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自分が、二十代。頭を悩ませたのは懐の心配や夜食べる飯の心配よりも、奇怪なものが占めていた。書店にならぶ本の表紙に、「疎外」という二文字が溢れていたことだ。疎外、疎外とうるさくて仕方が無い。意味が分からないので、疎外感を抱いたというのが冗談のようだが、実態で。本当の話だ。実は、当時流行思想の「疎外論」に、もっとも青年が疎外された時代だったといえる。更にややこしいのは、その定義があるやなしかの中に早々と「物象化」を言う一党がいて、また何を言っているのか分からない。どちらの潮流も、私に対して「お前はアホや」と、言っているようなものだったからだ。 さらに、ややこしいのは当時学生がやけに威勢が良くて声がデカかったのだ。 貧乏な癖にいつの時代にも若いと取り合えずツッパリ勝ちみたいなものを狙うやからが多い。そう一応は思うが、当時は格別それら「疎外論」的に突き出すやつが周囲に多かった。 要するに、自分なりに理解すれば「われわれは」常に価値の源泉であり、粗末に扱われてはならない存在であるにもかかわらず、実態はどうか。とんでもない粗末な扱いを受けており、これはけしからん。不条理である。なぜならば、国家と社会そのものがこのような粗末な扱いを強いるについての避け難い構造を帯びており、だから「われわれ」と、国家、社会とはけして相容れない敵対的矛盾を帯びているのだ、という。まあ、そういわれてみれば、そんなものかなと、思わされる時代だったのである。 いくつも頭の緩い自分には、理解できなかったことがある。 その声のデカい奴らは、みなさっさと国家公務員や、地方公務員、教職員になっていった。つまり、今や疎外の構造の中核におさまっている。少なくとも外から眺めている分には、そのようにしかみえない。下手をすると、「近頃どのように暮らしているのかね。俺もおかげさまで年収3000万円を越えつつあるが、もう定年まじかだ。若い頃に色々あったが、年金もいただきながらアルタナティブな環境のありかたを探ってゆくために余生を費やしようと考えている」みたいな、メールやハガキを送ってくる奴もいる。なるほど、かつて疎外された対象に推参して、骨をうずめようという意図まで抱いている様子だ。 だいたい、奴らが「われわれ」と言い出す時はロクなことがなかった。 大抵、まわりにいる娘子軍に、論旨明快さを誇示しつつ、お手々を握っていて、半年ほどするとお腹が大きくなった女の子を紹介してくるというパターンがあった。なるほど、論という個的な突き出しよりも、共同制作されたお腹の何者かの突き出しの方が、はるかに疎外論構造を止揚してあまりあるのだと推量した。ことほど左様に、疎外論というのは他者へ)とりわけヤリタイ盛りの男の子が眼中にある娘子軍らへ)の働きかけに利便があったらしい。 そう考えると、「疎外論」というのは論の起源や骨格はともかくも、機能的には、昨今の「出会い系サイト」や「パーティライン」と、大差なかったような気もする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年05月14日 21時43分05秒
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