啓二の旅立ち
啓二の旅立ち
カーっと真夏の太陽光線が渡久地の浜辺を突き刺す。
小石なんか粉々にしてしまうような太陽の強烈な熱光線。
汗はぷわぁーっと出ていく。
空は真っ青。
最上の真っ青。
入道雲はきんきんと真っ白に輝いている。
啓一と博一は小学六年生。
淳二と幸助は小学五年生。
啓二は小学三年生。
啓二は啓一の弟だ。
啓一たち五人の少年は二時間以上をかけて、渡久地の浜にやって来た。
渡久地の浜で魚を釣るのだ。
五人は渡久地の浜から遠く離れた農村の少年たちだ。
山や川で遊ぶのが物足りなくなってきた夏休みのある日、
啓一たちは渡久地の浜で魚を釣ることを思い立った。
少年たちの夏休みの大冒険。
渡久地の浜に着いたとたん、
海の香りがぷうんとした。
だだっ広い白く輝く砂浜に立ち、だだっ広い海の向こうからやって来る潮風の香りを胸一杯に吸った。
山の香りとは違う海の潮風の香りだ。
潮風の香りがすると、おお、やっとこさ海に来たぞっていう喜びが湧いてくる。
啓一は六斤缶を抱えている博一と波打ち際に歩いていった。淳二と幸助も二人の後に続いた。啓一や博一や幸助は去年の夏も渡久地の浜に来たが、小学三年生の啓ニだけは渡久地の浜に来るのは始めての経験だ。生まれて始めての渡久地の浜だ。渡久地の浜の入り口は岩や石がごろごろしていた。啓二は九才。啓一たちより年下だし、体力がなかったから、四人のように一面に小石が点在している砂浜をうまく歩けなかった。啓二は転びそうになりながら四人の後ろをついて行った。
博一が脇に抱えている六斤缶の中には五個のさつま芋が入っていた。さつま芋は渡久地の浜に来る途中で、芋畑から失敬したものだ。うまく魚を釣ることができれば、焼き芋と焼き魚が彼らの昼飯となる。
「さあ、芋を洗おうぜ。」
波がぴちぴちと少年たちの膝を叩く。
啓一と博一は六斤缶からさつま芋を取り出し、海水でさつま芋を洗った。芋から離れた土は海水の中で煙のようにゆらゆらと広がっていく。
「さあ、あーまんを取りに行こう。」
啓一は洗った五個のさつま芋を六斤缶に入れてから、皆んなに言った。あーまんとはやどかりのことだ。あーまんの殻を石で叩いて割り、あーまんの腹をちぎって釣りの餌にする。小麦粉と缶詰のさばを混ぜてねり餌で魚を釣る方法もあったが、小麦粉やさば缶詰を買う金があったら飴玉かお菓子を買って食べている。戦争が終わってからまだ十年。豊かな生活からは程遠く、子供たちはみんな飢えていた。山に行けばギーマやパンクーやクービーやバンシルーなどの木の実を食べ、川に行けばフナや毛蟹やざりがにを焼いて食べ、海に行けば魚を釣って食べていた。家から食べ物を持ち出すことができないその時代の子供たちの野や山や海での遊びは、空腹を満たすために自然界の木の実や魚などを捕まえて食べるという、サバイバルな遊びになっていた。
農村の子供たちにとって最高の獲物は海の魚であった。川魚とは違い泥臭くなく、味はまるで調味料を使ったようにうまかった。海の魚は家の食卓でも滅多にお目にかかることのできない最高のご馳走である。五人の子供は海に最高のご馳走である海の魚を食べにきたのだ。 魚を釣って楽しむのではない。魚を食べるために釣るのだ。魚を釣って、火を起こして食べごろに焼き、そして食べる。その一部始終が戦後の貧しい時代の子供の遊びであった。
「あそこにいっぱい居るよ。ついてこい。」
リーダーの啓一が歩き出した。他の四人は啓一の後ろについていった。啓二は石ころの多い浜辺をよろよろと、ひとりだけ遅れてしまう。
沖縄戦の時、アメリカ軍は渡久地の浜から上陸をする前に、ものすごい艦砲射撃をやった。アメリカ軍の艦砲射撃で崖が崩れ、崩れた大小の岩が浜に落ちて浜辺を覆った。啓一が皆を連れて行ったのはその浜辺だった。
浜辺には多くの岩や石がごろごろ転がっていて、その岩や石の間には多くのあーまんが住み付いていた。四人は海に入り、あーまんを探した。あーまんは小さいと釣りの餌に使えない。親指と人差し指を丸めたくらいの大きさ以上でないと駄目だ。あーまんの群れの中から釣りの餌に使えるあーまんを探すのはけっこう難しいのだ。四人があーまんの群れの中から、釣りの餌に使えそうなあーまんを一つ二つ拾い始めた頃に啓二はやっと追いついてきた。そして、啓二も海に入った。
波がぴちぴちと膝を叩いてこそばゆい。
海に泳ぐ目的で来たのなら、泳ぐのが目的だから海に入るのが好きである。でも魚を釣る目的できた時は、海水着は準備していないし海の中には入りたくない。着ている服を濡らしてしまうからだ。濡れた服を着ているのは気持ち悪い。啓一たちは川で泳いでいたから、波があり、水は塩辛いので海で泳ぐのは嫌いだった。彼らが海に来るのは、いつも魚を釣るのが目的だっから、あーまんを捕るために海に入っている時はできるだけ服が濡れないように気をつけた。
四人の膝の下まで海水に浸かりやどかり拾いをやった。膝以上の深みには、たとえ大きいあーまんが居ても捕りに行かなかった。膝の下なら、普通の高波が来ても波は太ももの中ほど高さで止まる。だから半ズボンが濡れることはない。半ズボンが濡れるぎりぎりまでの場所であーまん拾いはやるものなのだ。
遅れて来た啓二も海に入り、あーまんを探し始めた。しかし、膝にぶち当たる波に翻弄されて、思うように歩けない。海の底は地上とは違って、目測と実際の位置がずれているから、うまく足を運べない、海底の石をよけたつもりが石を踏んでよろけてしまう。ところどころにあるくぼみも深さの目測を間違ってしまい転びそうになる。それにゴム草履を履いていたから、海水の抵抗でゴム草履が足から離れようする。ゴム草履が足から離れないようにしな足の指に力を入れながら歩くからますます進みにくい。啓二は歩を進めるたびに転びそうになった。それでも、啓二は懸命にもうもうの殻を棲家としているあーまんを探した。でもなあ、あーまん取りは始めてなものだから、まるっこい小石とあーまんの区別ができない。啓二が拾うのはもうもうの殻と似た小石ばかりだ。
「来たぞー。逃げろ逃げろ。」
と突然啓一が叫んだ。海の波はいつも同じ高さではない。たまに腰の高さまで達する大波がやってくる。だからあーまん取りをしている時も、沖の方に顔を向け、時々沖の方を見て大波の来襲に用心しなければならない。三十メートル沖の方からぶわーっと大波が襲ってくる。
「啓二、早く早く。」
啓二はなぜ兄たちがあわてて岸に向かって走り始めたのか理解できなかった。啓二は大波の存在を知らなかったし、沖の方を見てもいなかったのだ。啓二は兄たちがあわてて岸に走り出しているのを不思議に思って見ていた。
「啓二、波波。」
啓一は走りながら沖の方を指し、ぼけーっと立っている啓二に叫んだ。啓二が沖の方を振り向くとどあーっと大波が目の前。啓二はびっくりして逃げようとした。でも海水の抵抗の中をうまく歩けないからひっくり返ってしまった。ひっくり返ったところに大波がどわーっと来て、啓二の体をふあーっともち上げた。生ぬるい海水が啓二の体を包み、啓二はずぶ濡れになってしまった。
四人はそんな啓二を見て大笑い。啓二は海水がしみこんで重くなった服のままよたよたと岸に這い上がってきた。
「ああ、啓二。おまえ、明日は体がひりひりになるぞ。早く服を脱げ。」
啓一は啓二に服を脱がすと、博一とふたりがかりで啓二の服を絞った。海水に濡れた服をそのまま着けていると、服に海水の塩がこびりつき、塩が膚を痛めて翌日は体がひりひりするのだ。
高い波が引き、波が穏やかになったので四人は再び海に入り、あーまんを探した。啓二だけはあーまん取りをあきらめ、啓一の警告も聞かずに、浅瀬で海に浸かり、ばしゃばしゃ泳いで遊んだ。
「向こうの方に行こう。」
五人はあーまん取りの場所を変えることにした。岩場には期待していた程の釣り餌になりそうなあーまんは居なかった。四人が歩きだすと、啓二もびしょびしょの服のまま四人の後をよたよたとついていった。
「啓二。明日体がひりひりしても知らんぞ。」
と啓一は啓二に忠告したが、啓二は海に来たのが楽しくて、啓二に叱られてもにこにこしていた。
「ああ、しょうがないない奴だ。啓二、服を脱げ。」
啓一は文句を言いながら服を脱がすと博一と二人がかりで啓二の服を絞った。それから服をパタパタとはたいて海水を飛ばした。
啓一たちは渡久地の浜の南側の比謝川河口の方に歩を進めていたが、途中で、比謝川河口に近い浜に一艘のサバニを見つけた。サバニは長い綱につながれて岸から七、八メートル離れた海の上でゆらゆらと浮いている。岸には松材で作った帆柱やアメリカ軍用のテントカバーで作った緑色の帆や釣り道具、網等が日干しにされていた。サバニの近くに船主は居なかった。海岸や陸の方を見渡したが漁師らしい者は見当たらない。遠くの岩場で釣りをしている男がひとりだけだ。
啓二を除いた啓一たち四人はサバニを観察しているうちにサバニに乗りたくなった。四人とも舟に乗ったことがない。水に浮かぶ舟に乗るとどういう感じになるか味わってみたくなるのは啓一たちに限らず、子供なら誰にでもある好奇心がなせるものだ。
啓一は岩とサバニを繋いでいる太い綱を掴んでゆっくりと引っ張った。サバニがゆっくりと岸に近づいてくる。サバニの底が波打ち際の海底にぶつかった。幸助がへさきを掴んだ。四人はもう一度浜辺一帯を見渡した。岩場で釣りをしている大人以外に人の姿は見当たらない。啓一たち四人はお互いに顔を見合わせた。見知らぬ他人のサバニに乗るということは他人の家に浸入することに等しい。見つかれば叱られるだろう。サバニ乗りたいという欲望と見つかったら叱られるだろうという不安が四人の心を交錯し、お互いの目を見合わせていた。でも、サバニに乗ってみたいという誘惑が四人の気持ちは勝っていた。サバニの主は居ない。ほんの少しの時間ならサバニに乗ってもサバニの主に見つかることはないだろう。見つからなければ悪いことをやってもいいといいうのが子供の心理。
啓一は意を決して、サバニに乗り込むことにした。
「お前ら、しっかり掴んでいろよ。」
と言うと、啓一は両手でサバニの縁を掴み、サバニを自分の体に密着させた。
幸助と淳二は不安そうな顔で周りをきょろきょろ見回しながら綱を掴んだ。博一はサバニのへさきを掴んでサバニが沖に流されないように踏ん張った。サバニはへさきを軸にしてゆらゆらと左右に揺れる。啓一は恐る恐るサバニに乗り込んだ。啓一はサバニがゆらゆらと揺れるのでサバニの縁を掴んで中腰に立った。
水に浮かんだサバニは地上の馬車やバスとは違う動きをする。地上の馬車やバスなどの車は動きが直線的で、停止、加速、等速がはっきりしていて、しかっとしたのが体感できる。しかし、水に浮かぶサバニはぬわーっと移動し、サバニ本体もゆらーゆらーっと左右に揺れる。気味の悪い動きだ。啓一はサバニの不安定な気味の悪い動きに戸惑ったが、気味の悪い動きに気味悪さを感じるよりも、気味悪ささえ快感になり、サバニに始めて乗ったという喜びが沸いてきた。
「おお、すげえすげえ。」
啓一は始めてのサバニに感動した。
「僕にも乗せろよ。」
博一が言うと、啓一は興奮しながらサバニから降りて、代わりに博一が乗り込んだ。博一はすぐにサバニに慣れて両手でサバニのへりを掴むと左右に揺らした。
「おお、最高最高。」
サバニの主に見つかったらこっぴどく叱られるかも知れないと思いながらも、サバニに乗りたいという誘惑に負けて、四人は変わりばんこにサバニに乗った。臆病な啓二はサバニに乗るのが怖いらしく、不安そうに四人の行動を見ていた。
「お前も乗れよ。」
啓一が言うと啓二は後ずさりして首を横に振った。
「ちぇ、弱虫め。お前が僕の弟だと思うと情けなくなるよ。」
四人は次第にサバニの揺れに慣れ、サバニの船主に対する警戒心も薄れ、もっとサバニの乗り心地を堪能したくなってきた。啓一たち四人は岸に着いたままのサバニでは満足しなくなってきた。サバニに乗って岸からもっと離れてみたいと四人は思い始めた。サバニは綱で繋がれているから沖の方に流される心配はない。四人はサバニに乗り込んだ。啓一は係留している綱を掴んでサバニが岸から離れないように引っ張りながら、啓二を呼んだ。
「啓二、お前も乗れ。」
啓二は後ずさりをした。
「怖くない、怖くない。こっちに来いよ。」
兄の命令には強い強制力がある。啓二は恐る恐るサバニに近づいた。博一が啓二の腕を引っ張って、啓二をサバニに乗せた。始めてのサバニに足を下ろした啓二は足裏に奇妙な感触を感じた。家と同じ分厚くて堅い板の床なのに、サバニの床は土台がしっかりしていなくて、妙にゆらゆらと不安定である。家のびくとも動かない床とは全然違う。啓二は不安になって座り込んだ。
「さあ、出発進行。」
啓一は掴んでいた綱を離した。サバニはゆうっくりと岸から離れていく。ぴちゃぴちゃと小波が船体を叩く。ゆらーりと大きい波がサバニを揺らす。啓二は座りこんでいたが、啓一と三人の少年は中立ちで、小さな不安を抱きながらも、サバニが浜から離れてゆくのにわくわくしていた。やがて海の底が見えない深い場所にサバニは移動した。 サバニにがくんという衝撃が走り五人の少年たちは倒れそうになった。サバニが沖に流されるが止まった。岩とサバニを繋いでいる太い綱がぴーんとなって、次にぱしゃーんと海面を叩いた。それからサバニは綱が一杯になった状態で、波間をゆらゆらと揺れた。
「目指すはラバウル島。」
と啓一は右手を突き上げた。
「目指すは沖縄。」
博一も啓一を真似て右手を突き上げた。淳二も二人に次いで右手を突き上げた。しかし、目指す場所が思いつかない。啓一と博一は淳二を見て淳二が言葉を発するのを待った。
「目指すは南極。」
淳二は南極しか思い浮かばなかった。次は幸助の番だと三人は幸助を見た。幸助は困ってしまった。啓一と博一は軍艦に乗った積もりになり、太平洋戦争の軍艦の艦長になったつもりでいた。幸助はサバニを大きな探検船に見立てていた。ところが戦争話や冒険小説に興味がなかった幸助は三人がサバニを軍艦や大探検船に見立てているということを理解していなかった。とにかく目指す場所を言わないといけないと思い、
「目指すは公民館だー。」
と叫んだ。啓一と博一と淳二は幸助が陳腐なことを言ったので大笑いした。
笑い終えると、啓一は軍艦の指揮官になった気持ちで声を張り上げ、こぶしを振り上げた。博一と淳二と幸助もサバニに慣れてきて、それぞれが思い思いの船員になった。博一はサバニの櫂を海面に入れ漕ぎ出した。
「撃てー撃てー。バキューンバキューン。」
「ダダダー、ダダダー。」
サバニはすっかり軍艦になってしまった。啓二以外の四人は仮想敵との戦争に夢中になった。
「うおー。敵襲だー、敵襲だー。」
といって幸助は船を揺らす。少年たちはサバニに慣れるに従い、小さな揺れではつまらなくなり大きくサバニを揺らすようになった。
「戦艦大和が沖縄を助けに行くぞう。ドカーンドカーン。B29を撃ち落せー。ダダダー、ダダダー。」
「グラマンが来たぞー。ダンダンダンダン。
「ピューンピューン。敵機来襲、敵機来襲。ドバーンドバーン。」
四人の戦争ごっこは絶頂に達した。
啓一たちはサバニの船主に見つかったらこっぴどく叱られる恐怖をすっかり忘れ、遊びに夢中になっていた。啓一がサバニを足で揺らし始め、博一も揺らし始め、幸助もそれに参加した。啓二だけは泣きべそをかいてサバニの縁にしがみ付いていた。啓一と博一と幸助の歩調が合うようになるとサバニの揺れは次第に大きくなっていった。四人の少年の気分は最高潮。
三人がサバニを思いっきり揺らしていた時に、突然大きい横波がサバニを襲った。サバニは大きく傾き、サバニに海水が入ってきた。博一は掴んでいた櫂を波にさらわれてしまった。博一が櫂を取ろうと身を乗り出すと、サバニはますます傾き、そこへ再び大波が襲ってきてどどーっと海水がサバニに浸入した。
「うわぁー。沈むぞー。」
五人は恐怖に襲われ、啓二はサバニの縁にしがみついたが、啓一たち四人はサバニを立てなおそうと右左にそれぞれが勝手に重心を移動した。五人のバラバラな動きはサバニの揺れを収めるどころか、サバニをますます激しく大きく揺らしてしまった。三度目の大波が来て、サバニはひっくり返り、五人はどぼ―んと海に放り出された。
啓二は頭から海面につっ込んだ。ぶくぶくぶくと海中に沈み、海中で宙返りをした。海水が鼻の中にずずーと入ってきた。足が海の底に届かない。海の底はずうっと下にあるようだ。啓二は足のつかない場所で泳いだことがなかった。得体のしれない妖怪に引きずり込まれる恐怖が啓二を襲った。啓二は妖怪の恐怖から逃れようと必死に泳いだ。でも、思うように進まない。ゴム草履は足裏のかかとの所から離れたりくっついたりして、泳ぎの邪魔をする。波に流される。大波は啓二を浮かせたり、沈めたり。波に翻弄されて、岸との距離は縮まらない。啓二の頭の中はパニックにパニックだ。海中で身を屈めて、ゴム草履を手の方に移せば泳ぎが楽になるのに、頭がパニックしている啓二にはそんなことを思いつく余裕なんかなかった。ただひたすら岸に向かって泳ぐだけである。
「こらー。」
啓二以外の四人が岸にたどり着いた時、遠くの方から怒った声が聞こえた。四人は辺りを見回した。
「こらー。」という声が再び聞こえてきた。
北の方の岩場から一人の男が駆けてくる。
声の主を最初に見つけたのは幸助だった。幸助は走ってくる男を指さして、「あっちあっち。」と言いながら、東の方、比謝川上流の方へ走り始めた。漁師の財産であるサバニをひっくり返したのだ。サバニは使い物にならないかも知れない。捕まったらただではすまないだろう。警察に突き出されて、監獄に入れられるかも知れない。四人は大罪を犯した恐怖で一杯だった。
「こらーこらー。」と叫びながら恐ろしい剣幕で漁師は走って来る。
「こらー。」の声は四人をますます恐怖に陥らせた。啓一も博一も淳二も幸助の指さす方を見た。そして、幸助と同じ方向に後ずさりした。啓一たちは漁師が近づいてくるにつれて、小走りになり、漁師の足が速いのを知ると全速力で逃げ出した。予期しなかった漁師の出現に慌てふためき、まだ岸に辿り着いていない啓二のことを啓一も他の三人も忘れてしまっていた。啓一と三人は全速力で比謝川上流の方に逃げた。
もがきながら、あがきながら、啓二は岸に向かって泳いだ。波にがぶりと飲まれたり、横へ流されたり、海底の妖怪に足を引っ張られる恐怖に襲われながら、啓二は必死に泳いだ。数ミリ進み、数センチ進み、なんとか岸近くまで泳いできた。数メートル先に砂地が見えた時、もう足が着くだろうと、啓二は立ちあがろうとした。ところがズルーと体は海中に深く沈んでいった。頭が沈み、両手の先が海面から消えても足は海底に届かない。再び恐怖が啓二を襲う。啓二は手と足をばたつかせ、岸にたどりつこうと必死になった。海水をしたたかに飲んだ。足を激しくばたつかしたためにゴム草履は足から離れてしまった。ググーっと波が啓二の体を浮かせ、沖にさらっていこうとする。気が動転して、なにがなんだかわからないパニックに陥ったが、啓二の生への本能にはなにがなんでも岸に泳ぎつこうとする執念が宿っていた。波に翻弄され、海水が目をちくちく刺しても、目をかっと見開き、目指す岸から一瞬も目をそらさずに、啓二はひたすら岸に向かって泳ぎ続けた。
必死に犬かきをしていた手先が砂に触れた。指先に軽く触れている時は気づかなかったが、指の根っこまで砂が触れた時、海底が浅いことに気づいた。啓二は恐る恐る海底に足をつけた。海底は急勾配になっていて、ずずーっと深みにずれ落ちていきそうになる。大波が来て、啓二の体をふあーっと浮かせた。ふあーっと体が浮いた啓二は再びあわてふためいて必死に泳ぎ始めた。返しの波が啓二を沖の方へ連れていこうとする。ふんばってふんばって。ばたつかせてばたつかせて。啓二は必死に岸に這い上がろうと頑張った。引き波に抵抗して、引き波が去って、海水が膝あたりになった時、体をくの字にして、ざぶざぶと両足で海水を跳ね除け、ばしばしっと両腕で海面を掻き分け、やっと岸の波打ち際にたどり着いた。海面が足のくるぶしあたりになった時、啓二はたちあがった。たっぷりと海水を含んだ服がとても重く感じる。服からは海水がしたたり落ちる。疲労し困憊していたが、やっとのことで恐ろしい海から逃れたことに啓二はほっとした。
しかし。直ぐに啓二の安堵は消えた。
足裏に感じるのは砂。こそばゆい砂の感触。足元を見た。裸足だ。ゴム草履を履いていない。波が引いて、足にまとわりついている砂粒が転がって海底の坂を落ちていく。啓二は波が引いて剥き出しになった自分の足を見て、ゴム草履がなくなってしまったことに気がついた。ゴム草履がなければ、裸足で長い道をたどって家に帰らなければならない。荒れた細道は石や木片が転がり、その上を歩くのは足が痛いし、足を怪我するかも知れない。しかし、それよりも恐ろしいことが啓二の頭をよぎった。
「母ちゃんに叱られる。」
ゴム草履は先週買ったばかりの新しいゴム草履だ。前のゴム草履は花輪の付け根が切れて、それでも針金で繋いで履いていたのだが、終いには継ぎ目がボロボロになって針金で繋ぐこともできなくなった。それで新しいゴム草履を買った。母ちゃんは大事にしなさいよと念を押していた。学校に通うには履物はズックかゴム草履が必要だ。裸足で学校に通う子供はひとりもいない。ズックは高いから、年に一回、運動会の時に買い、ズックがボロボロになって履けなくなるとゴム草履を履いて学校に通った。ゴム草履は学校に通うにはなくてはならない必需品なのだ。買ったばかりのゴム草履をなくしてしまったら、そのことを母ちゃんに知れてしまったら、どういうことになるか・・・・。
母ちゃんは鎌を持って庭に出る。屋敷の周囲に群生している青竹を根っこから切り取り一メートル程の竹棒を作ると、啓二に柱を抱かせる。母ちゃんは啓二のズボンをずり下ろして、丸出しになった尻を竹棒で何度も打つ。何度も何度もだ。啓二が泣き喚いても、どんなに許しを請うても、一切耳を貸さないで、何度も何度もバチバチと叩く。もう、その痛さといったら・・・。啓二は思わず尻を触った。
弱虫の啓二は母ちゃんに叱られることを想像しただけで目から大粒の涙がこぼれ出た。啓二は大粒の涙を流しながら海の方を見た。ゴム草履を見つけないと尻を叩かれる。恐ろしいほどの痛い目にあう。啓二はサバニから投げ出され、必死に泳いでいた場所に目を凝らした。ゴム草履はなかなか見つからない。もしかすると、ゴム草履は沖の方に流されていったのではないかという不安が啓二の頭を過ぎった。不安がますます増大する。サバニの回りを見た。ひっくり返ったサバニの背は波間に見え隠れしている。サバニより沖の方に目を移したが、ゴム草履らしきものは見つけることができない。啓二はあきらめることができず、サバニの回りや沖の方を何度も何度も探し回った。しかし見つからない。啓二はゴム草履をあきらめるにあきらめきれず、沖の方を呆然と眺めていた。
暫くの間、沖の方を眺めていたが、眼下の方に何かを感じ、視線を眼下の方に移動させた。あった。ゴム草履があった。ゴム草履は沖の方ではなく、啓二の立っている場所からわずか数メートル離れた海面に浮いていた。ひとつは花輪が見え、ひとつはひっくり返って、ブルーの裏を見せている。
啓二は迷った。わずか数メートル先にあるゴム草履。飛び込んで、ひと泳ぎすればゴム草履を掴める。ああ、でも跳び込むのは恐ろしい。啓二は海に飛び込む勇気がなかった。啓二は足元を見た。指先をぎゅっと砂にめり込ませていないとずるずると落ちていく程の急角度の海底。一メートル先から海水は青くなり、海底は見えなくなっている。底が見えない深い場所で泳ぐ恐怖が啓二の勇気を鈍らせる。飛び込む勇気がないまま、啓二はゴム草履を見つめ、立ち尽くしていた。
「こわっぱ。」
背後で怒鳴り声がした。
振り向くと、見知らぬ男が立っている。
男の髪は潮風の性で縮れ、顔は太陽と潮に焼かれて赤銅色になっていた。まるで赤鬼だ。
「こっちへ来い。」
啓二は赤鬼のような漁師の突然の出現に驚き、体が硬直してしまい動くことができずその場に立ちつくした
「こっちへ来い。」
漁師は自分の所に来るように再度啓二に声をかけた。啓二はドスのきいた恐い声の漁師に言われるまま、漁師に近づいていった。
「サバニを転覆させたのはお前か。」
啓二は黙って下を向いた。ゴム草履どころではない。サバニを転覆させたというとんでもない現実があったのだ、啓二はその罪の重大さに体がぶるぶると震え出した。
「もう、一度聞く。サバニを転覆させたのはお前か。」
啓二は下を向いたまま黙って頭を横に振った。漁師はにやりとした。
「こわっぱ。嘘をつくとどうなるか分かっているだろうな。嘘を突くと恐ろしい閻魔様に舌を抜かれてしまうぞ。」
漁師は啓二の顔を覗きながら言った。啓二の嘘はとっくにお見通しであるという勝ち誇った顔をしている。啓二は漁師の顔が恐ろしくなって懸命に顔を伏せた。
「お前の仲間はどこに逃げた。」
漁師に言われて、啓二は渡久地の浜には兄の啓一や啓一の仲間と一緒に来ていたことを思い出した。啓二は顔を上げ、兄の啓一や啓一の友達がいないことに始めて気がついた。啓二はまわりを見渡した。兄の啓一や啓一の友達の姿が一人も見えない。啓二を置いて皆んな逃げてしまったのだ。啓二はひとり取り残されたことに始めて気づいた。啓二は心細くなった。
啓二は気が弱く臆病で、いつも啓一の庇護の元にいた。保護してくれる兄の啓一が啓二の前から突然消えた。広い浜を見まわしても啓一の姿は見えない。啓二にとって兄の啓一が居なくなったショックはとてつもなく大きい。啓二は呆然と立ち尽くして、啓一の姿を探し続けた。
まばゆい真夏の真昼の浜。
目を細めて、
目を凝らして、
太陽の光りに輝く岩の陰、
夏風に揺れるススキの隙間、
黄色の花がまばゆいゆうなの木の下、
空に向かって伸びるもくもうの木の回り、
啓二は懸命に
兄の啓一を探し続けた。
しかし、啓二は啓一や啓一の友だちの博一や淳二や幸助の姿を見つけることはできなかった。啓一の姿を探し続けているうちに啓二の目から大きな涙がこぼれた。太陽の光りに輝く岩の陰、ススキの隙間、ゆいゆうなの木の下、もくもうの木の回りを何度も見ながら、啓二は小さな声で「にいちゃん。」と何度もつぶやいた。
「おいこわっぱ。お前はどこの村の子なんだ。」
啓二の目から大粒の涙は止まらなくなっていた。ひとりぼっちになってしまったことで心細い上に、目の前の赤鬼のような恐ろしい漁師とたった一人で対峙しなければならないのだ。サバニをひっくり返した罪は重いし、逃げ場もない。啓二は泣く以外になにもできなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
「サバニをひっくり返したのはお前とお前の仲間だろう。」
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
啓二には漁師の言葉が耳に入らなかった。兄がいなくなって心細くて心細くて、目の前の漁師が恐ろしくて恐ろしくて。啓二は大粒の涙を流し続けるだけ。大声で「ごめんなさい。」を繰り返すだけ。
「親の言うことを聞かない子や悪い子は糸満売りだぞ。縄をつけて海に投げこみ、溺れそうになってもかまわずに、何度も何度も海に放り込む。溺れ死ぬ子供も居るそうだ。」という父の話を啓二は思い出した。海の漁師は子供をさらって漁師に育てるという。啓二は父の話を思い出して、ますます恐ろしくなっていった。「赤鬼のような漁師にさらわれて、何度も何度も海に投げ込まれるんだ。」と思うと、啓二の泣き声はますます大きくなっていった。
「お・・」
と漁師が声を出そうとすると、その声を打ち消すほど大きな声で、
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
と啓二は泣き喚いた。漁師は苦笑いをした。この子供はなにを話してもただ泣き喚くだけだ。説教するのは無理だ。漁師は啓二を叱るのを中断し、転覆したサバニの様子を調べた。サバニは船底を海面に見せ、波間にゆらゆらと漂っていた。波は船底を洗うように打ち寄せ、真夏の太陽にきらきらと輝いている。
「こわっぱ、これで頭を拭け。」
漁師は頭に巻いていたタオルを啓二に渡した。汗臭いと思っていたタオルは洗いたての石鹸の匂いがした。啓二は語気の強い漁師の言葉に逆らう気力はなく、言われるまま黙ってタオルで頭を拭いた。
「こわっぱ、そこに居ておけよ。逃げるんじゃないぞ。」
漁師は啓二にそう言うと、服を脱ぎ、ふんどし姿になると、さっと海に飛び込んだ。啓二は生まれて始めて漁師の泳ぎを見た。海に飛び込んだ漁師はたくましくぐんぐんと前に進む。兄の啓一も泳ぎは上手だった。でも、漁師の泳ぎは兄の啓一の泳ぎよりずっと逞しくて早かった。小さい波は突き破り、大きい波にはうまく乗り、漁師はあっという間にオールの所まで泳ぎついた。啓二は漁師が海に飛び込み逞しい泳ぎでオールまで辿り着くまで漁師の姿を眺めていた。啓二は漁師の泳ぎに魅せられて、それに精神的なショックも強すぎて、漁師が海に入っている間にこの場から逃げようなんてことを思いつかなかった。それどころか呆然と漁師を眺めているうちに、啓二は漁師の達者な泳ぎに感心し、漁師がオールを掴んだ時は心の中で拍手をしたくらいだ。でも、漁師がオールを掴んだことにほっとした途端、啓二は我に返った。自分はサバニをひっくり返した犯罪者であり、海で泳いでいる漁師はサバニの持ち主。漁師が海から上がって来れば、自分に厳しい罰を下すに違いない。啓二はこの場から逃げなくてはと思いたった。啓二は振り返った。振り返って浜から家に向かう出口を探した。
もくもうの林。切り立った大きな岩山。
黄色い花をちかちかさせているゆうなの木々。
あたりかまわず密生しているすすき。
目の前は砂浜。
それから石ころが増え、次第に石ころは大きくなり、岩が点在して、その向
こう側の風景。
数百メートル先の緑の風景。
啓二は緑の風景をじっくりと見回した。
もくもう、
ゆうなの木、
岩山の間をすすきが群生している。
啓二たちはすすきを掻き分けて細い道から浜に出た。浜への出口は狭かった。啓二は海岸線を百八十度見渡した。
真夏の昼の浜辺はまばゆくゆらゆらし、
人の姿はない。
啓二は浜からの出口を見つけることができなかった。すすきとすすきの間、岩の側、ゆうなの木の根のあたりに無数に小さな出口のような穴はあったが、どの穴が家に帰れる出口になっているのか、啓二には皆目見当がつかなかった。逃げようにもどこへ逃げればいいのやら。啓二は途方にくれた。
バシっと音がして、足元にゴム草履が転がった。啓二は驚いて海の方を振りかえった。
「こわっぱ、そいつはお前の草履だろう。」
声のする方を見ると、漁師が立ち泳ぎをしながら、もうひとつのゴム草履を掴んでいるところだった。漁師は腕を大きく振りかざして、
「そうら、受け取れ。」
と言うとゴム草履を啓二の方に投げた。
ゴム草履は水しぶきをあげ、くるくると不規則な回転をしながら、大きな弧を描き、啓二の頭上に飛んできた。啓二は飛んできたゴム草履を取ろうと両手を伸ばしたが、ゴム草履は啓二の手をはじいて啓二の後ろに落ちた。水しぶきが舞い、海水が啓二の目に入った。海水は川の水と違い、目に入ると痛い。啓二は目が痛くなり、目をこすった。
「下手だなあ。これじゃベースボールの選手になれないぞ。」
漁師は陸に上がると、サバニを繋いでいる綱を引っ張った。
「こわっぱ。お前も引っ張るんだ。」
海の漁師の語気は荒荒しくて強い。まるで丸太ん棒で殴られたような衝撃がある。啓太は漁師の語気に弾き飛ばされそうになりながら、恐る恐る綱を掴み、綱を引っ張った。
サバニは岸まで引き寄せられた。漁師はサバニの船べりを掴んでサバニを揺らし始めた。最初はゆっくり小さく。次第に大きく激しく。最後に「えい、やあ。」と漁師が声を張り上げると、サバニはひっくり返り、ばしゃーっと海水が滝のように溢れて出て、サバニは元の姿になった。
「こわっぱ手伝え。」
啓二と漁師はサバニに溜まった海水を六斤缶で掻き出した。啓二は恐怖の中の安堵を感じた。サバニをひっくり返したのは大罪だ。赤鬼のような漁師に捕まえられた時は、死の恐怖さえ感じた。警察に突き出されて牢屋に入れられるか、そうでなれば糸満売りされて奴隷のように酷い生活を強いられるだろう。それとも目の前の猟師に奴隷のように働かされるか。
でも、サバニは使用不能になってはいなかった。船内一杯に溜まった海水を掻き出せば、サバニは再び漁に出ていけるだろう。啓二は海水を掻き出すのに精を出した。船内の海水が減っていくにつれて、啓二の恐怖と罪悪感は軽くなっていった。
次第に罪悪感は軽くなったが、啓太の心には言い知れぬ孤独感が重たく澱んでいった。波打ち際から見た浜辺の風景。無数に小さな穴が点在。その中のひとつは家に辿り着ける出口であるだろうが、それがどの穴であるか知らない。啓二は家路を失ってしまったのだ。ひとりぽっち。ひとりぽっち。お兄ちゃんが居ない。ひとりぽっち。家に帰れない。ひとりぽっち。孤独になってしまった悲しみ。啓二の目から再び涙が流れた。
「こわっぱ。何歳だ。」
サバニに溜まった海水を掻き出す作業が終わった時、穏やかな声で漁師は啓二に聞いた。
「九歳。」
啓二は涙を流しながら答えた。啓二の目から涙が止まることはなかった。
「兄弟はいるのか。」
「居る。」
ひっくと声をしゃくりながら、啓二は懸命にはっきりした声で答えようとした。
「何名兄弟だ。」
「五人・・・」
五人兄弟ですと漁師に怒られないように丁寧に答えようとしたが泣きのしゃっくりが止まらないので声を飲み込んでしまう。
「ひっく・・・・兄弟・・・」
最後まではっきりと言わないと恐ろしい目に合わされる。啓太た体を振り絞って、
「・・・・です。」
と答え、声を殺してすすり泣いた。
「何番目だ。」
「・・ニ番・目・・です。」
「ふうん。ニ番目か。」
漁師はなぜか嬉しそうな顔をした。漁師は啓二を頭の先から足の先まで舐めるように見ながら穏やかな声で話した。
「ふうん、男だけの五人兄弟の次男坊か。次男坊は気が強いと言われているがお前は泣き虫で次男坊らしくないな。こんな貧しい時代に兄弟が多すぎてお前のお父やお母は大変だろうぜ。」
漁師は泣きべそをかいて伏せている啓二の顔をにやーっと笑いながら覗き込んだ。
「二人くらいはよそへあげたいとお前のお父やお母はよく言うだろう。あははははは。」
漁師はほんの軽い冗談の積もり言い、啓二をからかうように笑ったが、啓二は漁師の話を真に受けてとても恐ろしい話に聞こえた。漁師の言葉は啓二の胸をぐさっと突き刺した。漁師が話したように、啓二の母ちゃんは叱る度に「お前はよその家にあげるからね。」と言うのが口癖たった。お父は怒った時に「糸満売りするぞ。」と啓二を脅した。だから漁師の話は啓二にとって他人事ではなかった。お父やお母の話が嘘でないことは、後ろの家のみよちゃんは隣村のばあちゃんの家にもらわれたし、お婆さんと二人暮らしの、啓二といつも遊んでくれたしずねえちゃんはお婆さんが死んだので遠い親戚にもらわれていったと言われているが、しずねえさんが遠い親戚にもらわれたというのは嘘で本当は吉原というところに売られていったのだという噂が村の子供たちの間では広まっていた。
童謡の「赤い靴」は少女がアメリカ人に買われた歌であり、「あの町この町」も子供が売られて二度と自分の家に帰れないという歌であると中学生の誠兄
ちゃんは教えてくれた。だから啓一兄ちゃんはそんなのはお父のただの脅し文句だと気にしていなかったが、啓二は「糸満売り」というのは嘘の話ではなく啓二が悪いことをすればきっとお父は啓二を「糸満売り」すると信じていた。だから漁師の話は啓二にはとても恐ろしい話だった。お父とお母は本気に「よその家にあげる。」とか「糸満売りする。」と考えているのだろうと気の弱い啓二はいつも思ってしまうのだ。
「こわっぱ、これを食べな。」
サバニに溜まった海水の掻き出しが一段落して、二人は休憩を取った。漁師は水筒と紙包みを取りだし、紙包みの中からアメリカンチョコレートを出して啓二にあげた。啓二が五人兄弟と知ってから、なぜか知らないが漁師は啓二にやさしくなった。そして、啓二の家族のことを色々聞いてきた。村はどこか。お父の仕事はなにか。お母は何歳か。お前の名前は。啓二は次第に漁師が自分をさらっていくのではないかと心配になってきた。漁師が差し出したチョコレートを食べたことが漁師の言うことを聞かなければならなくなるという恐怖が募り、啓二は体を強ばらせてチョコレートを受け取ることを拒んだ。
「こわっぱ。遠慮するな。このアメリカチョコレートはおいしいぞ。」
漁師は微笑しながらチョコレートで啓二の胸をつついた。漁師がチョコレートを受け取れと何度も胸をつついたので啓二はいやいやながらチョコレートを受け取った。啓二が受け取ったチョコレートを食べずにいると、漁師は早く食べれと催促した。啓二は仕方なくチョコレートを口に入れた。チョコレートの濃い甘さが啓二の舌を包んだ。啓二がチョコレートを食べる様子をまるで自分の子供を見るように漁師は嬉しそうに微笑んだ。潮風がさーっと吹いてきて漁師のぼさぼさの髪が揺れた。
「どうだ。おいしいだろう。」
漁師の言う通り、チョコレートはこの上なく甘くおいしかった。啓二は小さく頷いた。
「俺もなあ五人兄弟だったよ。こわっぱと同じ男だけの五人兄弟だった。俺は三男坊だった。ふん、お前と同じようなものだわな。次男坊と三男坊は邪険にされるものさ。」
漁師は自分が三男だったことに怒りや悔しさを感じているらしい。急に怒った声になったので、啓二はびっくりして、漁師の顔を見た。漁師と真正面から視線が合った。 漁師の顔は一変してやさしい顔から憎しみの顔になっていた。
「おい、こわっぱ。俺に俺の親や兄弟のことを聞くんじゃないぞ。あいつらみんな人でなしだからな。薄情者だ。やさしさなんてこれっぽっちもない。冷たい奴らだよ。くそ、いつかぶっ殺してやる。」
啓二の顔を睨みながら漁師は憎しみと怒りの言葉を吐いた。啓二は漁師の急変した態度が恐ろしくて恐ろしくて。啓二の体は硬直した。
「こわっぱ。俺がなぜ親や兄弟を恨んでいるのか、その理由を聞くなよ。聞いたらお前のその細い首を捻ってやるからな。」
なぜ漁師がそれほどまでに自分の親兄弟に憎悪を抱いているかという理由なんか啓二は聞きたくもないし知りたくもない。興味もない。むしろ漁師の鬼の形相が怖くて怖くて。早く漁師から逃げて家に帰りたいのが啓二の本音だ。こんなに恐ろしい体験は生まれて始めてだ。怒った漁師の顔を見ていると殺されるかも知れないという恐怖が啓二の頭をよぎった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
涙が溢れ、啓二は大声で泣いた。
「泣くな。泣くと海に放り投げるぞ。」
漁師の兇暴な言葉は啓二の開いた口から入り込み、ぐぐっと啓二の泣き声を喉の奥に押し込んだ。泣き声は喉の奥に詰まり、ヒックヒックと啓二は体全体を震わせた。
「貧乏な家の次男坊や三男坊は不憫なもんよ。食い扶持を減らすために簡単に売り飛ばされる。」
漁師は啓二の顔を凝視した。怒った顔から啓二と自分を哀れむような顔になり、それから悲しい顔に変わった。やさしくなったかと思えば怒り、憎しみの言葉を吐き、そして今度は自分を哀れむ態度に変わった漁師の急変ぶりに啓二は戸惑い恐怖し体を硬直させた。情緒が不安定な漁師の態度は啓二に言い知れぬ恐怖を抱かせた。
「オレも哀れな三男坊だ。おっかあの顔も、お父の顔も、もう忘れた。兄弟の名前は覚えていねえ。今はどこに住んでいるのかも知らねえ。それに・・・・・」
漁師は長い間口篭もった。そして、漁師は深いため息をついた。
「今は天涯孤独の身なのさ。」
漁師の顔が悲しみの顔になり、目を瞑り空を仰いで、それから首を垂れた。暫く黙っていたが啓二を見て、悲しそうに微笑んだ。
「これがオレの人生だわ。ほれ、もっとチョコレートを食え。」
漁師はやさしい、親しみのこもった態度に変わり、啓二にチョコレートを渡した。
「さあ、あと一仕事だ。」
漁師は啓二が最後のチョコレートを口に入れるのを見てから、啓二を立ち上がらせ、船道具を置いてある場所に行って、浜にある船道具をサバニに運んだ。
真夏の太陽はギラギラと燃え、
ジリジリと浜を焼き続けている。
啓二は浜の熱さにくらくらしながらも、必死に船道具を運んだ。ぐるぐる巻きになった釣り糸。毛布、雨カッパ、のこぎり、帆柱、テントカバー製の帆、真鍮製の鍋、サバニの荷物は釣りだけの道具だけではなく生活必需品や大工道具も混ざっていた。それらの道具を運び終えたのは午後二時頃、暑さが最高に強まり、浜辺には生き物という生き物は居なくなっていた。うだる時間。啓二は強い太陽光線に打たれ、汗は流れ、脱水症状になり、頭はくらくらし、動く気力は萎えていた。
「ほら、飲め。」
漁師はジュラルミンの水筒をサバニの木箱から取り出し、啓二に手渡した。ジュラルミンの水筒の口は海水の味がした。サバニがひっくり返った時に木箱の中にも海水が入ったのだろう。
漁師は紙袋から野球ボール程の大きいミカンを取り出した。啓二が始めて見る大きいミカンだった。漁師は皮を剥き、二かけらを割いて啓二にやった。ミカンを口に入れて、啓二は驚いた。口に入れたミカンは甘味に満ち酸味が全然ないのだ。啓二が食べたことがあるのはシーワァーサーと秋の運動会に出回るだいだい色の温州ミカンだが、それらのミカンは甘さの後にすっぱさがついてくる。啓二はミカンはすっぱいものだと信じていたが、漁師からもらったみかんは全然すっぱくなく、さわやかな甘さを舌に感じさせるミカンであった。
「どうだ。おいしいだろう。サンキストオレンジというアメリカーしか食べられない極上のミカンだぜ。ハハハハハ、あまりのおいしさに目をまるくしてら。ほらこれも食え。」
漁師はサンキストオレンジを半分に分けて啓二にやった。
うだる暑さ。
まぶしい白い砂と石灰岩。
真っ青な空。
まぶしい入道雲。
全ての生物がへばってしまう真夏の渡久地の浜。
水とサンキストオレンジのお陰で啓二はわずかばかりの英気が蘇ってきた。
比謝川河口から微かな風が吹いてきた。
「オレを貧乏人と思うかも知れないが、そうじゃないぞ。ほら見てみろ。」
漁師はそう言うと、紙袋から輪ゴムでくるんだドル紙幣を出した。
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