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hikaliの部屋

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January 31, 2007
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 著作権がらみで、少々おかしな議論が出ている。
 創作は模倣から始まるが、模倣と創作の間には果てしなく巨大な壁があるというのだ。
 果たして、そうだろうか。
 一見正しそうに見えるけど、実はそうではないとわたしは思う。
 この辺は知財法制と絡めて話をすると実は結構深い。
 知財六法(特・実・意・商・不・著)の第一条(法目的)と第二条(定義)を読み、それぞれの保護期間を眺めるだけでだいぶ新しい発見が出来ることは保障するので、やってみると面白い。

 ■【知はうごく】「模倣は創作のうちには入らない」著作権攻防(4)-2
 http://www.sankei.co.jp/culture/enterme/070130/ent070130001.htm

 念のためにわたしのことを言っておくと、わたしは模倣よりも創作に近い側。
 ただ職歴的には商業デザインが長いのでこれはあんまり創作的な仕事であったとは言いにくい。
 意図的に模倣をしたのは文体ぐらいだが、この今ここに書かれているわたしの文体を見た限りでは、誰の影響を受けているかはほとんど推測することは不可能であろうと、わたしは踏んでいる。
 デザインといっても絵はまるっきり駄目。
 作曲も出来ない。
 フィルムも撮れない。
 写真はへぼ。
 唯一、創作と模倣を兼備しているのは、物語だけである。
 そして、それは知り尽くしている。

 物語において模倣と創作の問題に踏み込むと、たった一言の思考停止で議論が終わってしまうから面白い。
 シェイクスピアと。
 わたしはここからスタートしているので何の障害にもならないのだが、便利な言葉である。
「創作とは模倣である」を地で行き過ぎているにも関わらず、未だに、史上最高の文豪。
 この人の話を始めるとわたしの話は非常に長くなるので割愛するが、結論は二つある。
「シェイクスピアのオリジナルの物語は2本しかない」
「すべての映画はシェイクスピアの模倣である」
 どこぞかで議論をしたとき、この局面に突入しかけてしなかったので残念だったのだが、創作論云々を振りかざす前に、とりあえず事実をみつめる必要がある。
 シェイクスピアは38作ぐらい書いているが、果たして、そのうちオリジナルの2作はどれであろうか? 多分、解説や研究者の成果を読まずとも、全作を読めば、推測が可能であろうと、わたしは思う。
 結論は、
 「夏の夜の夢」と「テンペスト(邦題:「あらし」の場合も)」
 研究者によれば原作が見つからないとの事なのだが、創作者の嗅覚でこの作品を見ると、「何らかの資料を参考にした形跡が感じられない」となる。
 シェイクスピア先生にこんなことを言うのは失礼かもしれないが、のびのびとしている、束縛を感じない、自由である、こだわりなく素直に物語が現れている、奔放な構成である、
キャラクターが走っている、あとどんな言葉がほしいだろう?

 シェイクスピアは一般に天真爛漫な大天才というイメージが固定されていると思うが、研究者の間では「それだけでない」という部分ではおそらく一致している。
 まず、確かに天真爛漫である。
 しかし、卓越したインテリである。
 そして、当時でさえ非難されるほど派手な盗作者であった。
 ここまでは研究者の受け売りで、わたしはそれにルネサンス人としてのシェイクスピアという相を見逃すわけには行かない。
 ルネサンス期とは自然科学と芸術が混然一体としていた不思議な世紀であるが、シェイクスピアもこの時代の薫陶をもろに受けているどころか、本人がもっとも鮮明に体現していたりする。
 例えば人物造型はダ・ビンチの人体解剖図を見るように、生々しい。
 例えば物語構造は大聖堂を見るように多層的で、左右対称。
 例えば台詞回しはボッカチオが切り開いたように、口語主体。
 例えばそのテーマに宗教的寓話は存在せず、哲学的な議論もない。
 例えば悲劇の登場人物はパズルでも見るように、論理的に全部死んでいく。
 ルネサンスの文学はダンテより始まるが、教会の権威が短い時間の間に解体されるにつれ色彩が薄まっていき、その台本を読む限りは、キリスト教の影響を感じる部分はほとんどない。
 しかし、彼が採用している題材は、彼が革命を起こした時代以前の題材に拠っている。
 それを、実験でもするように切り刻み、測定し、ピース組み合わせ、再構築したのがシェイクスピアであるとわたしは考えている。
 だから勘違いしないでほしい。
 シェイクスピアは、模倣はしなかったよう見えるが、そのあらゆる材料は他人から盗んできたのである。それこそ手を広げられるほど広げ尽くして、貪欲に、大衆とパトロンの支持を受け、そして、その著作者の意図を完璧に捻じ曲げ切って(勝手にヒューマニズムの話としてしまって)、大胆に改変に継ぐ改変を尽くしきったのだ。
 そして、ネタもとの著作者は歴史に忘れ去られ、シェイクスピアは未だに世界最高峰の巨匠である。
 ここまで冷静に聞けるだろう。
 なんたって、著作権のなかった時代の話だ。
 特許の原型はあったけどね。

 しかし、このシェイクスピアが物語を創作する過程をつぶさに眺めると、ふと疑問が湧く。
 シェイクスピアは歴史物語をよく書くのだが、この歴史物語というのはねたもとを追っていくと結構面白いのである。
 例えばジュリアス・シーザを彼は、ブルタークのカエサルの伝記だけを読んで書いたとされる。しかし、現在の作家である塩野七生により、あれは史実どおりのカエサルではないと酷評される。
 つまり彼はブルタークの著作を完全にパクったわけだ。
 きっとカエサルの著作であるガリア戦記さえ読んでないはずである。
 ではブルタークはどうやって書いたのかといえば、これは当時の風評を参考に書いたと言うことになってる。つまり、ブルタークは当時の風評をパクったわけだ。つまり、彼はパクり伝記をパクったわけで・・・。
 ん? なんか、変ですか?
 そうかな?
 よく考えてみよう。
 混乱してきたら、現在の歴史物語に視点を移してみるとよい。
 なんたって、現代には著作権がある。

 日本でもっとも大きな歴史物語といえば、NHKの大河ドラマであることは衆目一致するところであろう。
 今年は風林火山。
 武田信玄公の歴史を山本勘助を主人公として描くらしい。
 しかし、この誰もが知る名軍師、実は史実では存在しない人間であることがほぼ確定してる。史実でないとなれば、誰かの創作物である。つまり誰かが創作したキャラクター。しかもまずいことに、この創作物たる名軍師、著作権が生きている可能性が大なのである。
 山本勘助は江戸の講談などで頻繁に語られたらしいが、これは根拠のない風評がエンターテイメントとしてキャラクター化していったようである。
 ■参考 wikipedia 山本勘助
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%8B%98%E5%8A%A9

 近代文学で山本勘助の初出と確認されているのは井上靖の小説『風林火山』。
 もちろん、江戸より諸説の伝説が生きていて、それを参考にしたのは想像に難くないのだが、困った事実がある。どこまでが井上靖の創作であるかがわからないのだ。
 江戸期の講談を参考にしていたとは言え、史実がない以上、少なくとも人物造型等、まあ、ぶっちゃけ言ってキャラデザぐらいは、井上靖がやっていたといっても、間違いがないことは確かだ。
 つまり、山本勘助を扱う歴史作家は、井上靖の著作権を侵害することを避けられない。これぐらい調べれば誰にでもすぐに分かるので、すべての歴史作家の故意認定は自明。
 困ったことに、著作権は山本勘助を殺すのである。

 さて、わたしは著作権の話をしたいのではない。
 模倣と創作の話をしたいのであって、この両者は一体不可分であると言いたいのだ。
 この観点に立つと、芥川龍之介の羅生門はアウトだ。あれは確か雨月物語(あれ、宇治拾遺だっけ?)が基である事が確定している。小泉八雲も駄目そうだ。江戸期の民間伝承を基にしていることが確定している。
 雪おんななどは武蔵国の調布村の伝承と伝えられている。
 この話はさらに複雑になる。
 わたしは雪おんなのラストに疑問を持って、国立国会図書館で25以上の邦訳を調べつくし、一般に認識されている雪おんな像が、実は岩波旧訳の平井呈一訳たったのひとつによって醸成されたことを突き止めた。
 英文で書かれるラフカディオ・ハーンの原文には、雪おんなのラストに恐ろしげな表現はない。平井呈一の訳によって初めてあの雪おんなのイメージは確立し、それが定着しているし、わたしはそれを調べきった後に、満足して平井呈一訳を唯一の雪おんなと認めることにしたのだ(ちなみに旧訳がもっともよい)。
 ということは、雪おんなを恐ろしげに描くと平井呈一のパクりであることになるのだろうか? まあ、物語が決定的に違う物語になってしまうので、そういわざるおえない。
 ちなみにわたしは、その25の邦訳を呼んで、小泉八雲ラブな人間であるから当然、その訳が納得がいかなすぎて、自分で訳したい気分になる。わたしは25もの邦訳を読んでいるから、英語は赤点レベルのひどいものなのだが、訳することが出来てしまう。
 これはパクっているのは自明である。
 しかし、どれをパクっているのだろう。
 わたしは創作していないのだろうか?

 模倣と創作の問題は、踏み込むと、こういった話になってくる。
 ここまでは、著作権の話。
 知財法に踏み込むと、もっと根本的な問題になる。

 知財法のボスである特許法は、ほとんどが、改良技術で構成される。
 つまり99%は従来の技術を使うが、1%の部分で前進があり、これが非常に革新的であれば特許と認められる。
 特許は、自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度なものと定義され、すくなくとも著作権上の創作より、巨額のお金の動く世界である。
 バーコードの特許は年間600億円ぐらいの特許料収入であったらしい。
 経済学上、金銭面で比較すれば、著作権上の創作は特許法上の創作に比べ、100分の1ぐらいの価値しかない。
 そして、その特許法上の創作は、99%はパクりで、1%が創作なのだ。

 なんか飽きてきたのでこの辺で。
 もうちょっと勉強してきてから、創作論をぶちまけてほしいものである。
 わたしも人のことは言えないが、勉強不足である。
 著作権法を語るぐらいなら、知財六法の定義趣旨ぐらいは読んでほしい。
 この先は、非常に深い。






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Last updated  February 1, 2007 09:43:11 AM
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まなかなまなかな@ Re: 三井アウトレットパーク入間へ行ってきた。(01/18) 蘊蓄野郎だな!うざい。
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