要だった。悠里は晴香の奇行による被害を受けても、耐えていた。人として十分すぎるほど強かった。

今日でいじめられてから、十三日目を迎えた。だが朝起きても、昼になっても、夜になっても何も起こらなかった。そしてとうとう就寝前も、何も起こらなかった。それどころか気配すらなかった。この日は虐められることも、命を危険に脅かすこともなく、普通に過ぎていった。ただ、孤独な一日として。
【悠里十羽、ヨネさん九羽】





次の日に待っていたのは、昨日何もしなかった分虐めようという考えが分かるほど、過酷なものだった。
朝食に行くといつもの面々が揃っていた。亮太はいつも通りいない。恐らく寝坊しているのだろう。悠里は毎日のことだと思いながら、開いている席を探して座る。

ヨネさんが顔を出して温かい味噌汁とご飯、出し巻き卵を持ってきてくれた。少し哀しそうな目の色をしているのが、引っかかった。晴香達の企みを知っているのかもしれない。


「いただきます」
「なるべく早く食べた方が……良いよ」
「え、早く食べるの?」


後ろを確認しながら、ヨネさんが小さい声でぼそぼそ言った。それは警告だろうと推測した。もしそうなのであれば、朝食が食べられなくなる前に少しでも多くかきこんだほうがいい。悠里は震える右手で箸を持ち、左右に揺れ動く茶碗に顔を埋め、必死で食べ始めた。


「ストップ」

来た、そう思ったときには晴香の影が悠里の視界を暗くさせていた。たかが影なのに、その影響力は凄まじかった。何をされるか分からないという不安と焦りが、一気に心を満たした。
悠里は茶碗と箸を静かに置き、晴香が怒るのを避けようという心の現れだった。


「ちょっと提案があるの。聞いてくれる?」
「……」


何も言わないということは、素直に従うことだ。悠里は暗くなった味噌汁を見つめる。怯えた目は、力尽きた死人のように力が無かった。


「三十秒以内に食事してほしいんだ」
「……もう、やめてよ……」


悠里が救いを求めるとは思わなかったらしく、晴香は狼狽えた。
悠里自身、そんなことを口走るとは夢にも思わなかった。真由と穂波は晴香の後ろで、お互い寄り添うように立っている。晴香の命令に逆らえない様子だ。


「私だって、嫌だよ……。どうして嫌われると分かってることをするの? でも、しょうがないんだもん……“分かんないから”」
「……わ、分からない……?」


珍しく弱気で、キッカケさえあれば泣きそうな勢いの晴香を前に、今度は悠里が狼狽える番だった。事態は大きく動こうとしている。だが事態が激動すると、余計混乱することは自明の理だった。

悠里はその時“全てを悟った”。ゆえに、晴香の奇行も頷けた。きっと晴香は、自分で自分のしていることが恐ろしいのだ。
人格が変わる瞬間は今まで垣間見ていた。あるときは恐ろしい形相で悠里に指示し、またあるときは“置き去りにされた子供のように”哀しげな顔をし、はたまたあるときは本来の晴香になる。まるで性格が回転しているようだ。
その忙しない性格の移動、変化、周囲の反応。一番辛かったのは――“晴香自身”なのだ。

悠里は全てを悟った。晴香の行動、意思、全ては晴香の本心ではなかったことが、これで明らかになった。


「やりなさい! 三十秒以内で食事! 早く!」
「は、はい……」


晴香が体を大きく仰け反らせながら、穂波に指示をした。
「穂波、タイマー! 三分にセットして、今すぐ! 穂波もテキパキ働いてよ」

寒気が走る穂波だが、ここで反論すると自分にとばっちりを食うため、何も言わないにこしたことはない。今の晴香は極めて危険だ。


「みんな、ごめんねー……私迷惑かけてるねえ」
「……どうしたの、晴香……?」


そう思ったら今度は、本来の晴香に戻っている傾向だ。今日は何かがおかしい。
もし晴香が不完成の人格で育てられていたとすれば、納得がつく。
お父さん、愛する人、奪った、誰かが――? 晴香の言葉の端端に、歪んだ過去を表す言葉が散りばめられていた。


「……悠里、何考えているのよ。三十秒以内に食事しないと、朝ごはん抜きになるよ」

晴香は明るく嬉しそうに微笑みながら、机を軽くトントンと叩く。伸びすぎた爪の先が尖り、それが軽快な音を生み出す。穂波があくせくタイマーをセットするのを冷酷な目で窺っている。その視線が手元へ映ると、穂波はますます焦り始めた。

「貸しな。もたもたしてんじゃないよ。さっさとしな。よーい、スタート」


晴香の声がスタートを告げ、タイマーのスイッチが押された。悠里は急いでご飯を食べ始めた。生き延びるための方法は、胃に入るだけ詰め込んでおくしかない。
急げ――急ぐんだ。生きるために。晴香を戻す為に。





午後はゆっくり過ぎていく。もちろん人生もゆったり動く。
だが今日はまさに激動の人生の渦中にあったと言っても過言ではないような出来事があった。だがそれも過ぎ去ったこと。今はただ風に当たる午後を楽しむだけ。

その日の午後、晴香と穂波と真由は久久に秘密基地へと来ていた。
五人で協力して作った秘密基地。森の端の木に作られた秘密基地は、五人の仲良さを象徴する建物でもあり、またそれによって崩れ始めた関係を表す建物でもあった。

晴香を先頭にスルスルと上り、基地で輪になり座った。

「気持ちいいねえ」
「そ、そうだね……」

ここに来た時に話す話題と言えば、そう言う話しかないのだ。適当に相づちを打っておく真由。


「そろそろ、飽きてきたねえ」
「……な、何が?」


不思議そうに晴香を覗き込む真由は、晴香の異常を汲み取っていた。その目は気味悪いほど三日月形に形作られ、その縁には恨みの残滓が残っている。


「悠里に――麻薬させてみよっか」
突如、晴香の口から出たのはとんでもない言葉だった。





晴香の提案が波紋を起こしているとは露知らず、亮太は自室でギターを弾いていた。父の遺品のギターで演奏することに気が咎め、なかなか弾くことが出来なかった。だが水川に愚痴を言ったおかげで、心に蓄積したものが、長年の時を経てようやく吐き出された気がした。だからこそ、ギターを弾く気が起きたのだと亮太は確信する。

「海へー、さあ川へー……うーん、沖縄って川より森かな?」
先ほどから悠里に宛てる曲を、作詞作曲しているのだ。

そう思い立ったのも、悠里の言動がつい二週間前ほどからおかしいからだ。
本人は隠しているつもりだが、亮太には何となく分かっていた。元気がなく、足に鉛をつけているかのように歩く姿、背中を丸め俯いて溜め息ばかりついている。
そんな悠里を放ってはおけなかった。だが、そんな時――悠里を助けたいと思うときに、ヨネさんと水川に抑えられていた。あの子は大丈夫だから、君が出る幕ではないといつも制せられるのだった。
不思議に思っていたが、それなりの事情があると思い、なすがままになっていた。


それでも亮太は、止められたくらいでやすやすと引き下がるようなことはしない。亮太は強く決めていた。
悠里に歌をプレゼントしよう。言葉で伝えるより、歌のほうが何倍も強く通じ合う事が出来ると思った。
出来ればその時に悠里が“目が離せない唯一の人”だということも言いたかった。

「あるけれどー君のそばに……」

その後も亮太は作詞作曲に時間を費やすのだった。





その途端、今まで黙っていた穂波が、立ち上がった。
「……あんた何言ってんの! よく聞いて……麻薬は使っちゃ駄目なの。その人の人生を壊す――ううん、その人を殺すも同然。その人の家族も壊してしまうのよ!」
急き込んで話す穂波を前に、晴香はそう驚きもせず緩慢な動作でむっくりと起き上がった。


「何焦ってんの? あんたそれでも良いの? ――自分が犠牲になるよ?」
「それでも良いよ」
「そりゃ驚いた。悠里程度の人間を庇って、自分が殺されても構わないと?」
「うん」


のほほんとして何も考えていないように見える穂波が、これだけはっきりと言ったことは初めてかもしれない。


「もし麻薬を使うようなことがあれば、 “私が”晴香を殺す。悠里にそういうことをするならば、私が殺される前に晴香を殺すよ」
「……な!」


何か強い決心をしたかのように、引き締まった顔には、迷いも後悔の色も見えなかった。穂波は本気だ――。


「……ほ、穂波……ここは、穏便に……」
「駄目。穏便なんかじゃ……晴香は調子に乗っているよ。私達が何も言わないと思ったら大間違いだからね。いくら晴香でも、これだけは許せないよ……私は“本気”だからね」


真由の止めにも効果はなく、穂波はきっぱりと断言した。穂波が“本気だから”と言わなくても、その言葉の力、目の鋭さから見て取れる。

風が頬を撫で、過ぎ去っていくのが気持ち良いと取れたのは昔の話。今はもう、それさえも自分を壊す材料に思える。何も触れないでほしい、刺激しないでほしい。

真由の心もズタズタになったように、穂波も身を引き裂かれるような思いだったのだ。ただそれを言葉に表せなかった、ただそれだけのことだ。
これで晴香も“全て心を入れ替える”と思ったが、爪が甘かった。

「あっそ」
一文字だけ言うと、すっくと立ち上がり穂波に体を向けた。無言でにらみ合う二人。


「麻薬は中止だけど、明日は水曜日よ。スノーケリングの日。丁度いいチャンス。それなら良いわよね? 私にも覚悟があるわよ。もし穂波が本気なら、私もあなたを殺すことだって出来るんだから」


鼻でフッと笑うと、階段を下りていった。一人で帰るつもりらしい。森を出てスクールへの坂を歩き始めた。真由と穂波は顔を見合わせ、無言のまま手を繋いだ。
【悠里四羽、ヨネさん二羽】





「――注意してね」


第一声がそれだった。喧嘩腰か、それともはなから諦めているのか。どちらとも区別がつかないような物言いの水川は、いつもよりも心配そうだった。
今までの優柔不断のつかない行動の数々と比較しても、成長していないことがありありと分かる。だが悠里は一切苛立ちも、苦しみも、憎しみも湧き出なかった。当然のこととして受け止めていた。


「今日はスノーケリングがあるから、きっとあの子たちも行くに違いない。スクールの方針通り全て自由だから、強制して行かせないことも、無理に行かせることも出来ない。もし悠里ちゃんが行くなら、あの子たちも行くと思うよ。目的は悠里ちゃんを――水中で」
「溺れさせることでしょうね、きっと」


水川の言いにくそうな表情から、次の言葉を推測した悠里は、何の感情も表さずに言った。

悠里は水川に呼び出されて、管理長室にいる。今日が水曜日だということは、もちろん承知していた。水曜日はスノーケリングの日。水川が提案したアイディアだった。だから話の内容は大抵「注意しろ」関係だと思った。予想していた言葉そのものが返ってきた。

水川は悠里が言ったことが意外だったのか、それとも溺れさせるという言葉が意外だったのか、目を瞬かせ首を傾げて考え込んでいたが、パッと顔を上げた。


「うん、だから――」
「気をつけます」
「……決意したのかね? 死ぬ事に。それとも、あの子の異常に気づいたのかな?」
「前者とも、後者ともいえません。決意もしましたし、気づきもしました」

キッパリとした口調で、寸分の迷いもない悠里に水川は苦笑した。
「何かおかしなことでも?」
水川の笑いが、嘲笑に聞こえた悠里は苛苛している。


「いや――ただ、あの子の異常を知ったうえで付き合うのかね? どうしてスクールから出ようとは思わなかったのかな? それが不思議だ。僕ならすぐに去るだろうからね」
「学園ドラマの主人公みたいですね、今の私は。だけどね水川先生。物事はドラマのように、上手くいかないのが当然。あれは所詮視聴率を上げるための綺麗事。言っておきますけどね、私が残っても晴香が変わるとは思っていませんよ。そんなに上手く行くならば、今まで苦労していません。でも、変わらないと分かっていて残ったのは」
「自分であの子を変えさせる、という強い心かな?」


水川は先ほどまでの笑いを抑え、至極真剣な表情だった。


「そんな愚かなことは言いません。あなた達でさえ変えられなかったのに、私のような小娘が少し頑張ったからといって、変えられるほど軽い症状とは思えません。ですが、それならそれで良いのです。晴香の異常に気づき、死を覚悟してもこれが運命ならば仕方ありません。それに私には帰るところがありませんしね。それが最大の理由かもしれません」


スノーケリングの話題がここまで広がるのは想定外だった。悠里は水川やスクールに対する体制が、間違っていると言っているのだ。抑えているつもりだろうが、言葉からは「お前らの所為だ」というオーラが剥き出しだ。
水川とて、誰も死んでほしくはない。たとえ、誰かを死に追いやった人間でも、それが本心でないならばその人間に責任を負わすことが出来ない。全く非がないわけではないが、全責任があるわけでもない。


「そうか。ここに居たいのであれば、居ても良い。だけどこれだけは憶えておくんだ。君が自分の命がいらないと思っていても、それを守りたい人だっている事を」
「今更綺麗事ですか」
「だね。今更言っても遅いかもしれないね」
「だったら口出ししないで下さい」


そう言うと、悠里はソファーから立ち上がり闊歩して部屋から出て行った。ドアを閉める音が、悠里の怒りをそのまま表現していた。
いつも以上にぴりぴりした雰囲気で、亮太と同じように食ってかかる態度の悠里に水川は押されていた。あそこまで決意を固めているとは思いもしなかった。
そろそろ“私達も決意を固めるときかもしれない”。






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