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カテゴリ:Himrock
おはよん!ございます。
いやいや、ようやく木曜日ですね。 先週が4日しかなかったので今週は長く感じますね。 さて、きょうは氷室ック自身によるBOOWY作品の解説第3弾で、オリジナルの3rdアルバム『BOOWY』です。 BOOWYは1985年6月21日に東芝EMIからリリースされました。 前作が徳間ジャパンからのリリースでしたから、再びレコード会社を移籍したことになります。 また、後述にもありますが、再出発の意味も込めてバンド名の『BOOWY』がそのままアルバムのタイトル名になりました。 そして、彼らにとって非常に大きなターニングポイントとなったのは、プロデューサーに佐久間正英(GLAYのプロディーサーとしてあまりにも有名です)を迎え、ドイツ(当時西ドイツ)のベルリンにあるハンザトン・スタジオでレコーディングを行ったことでした。 佐久間氏は後に、「BOOWYのプロデューサーを依頼されたとき、『海外でのレコーディングを了承するなら引き受ける』と言ったが、本心では、海外レコーディングを持ち出したらBOOWYから断ってもらえると思った(笑)」と述べており、海外レコーディングはオファー断りのエクスキューズで、最初はあまり乗り気ではなかったようです。 アルバムを作るに当たり、エンジニアのマイケル・ツィマリングと佐久間氏の監修の下で、布袋サンは本格的な編曲とプロデュース作業を学ぶ事になりました さらに、作詞面でもプロの作詞家である松井五郎を迎え、氷室ックもまた本格的な作詞技術を習得することになりました。 このように、「BOOWY」から彼らの作品のクオリティも大幅にブラッシュアップされ、また、メンバーもベルリンレコーディングで大きな自信を得て帰国し、以降の快進撃につながっていくことになります。 ちなみに、私はこのBOOWYは単品アルバムでも持っています。 それでは、以下は月刊カドカワVOL.9 NO.4からの出典です。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 3枚目のアルバムはまたレコード会社が変わったその契約の関係でインターバルを置かざるを得なかった。音楽的には流行りの音とか淘汰されて、ある程度バンドとして固まりつつあった。ヴォーカルをメインに置いてギターの存在感を出すみたいな。 このアルバムでは佐久間(正英)さんがプロデューサーとして立った。バンド内に入り込んでこられる人がいて、うまく整理しながら成功した例っていうのもこれが初めてだね。モリオさんも頑張ってくれたけど、ファーストの時はメンバー1人ひとりの許容量が少なかったから。 『INSTANT LOVE』までは、対外的に"気持ちいい疎外感"があった。それがこの頃から受け入れられるようになっちゃってさ、アレッ?ヘンだなって。ほめられると照れちゃうような。素直じゃないんだね。でも本当にわかってるのかな?って不安もこの時期ぐらいから感じるようになった。サード・アルバムから、がぜんいろんな要素が入ってきたからさ、作ってる当人がたとえばこの赤がいいんだと思って絵を描いていても、その隣で使ってる黄色が他人は好きだったりするかもしれないじゃない?まぁ、作品の解釈って最終的には人に委ねるモノだから、頭では理解してるけどね。 メンバー間の、例えばステージに立った時の精神的な交流みたいなこととか、話をしなくてもうまくいく時期だったんじゃないかな。やっぱ、ステージに立って布袋がすげえカッコイイって意識した頃だし。だから、それまでのワケのわからないパワーとかそういうのとは違った、自分たちがやりたいことを伝えていく方法がしっかり見えてきたんだと思う。 エンジニアのマイケル(ツィマリング)の力もけっこうデカイ。オレの意識の中でエンジニアって、ミュージシャンから言われた要求をうまく処理できる人間という意識だったんだけど、このアルバムでマイケルとやったらぜんぜん違った。やっぱりアーティストだっていうさ。いい意味で戦ったよね。 オレの詞に小技みたいなのが出てきたのはベルリンに行ったことがけっこう影響してるんじゃないかな?行ってレコーディングの最中に詞を書いたりとかしてたから。 やっぱり日本と違う状況で魂が開放できるでしょう。レコーディングに専念できて、音作りと作品を作ることに関して楽しい解放ができるというか・・・。 3枚目にはバンドの最後の方までずっとやってた曲がけっこう入ってる。「DREAMIN'」、「HONKY TONKY CRAZY」、あと「CLOUDY HEART」も。確かに1曲1曲がしっかりしたことは言えるね。 たとえばベースやドラムのリズム・セクションにしても2枚目より格段の進歩をしてる。当時の布袋やオレの考えつく音の整理の仕方や加え方より、やっぱり佐久間さんのやる方がもうワン・ランク上だった。コンピューターを入れたりシンセ類で音の穴を埋めていくとか、絶妙だった。 そして、その音の1粒1粒をマイケルが手掛けると、日本で作ったモノとは違う何かが吹き込まれるという印象もすごいあったしね。 このアルバムと時を同じくしてライヴも渋谷公会堂でやったりして、ベーン!といく最初のきっかけになったんじゃないかな? 衣装とかも確かこの頃からけっこう自分たちで作ってやるようになったんだよね。ありものじゃなくて。だから一つのアイデンティティーというか、これがBOOWYなんだってところをちゃんと見せる1枚になったと思う。それでタイトルも『BOOWY』にしたんだし。何か燻ってた火にいきなり点火したような印象があるかもしれない。 あと松井(五郎)さんとの共同作業もこのアルバムで始まるんだよね。この次に出す『JUST A HERO』の歌詞の世界の原型になるアイデアも出てきた。シュールっていうかさ、直線的ではない、何か言葉の中にあるもう1個の言葉みたいなね。それを自分の表現の中でどれだけできるかを考え始めてた。 ともかく上昇気流に乗ってきたことは感じた。渋公やって成功したから次は武道館だって。とんとん拍子に何でもうまくいっちゃう気配があったよね。何が原因なのかよくわからなかったけど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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