お天気が悪く、外遊びが出来ませんでした。
お天気が良くなかったので、朝、少しの間だけ近所の散歩をして、そほあとは、ほぼ一日お部屋の中ですごしました。今は昔の物語* ご近所編(昭和30年前後) 私の家は銀天街という商店街から南に200mくらいのところにあって、その途中の東西を中の川という小川が流れていました。今は三方囲の水路で生き物の姿はありませんが、子どもの頃の川底は小石と砂、石積みの隙間にはウナギが住みメダカや小鮒も泳いでいました。生活排水も流れ込んでいたと思いますが、そもそも庶民の生活は貧しく今のように多様な汚水が流れ込んで水を汚濁するようなことはありませんでした。 この中の川の北側の、正岡子規の歌碑のあるあたりから市駅にかけて、川に沿う形で一軒あたり5坪ほどの特殊飲食店と呼ばれるバラックが立ち並んでいて、夜は赤い電球の下で少々化粧の濃い女性が客待ちをしていました。もっとも、当時は子どもが夜更けに外を出歩くことはほとんどなかったので、そういう情景の半分は想像かも知れません。 バラックの中には、うどんや中華そばを提供する飲食店もあり、その一軒に同級生の家があったので遊びに行ったことがあります。跳び上がると頭を打ちそうな天井の低い小さな家で、江戸時代の裏長屋という感じす。そこに家族3人が暮らしているようでした。狭い部屋の中で遊んでいる時、お母さんが箒をもって部屋の掃除をはじめ、部屋の端の方に紙くずやホコリを掃き集めたあと、隅にある30センチ四方くらいの小窓を開けてそこから川に向かって勢い良く掃き出しました。ちょっとびっくり! しかし、その仕掛けは、並んだバラックのすべての家に共通するらしく、どの家にも川に面したところに同じような小窓が開けてありました。 ある日、ゴム草履で中の川に入り、竹の小枝の先にミミズをつけた仕掛けを水中の石積みの隙間に差し込んでウナギを探していると、ググッという仕掛けを引き込む強い引きが手に伝わってきました。ウナギに間違いありません。慎重に糸を引くと、40センチほどのウナギが仕掛けに巻き付くようにして出てきました。「やった!!」と歓声をあげながらウナギをバケツに入れようとした時、頭の上から不意に声がしました。振り向くと、せり出したようなバラックの窓からこちらを見ている化粧気のない若い女性が「そのウナギ売ってや」と笑顔で声をかけてきたのです。 めったにとれないウナギなのでちょっと惜しい気もしましたが、言われるとおりウナギを渡すと白い指でつまんだ50円玉をひとつ、私の手のひらに載せてくれました。当時の父親の給料の額から換算すると、今の500円くらいになるのでしょうか。ここで働く女性たちも、赤い色の電灯の下で見る妖しい夜の姿とは違って、昼間はごくごく普通の人に見えました。 1959年に売春防止法が制定され、並んだバラックの灯りもしだいに光を失っていったようです。そもそもこれらのバラック群が戦後のドサクサに建てられた不法住宅だったため、その後、松山市は住民に別の場所を提供してこれらのバラックを撤去したので今ではその面影はありません。