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ドキュメントの整理をしていた関係上、昔、作った、サイバーフォーミュラーRPG(F1を紙とサイコロで実現するゲーム)が出てきて、感慨深い気持ちになる。 見れば、マシン作成ルールに大幅な数量の文章が割かれていて、あらゆるパーツの特性をバランスよく数値化して、あらゆる状況、あらゆるコース、パーツの磨耗・破損状況、メカニックの腕等まで加味して、最終的には一目でマシンの状態が分かるように作られている。 F1をゲーム化するというのはかなり困難だったのだが、結局、根幹部分は完成していて、その周辺のデータ化の部分が難航して、確か挫折した。 当時所属していたのは大学のサークルで、少なくともわたしは最強だったと思える面子で構成されていた。 大気圏突入ルールの実装や機動ポイントの導入、強化人間作成ルールも一から作ったし、細かな微調整は数え切れないほどした。 特にデータ部分はきちがいではと思うほどの綿密な文献収集と議論をし、例えばゲルググとガンキャノンのビームライフルに関しては5時間ぐらいの激論となった。 あー、いや、オフィシャルがそこまで考えているとは思えないんですよね(^_^; それでも、そのゲーム全体からすれば取るに足らない細部にまでこだわりを持って議論するほどマニア度が高く、当然ながらそれはサイバーフォーミュラーRPGにも持ち込まれた。 リーダーであった方が、異様なF1ファンという事で、ルール調整役であるわたしには、当然のようにPSが貸し与えられ、リアルさでは他の追随を許さないと言われるゲームが渡された。 ちょっとプレイするとこれが鬼のように難しい。 ジャン・アレジが、これがF1だといったほど原理的にF1のビビットさを追求したらしく、ほんのわずかなミスがスピンにつながり、ほんのわずかにラインからずれることが致命的にタイムに響いてくる。もちろん、スピンをすれば当然レースの敗北を意味するし(実際そうでしょ?)、トップを快走するマシンとの差をわずかにでも縮める事は、極めて困難なゲームに仕上がっている。 わたしはイモラサーキットが好きだったけど、それでも1セクションを及第点のラインで走れるようになるまでに、かなりの時間を要した。パーフェクトと思いながら走ったラップでさえ、ファステストから10秒も遅れていた。 なんで、こんなに原理主義なの? と思う方もあるかもしれないが(やっとここからが本題だ)、米国のRPGというのは、こんなエピソードを鼻で笑っておかしいねといえるほど、超原理主義で出来ているのだ。 もっと本質的な言葉にしよう。 真正原理主義である。 TRPGというと本場は米国だが、その主流となっているゲームの緻密さは、日本人であるわたしには度肝を抜かされるほどである。 現在でも求める人が多そうな『クトゥルフの呼び声』のブックレット型の総ページ数400ページはあるかと思われるルールブックは、どのページを読んでも有益な示唆に富んだ、まさにTRPGの教科書。 そのサプリメントである『アーカムの全て』は、アーカムという架空の学園都市を、「すべての建物を記載し」「さらに、そこに住む全ての人を細かに記載している」という、手に取った瞬間にそのきちがいっぷりに乾いた笑いがこみ上げてくる。当然の事ながら、1920年代の米国禁酒法時代ニューイングランド地方の、架空の新聞が中には入っているし、タイプライターが幾らかだったかも分かるし、どんな求人情報があったかが記載されている。そしてそれは歴史考証が厳密にされており、(そしてここが重要だ)原作者であるラブクラフトの記述に一切矛盾しないように組み上げられている。 あー、そうだよね・・・。 禁酒法時代とか言っても分からないしね・・・。 アーカム行ったことないし・・・。 グーグルアースとかの思想って、これを見るとよく分かるよ。 逆に言うと、米国人にとっては、ああ、やっと実現したか、ああ、まだまだ甘いな、とか言っているのではと思えてくる。 ちなみにこのゲームを作っているケイオシアム社はラブクラフト著作の研究では、世界的な権威となっており、日本のラブクラフトの著作にも、ケイオシアム社の作成した地図などが引用されるほどである。 架空世界の権威ある歴史学者集団が、ケイオシアム社なのである。 もちろん、このきちがいっぷりは、他のルールにも満載で、系統は同じなのだがルーンクエストなどもかなりこの真性原理主義的な空気が漂っている。 特に基本ルールはこの真正原理主義であり、ストレンクスランクという概念を中心とするルーンクエストの戦闘ルールはこのゲームの大きな魅力であるが、この概念の構築の議論は、白兵戦経験のある軍事関係者の濃い議論で決まったと言うから、ことの真正っぷりがよく分かるのではないか。 BRSを離れると、今度はガープスという化け物のような汎用ルールが出てくる。 物理法則を事細かにルール化し、シリアスものからサイバーパンク、果てはロボット物、ドラゴンボール、プロレスまで単一のルールで扱えてしまうというから、かなりびびる。 残念なことにガープスは数度遊んだ限りで、あんまり馴染みがないのだが、とても論理構成がしっかりした、それでいて拡張性豊かで、一貫性があり、しかも難しくなく扱いやすいという印象がある。 個人的にはとがったところのない感じが好きでなかったが、ガープス狂いという言葉がサークル内で流行ったほどで、一度その理解容易さに夢中になると離れられなくなるような麻薬的な、それでいてほとんど問題が発生しない、優れたルールであったと思う。 (さて、そろそろ自分に矛先が向いてきたなと思ったら、結構鋭い) この、米国人の真正っぷりを理解し始めると、かなり広大な領域に対して深い理解をする事が可能になる。 たとえばマイクロソフトはなぜ米国に生まれたのかという問題。 これまでの話を読めば、米国人が(ニューイングランド気質なのかも知れないが)、とにかく緻密で使いやすいルールの体系的な創造と、その周辺の膨大な使用可能ドキュメントの整備にかけてはきちがい的な情熱を持って取り組むことが分かるだろう。 日本人の作ったRPGはことごとくこの絶大な網羅性が不備であるが、米国人は遊びであってもその真正原理主義によって楽々とこなしてしまうのである。 9.11の資料を書かせれば千ページを越える報告書を書くし、JAVAは書くし、国際的な条約の起草もほとんどが米国人である。 なんで米国が世界のリーダーであるのかと聞かれれば、わたしは何の苦もなく『クトゥルフの呼び声』を手渡すだろう。そして言うだろう。 「日本人にこれが書けますか? アーカムのすべてを書くのが米国人です。尊敬すべき才能に思えます」 グーグルの話も、 「あー、いや、BRSやめてガープスを作ろうとしてるんですよ。なんか問題でも?」 と一言でばっさり斬ることも出来る。 (注:グーグル論はもうちょっと先がある) もうこれは国の文化の問題であるから、美点は美点として認めるしかない。 日本人が中国人に、技術きちがいと言われるのと同様である。 中国人は商人としての才能が絶大であるから、 「人に聞くな、機械に聞け」 という日本人の職人気質が異常に感じる。 日本人はその己の素質を、美徳をよく眺めるべきだ。 そして世界各国の美徳をよく見つめ、賞賛し、協力関係を結ぶべきだ。 そして、米国人がルールを策定し、膨大なドキュメントを整え始めたら、アメリカ帝国主義だとか馬鹿みたいな笑っちゃう事を言うのをやめて、果たして自分はそれが出来るのかという問題に真正面からぶつかってみるべきだ。 嬉々として取り組む米国人の美徳が見えないなら、料金着払いで、クトゥルフの呼び声の全刊行物を送ってあげよう。念のため言っておくが、100万円では足りないはずである。 なんか、言うことを予定していた事の三分の一も書いてない。 特許協力条約や、つい一ヶ月の激しい知財系の激しい動きを徹底解説したかったのだが、楽天文字制限にひっかかりそうなので、看板に偽りなきよう、グーグル論へ。 米国が真正原理主義国で、その本領は広大なルール体系の策定と膨大なドキュメント整備であることはすでに書いた。 しかし、ここで問題になってくるのは、 「なにを原理とするか」 という部分だ。 米国の本丸は東海岸であって、会社の利益が当然この文化圏の原理である。 だからアメリカマニュアル社会と言われるほど会社の制度整備に熱心で、どんな移民が社員であっても適応できるようになっている。 さてシリコンバレーであるが、この人々は東海岸の会社原理主義がイヤになって飛び出した人々で構成される。 法秩序にも無頓着、社会から遊離してても関係なし、要するに社会原理主義から逃げ出してきた人々の集団であるのだ。 しかし、どうだろう? この人々も結局は真正原理主義者なのである。 ただ、社会よりも情報技術に原理を求めただけであって、その本質は変わっていない。 グーグルは情報技術原理主義。 だから会社の利益には頓着しない。 さすがにそれでは困るので、少数の会社原理主義者を混ぜてあり、その人々が技術原理主義なグーグルが利益を上げられるように助言する。 技術原理主義者たちは、うるさいなあと思いつつ、仕方なしにその助言を多少参考にする。なんと言っても金さえあれば自分たちの真正原理主義に基づいて、好きなように思いっきりその才能を嬉々として揮えるのであるから。 もし、日本人にソフトウェアを作る才能がないことを嘆くのであれば、嬉々として独自のプログラム言語を作り始める米国人の気質を真正面から見つめるべきだ。 日本人は姿・形のある物なら、世界屈指の熱心さを持って夢中になって見つめるが、法律のような膨大なルール体系は意味が分からないと言って非難する人々なのである。 もちろん法は社会に必要不可欠で、意味を理解しない人の方が犯罪的であるのだが、日本人気質に合っていないことは確かなようだ。 もちろん米国には真正であるが故の弱点がある。 あまりにも原理に固執するあまり、妥協をする事がなかなかし難い気質であるのだ。 たとえば特許法は、発明者の権利を保護する法律であるが、企業の従業員がした特許の権利の帰属は結構難しい問題だ(職務発明の問題という)。日本は、その特許のほとんどが企業の従業員がした発明であるため、企業が発明者である従業員と上手く約束事を決めて互いの利益になるようにかなり玉虫色な微妙なバランス感を駆使した条文をついこのほど制定し、各企業は、技術者に魅力的な企業であるように見せるよう、企業と従業員の利益配分に対して、しっかりとしたルールを自主的に策定し始めた。 この前の日経に出ていた記事によれば、米国は職務発明制度の充実が遅れ、発明者が意欲をもてなくなるのではと心配する米国人の言葉が載せられていた。 日本の法律は原理主義的には全く正しくない妥協に妥協を重ねた、絶妙な調整条文となっているのだが、米国法は根本的なところから原理主義的すぎて、実状にあわない条文となり、米国の特許法の崩壊につながり、現在再建中である。 法律の勉強をしながら、なんて法律の体系的理解は困難であるのだろうと思いながら、そんなことを感じた。 あー、そうか、ルール作ってたじゃん、わたし。 と思いながら、この苦痛を慰めることにする。 PCTを見ながら、ガープスって凄いよね、と感心する。 米国の真正原理主義を知りたければ、米国産TRPGを読むと良い。 イエローサブマリンとか専門店だから、いくらでも手にはいるよ。 (う、うわー、それでも三割削った・・・。もう原型をとどめていないが) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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