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還暦雲巣管理人独言(還暦を過ぎたウエブマスターの独り言)

還暦雲巣管理人独言(還暦を過ぎたウエブマスターの独り言)

オレのヒーロー・中西清明選手





「オレのヒーロー・中西清明選手」




 1949年5月にデビュー戦、1960年12月9日、対島村謙三戦で、

8R、TKOで敗れるまで、実に102戦戦い、その戦績は60勝(21K

O)32敗8分1負傷引分5エキジビジョン・マッチ、そして日本で唯一つ

の記録、彼を語る上で欠かす事のできない、無類のハードパンチャー、必殺

の左フックを持ちながら、打たれ弱さ、打たれもろさを併せ持つボクサー、

まるでその事を証明するかのような、ダブルノックアウトの記録、1951

年1月14日、大阪公会堂で行われたフェザー級8回戦、対 宮本 昇戦で4

回に両者の右パンチが同時にヒット、両者倒れたまま、この回の55秒にカ

ウントアウトされダブルノックアウト(結果はドロー)、オレが好きだった、

そのヒーローのボクサー・中西清明選手、このボクサーの事を書くには、彼

の生涯最後の試合、102戦目の事から書き出さねばならない。


 彼のボクサーとしてのピークは1950年代の中ごろであった、1956

年8月30日、不利との予想ながら、大川寛選手との死闘の末に日本フェザ

ー級チャンピオンの座に君臨、翌年同選手にタイトルを奪われる、これと前

後して同級のライバル金子繁治選手との4度にわたる死闘、特に4度目の対

決になる、1957年6月14日、 金子繁治選手への東洋フェザー級タイト

ルに挑戦、4R、TKO負け、この試合は最早燃え尽きた感のある試合であ

った、結婚し、1女が生まれ、リングにグローブを置く時期が確実に近付き

つつあったが、しかしその後3年余り、10数戦戦った、彼の奥さんは、彼

がリングに上がり続けることには、愛するが故の、もし万が一に、リング上

で不慮の事故、それを考え、猛反対であった、しかし強打と打たれ弱さを併

せ持ち、そして輝かしい戦績と、根強いフアンを持ち、魅力的な存在のボク

サーでもあり、大型新人のデビュー戦や、新鋭の出世試合など、ある種の意

図を持って組まれる試合の対戦相手としては、格好の選手でもあった。


 そして迎えた102戦目の島村謙三戦、結果は8R、TKO負けであった、

しかしその後の彼に待ち受けていたものは、リング上での戦いよりもはるか

に残酷で、悲劇的で、余りにも悲しく、絶望的でな出来事であった、疲れき

り、身体のいたるところにダメージを負い、精神的にも打ちひしがれた彼を

迎えたのは、最早、二度とお帰りなさいの労いの言葉をかけることのない、

美しい、優しい、最愛の妻の変わり果てた姿であった。


 彼がリングに上る時はいつも、危険な場所に我が身を置いてしか戦えない、

己を捨てて戦いに挑む、最早ボクシングというスポーツと呼ぶには相応しくな

いほどの雰囲気を漂わせ、その思い込みこめたような眼からは、青白き光を放

ちリングで102戦も戦い続けた、その彼を襲ったリング上では経験出来えな

い、102戦目の戦いと引き換えに、最愛の妻の命、というこの上ない過酷な、

悲劇的な、絶望的な出来事、彼のその時の心中は想像を絶し、他人には到底計

り知れない程の、悲しみと、後悔と絶望であったと、想像できる。


 この後、彼は二度とリングに上ることなく、ボクシングジムを開くが、暫く

して後輩にジムを譲り、日本フェザー級のチャンピオン、石原裕次郎主演の映

画、「勝利者」にも出演、日本ボクシング界の語り草になるほどの、幾多の激

闘、それらの全てを心の奥の奥底に、仕舞い込み、鍵を掛け、封じ込め、自ら

のボクサー人生に「テンカウント」を鳴らし、小田原市の清掃会社の職員とし

て平成元年頃まで、地道な仕事を彼なりに精一杯勤め上げ、平成10年、63

歳で生涯を閉じることになる、又、その間に最愛の妻が残した一人娘さんも、

24歳の若さで、結婚を間近に控えての交通事故で他界、現役時代のボクサー

としての彼は、オレの心の中ででは、偉大な記憶に残るボクサーであった、し

かし最後の試合の日に最愛の妻を亡くし、その大きな悲しみから立ち直り、一

人娘さんを育て上げ、その彼女までが一足彼よりも先に妻の元へ旅立ち、大き

な耐え難い悲しみと、生きている限り潜り抜ける事の出来ない絶望感を背負い

続けての、地味な報われない清掃の仕事を死ぬまでやり遂げた引退後の人生、

その生き方に、ボクサーとしての現役時代以上に、一人の男としての偉大さを

感じずにはいられない。




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