カテゴリ:靖国雑考
まったり氏の曇りのち晴れ 靖国を考える(本稿)のコメント欄より、まったり氏より
>さらっと読ませていただきましたが、アリサンさんは >靖国は対外的にまたは対内的に変えるべきか、否か。 >また公式参拝はするべきか、否か。などなど。 >靖国に対してかなりの見識をお持ちと察しましたので、 >まとまった形でのご意見も是非お伺いしたいと思います。 とのコメントをいただいた。かなりの見識といわれて悪い気がするわけがない。よぉしこりゃいっちょやったるかと、思いつくままに筆を走らせて見る次第となった。 だが、いろいろと考えるうちに、どうも表面的なことを申しあげても、私の言いたいことがいまいち理解できないのではないかと思った。なぜなら、私の靖国観は私の神道観とも密接に関係しており、それを抜きに語っても水掛け論になってしまうであろうからだ。よってまずは私の神道観についてざっくばらんに書き連ねていきたい。 ただ、なにぶん記憶を頼りに適当に書き連ねるので事実誤認があるかもしれない。また、わたしは神道について専門的に研究したこともなく、ただ本をざらっと1,2冊読んだ程度のことであり、根本的に間違った解釈の元論理を展開しているかもしれない。そうであるならば、そっとやさしく教えてください。 あ、言葉遣いについて一言申しておくと、ですます調でやるのもいいが、文字数は長くなるし、堅苦しい、なにより私が落ち着かない、文章を読み返す気がなくなる、などの避けがたい理由によりあえてこの調子で行きたい。行き過ぎた表現はできるだけ気をつけるが、万一「これはいいすぎじゃねぇの?」とお思いの点がありましたらコメント欄でご指摘願いたい。「そもそもこんな文体でいくんじゃねぇよ、何様のつもりだ!?」などとお思いの方はどうぞご遠慮なさらず、モニター越しにお殴りください。 1.私の神道観 ・一神教の神様と多神教の神様 まず、神とはなんなのか。少なくともキリスト教などの一神教における神様と我が国の八百万の神々とはまったく異質である。一神教の神様はまさに全知全能の「神」であり、絶対的に善なる存在である。なんびとたりとも神を否定することはできないし許されない。もし否定するものがいればそいつは「悪魔」の手先である。 ところが、日本の神様は欠点だらけだ。日本をおつくりになった神様は男女二人であるが、子供作ってそれぞれに役割をお与えになるなど涙ぐましい努力を続けておられる。しかも、できのいい子、悪い子までいる始末だ。さらには子供たちの間で骨肉の争いまでやってのける。別の話では、天照大神は臣下の神様たちが口げんかしてるのに嫌気が差して引きこもってしまったりもする。神様の職務放棄である。臣下の神様たちはこれに困り、引きこもったほこらの前で宴会をやっておびき出し、顔を出したところで引きずり出している。職務放棄して引きこもってしまった天照大神もあれだが、宴会が楽しそうだからと様子を見ようとしたのもまぬけである。「お前らほんとに神様か?」と疑いたくなる低俗ぶりだ。 このように、日本の神様達は楽しいことが大好きで、他人をねたみ、嫌になると庶務放棄して引きこもってしまうという、とても一神教の神様から見ればきわめて不完全な神様たちなのだ。 ・社の意味と役割 こんな不完全な神様達に日本人は熱心にお参りする。元旦ともなれば初日の出(天照大神)を見ることに熱を上げ、人がいると分かっているのに神社に出かけ、我先にと賽銭を投げつけて勝手なお願いをして帰っていく。神様同士でも憎しみあって殺し合いをし、楽しいことが大好きな怠け者神様達は、人間達の勝手な願いを聞いてくれるほど律儀なのか、と思えば、まぁそんなことはないだろう。きっとそんなのおっぽり投げて、楽しく宴会をしたいに違いない。ところが、出雲大社にいく神無月以外はきちんと自分の受け持ち部署の神社に腰を据えている(のだろう。わざわざいなくなる月を明記しているのだから)。なぜなんだろう。 話は変わるが、太宰府天満宮という神社がある。学問の神様として菅原道真公が祀られている全国的にも有名な神社だ。ここでふとした疑問がわく。なぜ人間が神様として祀られているのだろう、と。有名な話ではあるが、今一度ここで簡単に確認したい。菅原道真は平安前期の貴族で、中央の政争に敗れ、大宰府に流され、そこで失意のうちに没した。太宰府天満宮にはこのときの恨み節の和歌まで残っている。さて、そのころ京では天変地異が相次いだ。日照りやら落雷やら、それはもうひどいもので、皆々道真公の呪いだと噂しあった。朝廷は呪い殺されてはたまらんと大慌てで道真公の墓の上に社を建てたのである。祀り上げるといえば聞こえがいいが、ようは封印してしまったのである(と私は解釈している)。 さて、結局何がいいたいかというと、社というのは神様をひとところに留める機能があるのではないか、ということだ。あっちこっちに好き勝手に遊びまわりたい神様に願い事を聞いてもらうため、無理やり社に押し込めるのである。もちろん相手は神様だから、社だけではなんともしようもない。そこで収穫物やお酒を収めることで機嫌を良くしてもらって、願い事をすかさずお願いし、叶えてもらうのである。神様としても、遊びまわりたいが先立つものがなければ遊べない。そこでせっせと職務をこなすのである。まぁ私の実感としてはサボってる気がしなくもないが・・・・・・(ボソッ) もちろん、なかには罰当たりな人間もいる。賽銭泥や賽銭受けに小便などから、鳥居や社を破壊する不貞の輩だ。もちろん神様は不完全だから、怒り狂う。これが天罰だ。一神教では天罰の類(災害や疫病など)は悪魔の仕事だが、神道では何のことはない、神様自身が気まぐれでやってしまうのだ。だからキリスト教は教会に行って「神様助けて!」とお祈りするが、日本ではありったけのお供え物と礼儀を以って「神様どうか怒りをおおさめくださりませぇ~」とお祈りする。悪魔のせいとかそんなことは言ってられない。悪魔のせいなら悪魔をお祭し、ご機嫌を取らなくてはならない。 もちろん、キリスト教にも神様をないがしろにすると天罰が下るよ!といったことはいわれているだろうが、基本的に悪いことは悪魔のせいだろう。少なくとも日本の八百万の神々よりはずっと安定したお心を持っておられるはずだ。 ちょっと話がそれてしまったが、ようするに社は神様のやる気を出させるための家なのだ。住んでくれと懇願し、お供え物を捧げ、ご機嫌になったところですかさずこちらの要望を伝え、神様は願いを聞き、叶えてくれるのである。 さて、あまりに長くなってしまったのでいったんここで区切り、靖国についてはまた別項でお話したい。 まとめ ・日本の神様はじつにいい加減である。 ・神と悪魔、といった二元論は日本の神道には存在しない。 人知を超えたすごいもの=神である。 ・社は封印するために建てられる。 同日15:23加筆修正 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2005.05.23 15:39:57
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