叔父の死
叔父が死んだ。数年前から調子が悪かったとはいえ、危篤の知らせからわずか数時間でこの世を去った。苦しまなかったと思う、思いたい。父方の兄弟は5人、その叔父は4男で彼までは台湾で子供時代を過ごしていたという。叔父は台湾が好きだった。「人情味のあるいいところだ」ことあるごとに言っていた。「海も山も川も森も美しいよ」目を細めながら懐かしんでいた。「もう一度行ってみたい」私が子供の頃からそう言い続けていた。その叔父がもう十年ほども昔だがやっと台湾を訪ねることになった。「山も海岸線も変わらない」機上から眺めてそう言っていたという。叔父が台湾を訪ねると聞いたとき、私は正直こう思った。「思い出は思い出のままのほうが綺麗なのではないか」「戦争のことでいろいろ言われて思い出が壊されてしまうんじゃないだろうか」打ちひしがれて帰ってくることになったら・・・と密かに心配した。一週間ほどの滞在で叔父は帰国した。私は恐る恐る尋ねた。「どうだった?」その中には嫌な思いをしなかったか、という私の危惧が混ざっており、叔父はその匂いを敏感に感じ取ったようだった。そして叔父は答えた。「昔のままのいい所だった。海も山も川も森も・・・街はだいぶ都会になっていたけどね。」それは私が聞きたかった答えではなかった。私の思考を読んだかのように叔父はこう続けた。「人情も変わってなかったよ。」そういった叔父の微笑みは、美しい思い出がそのまま残っていたことを明らかに示していた。叔父は子供時代に住んでいた街をたずねて行ったらしい。もう五十年も昔のこと、当然町並みも道も変わってしまっていたが、たまたま道で出会った通りがかりの人にこう尋ねたそうである。「五十年前のこれこれこういうところはどこら辺になるんでしょう?」まだ四十歳そこそこのその道を聞かれた人はこう答えてくれた。「私はわからないですが、祖母に聞いてあげますよ」通訳の人のその答えを聞いて、叔父は頭を下げて礼を言おうとした。その叔父を見て彼はにこやかに微笑みながらこう言ったという。「昔お住まいだったのですか、懐かしいでしょう。子供の頃住んでいたなら故郷も同じですしね、久々の帰郷なんですね。」その親切な人の家に案内してもらい、お祖母さんから大体の場所を教えてもらった後、お礼を言いながら日本土産の菓子を渡そうとした叔父にお祖母さんは言ったそうだ。「まぁ、日本のお菓子。子供の頃は・・・・」少し片言ながら日本語で思い出を話し始めたお祖母さんと叔父は一時間近くも話し込んだという。「お引き止めてしまいましたね」お祖母さんはそういうとここまで案内してくれたお孫さん(親切な人)に「ご案内してあげなさい、道など変わってしまってるから迷ったら大変」すでに助けていただいてるし、これ以上手間と面倒を掛けるわけには、と固辞しようとする叔父に、「故郷を訪ねてきた方を粗末になど出来ませんよ」とそのお祖母さんは優しく微笑んだという。ならせめてガイド料を、と食い下がる叔父に「いえいえ、古いお友達が久しぶりに帰ってきた時にお金を取るようなものはこの辺りにはいませんよ、ご遠慮なさらずに」叔父はその言葉にここは本当に第二の故郷なんだと思わず涙を流したという。「人情はぜんぜん変わっていなかった・・・」遠くを見るように語る叔父の目にうっすらと涙が浮いていたのは今でも記憶に残っている。叔父は死ぬ前の数時間、きっと美しい台湾の思い出の中にいたのだろう。その思い出が子供の頃の台湾だったのか、現代の台湾だったのかは誰にもわからないが、たとえどちらの思い出であっても叔父は安らかに、眠るように逝くことが出来たはずだ。私はこの話を叔父から聞いて以来、台湾に特別な感情を持っている。そこはかつて間違いなく日本人を受け入れ、そして今でも温かく迎えてくれる土地、そしてそういった心豊かな人たちの住む土地なのだと。叔父の好きだった台湾が平和のうちにあらんことを、かつてそこに住んだすべての人たちとともに祈る。叔父の魂が永遠に美しい思い出の中で眠れるように、日本がそう在れるように私はこれからも微力を尽くしながら生きていくことを、いまここに誓う。さようなら叔父さん。