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もし、俺が自分のやりたいように生きていて、
それがことごとく、法律に違反してしまうとすれば、 自分を捨てて法律の内側で生きるか、それともあえて自分に正直にアウトローとして生きるかという選択に迫られることになる。 法律に沿って生きようとすれば、俺は俺のやりたいことを諦め、自由な行動を制限することにエネルギーを費やす必要があるだろうし、アウトローとして生きるのであれば、懸命に法の抜け道を探るか、あるいは権力とあいまみえて突破してゆくかという決断をしなくてはならないからである。 もし俺が権力者なら「俺が法律だ」と言って、法律の方を変えてみたいと思うだろう。 幸いにして、俺は自分の食いたいものを食い、言いたいことを言い、やりたい仕事をし、見たい映画を見、飲みたい酒を飲み、自由に遊び、人を愛したり傷つけたりしながら生きているが、だいたいのところでは法律に違反しない範囲で生活することができている。もちろん、スピード違反や、飲酒運転などで官憲にとっちめられたりすることはままあるが、それでもあらためて法律を読んでみようなどとは思わない。 かつて、ロス疑惑事件というものがあったが、その被告は獄中で必死に法律の抜け穴を研究したという記事を読んだことがある。おそらくかれは、かれが自分の価値観で生きていくこと自体が、法律というものと始終抵触してしまうような業の持ち主だったのだろう。 市井の人間は、日々の生活の中で法律を意識しなくとも、法律の精神の内側でいきてゆけるものである。いや、そういったことを含意した上で法律というものは作られていると俺は理解している。 これは刑事訴訟法のみならず、すべての法律が法律として機能してゆくための条件である。もし法律というものが、人間が生きていくうえの最高の倫理を人間に要求したとすれば、裁判所の前には長蛇の列ができるだろうし、収容所に大半の国民が拘置さてしまうだろう。 基本的人権は、人間の最低の権利について記されたものである。そんな条文が無くても人は他人を敬うことができるということがこの条文が最低のラインであるということの中に期待されている。 だから俺たちは法律を意識しなくとも、自ら持ち合わせた倫理や、自然法的な掟に従っていれば、生活してゆくことができる。常に法律を意識しなければならないということは、その法律が適用されている国民にとっては不幸な事態であると俺は思う。 憲法記念日をはさんで、新聞、雑誌などで改正論議が盛んである。 「何はともあれ憲法について多くの人間が議論するのはいいことだ」なんてことをニュースキャスターが言っているが、寝ぼけたことを言ってくれるもんである。 俺たちが憲法を常に意識しなければならないということは、日本人と憲法との間に不幸な関係が生じていることを示している。 憲法なんて意識しなくても、国を愛し、同胞を助け、隣人を敬って生きてゆけるのがまっとうな社会である、いや、ほとんどの日本人は憲法を読んではいないし、また読む必要もないのである。その意味では憲法に無関心でいられた戦後の60年間はむしろ評価されてしかるべきことであると思う。 もし、憲法を熟読しなければならないとすれば、それは他の法律について述べてきたことと同じで、この日本という国の存在自体が憲法に抵触してしまうか、あるいはこの憲法の抜け道を探して自国の欲望を拡大しようとするかのどちらかの場合である。 憲法と、現実に整合性がないということを、今日の若者の倫理観の欠如や自信の喪失の原因であるかのごとき議論があるが、全く同意しかねる議論である。 だいいち、俺は若者に倫理観が欠如しているとも思わないし、自信を喪失することが、自信満々に自国を誇ることより悪いとも思わない。もし、日本人が自信を喪失しているとするならばその理由は憲法ではなく、もっと別のところにあると思う。そもそも、どこの国の憲法も、現実と完全に整合しているなんてことは原理的にありえないのである。現実としばしば不整合を起こすからこそ「原点」を憲法に記してあるのである。 俺は憲法9条に戦争の放棄が謳ってあるから、戦争や武力の行使に反対するのではない。国際紛争の解決手段として戦争という不条理を用いることが、それを用いないことよりも効果があるとは到底思えないという理由によって反対するのである。 憲法が米国の手によって書かれた(らしい)という理由によって俺は、憲法の価値を判断しようとは思わない。たとえ誰が書いたものでも、あるいは他国の真似をしたものであっても、その内容が日本という国の国民の思考の「原点」として認めうるものであり、多くの日本人がそれを受け入れたのであればそれでいいじゃないかと思う。 さらにいえば、俺にとって憲法は、俺の行動規範でもないし、国家への忠誠のイコンでもない。 およそ、憲法を自分の行動の指針として、生活している人間というものを俺は想像できない。それにも拘らず、憲法を変えたいと思っている人が多いと新聞やテレビが報じている。もし、この調査結果を信じるとして問いたいのだが、憲法を変えれば、かれらは自分や自分の国に誇りを持つことができるというのだろうか。自分が行動の規範としてもいないテキストが変更されたからといって変わってしまう「誇り」とは何を指しているのか。俺は憲法と日本人の心性を結びつけて考えるような議論につゆほどの真実があるとは思えない。もし、憲法のテキストと日本の現実のギャップがトラウマになるというのなら、「汝、殺すなかれ」「色情を持って女を見たら、それは姦通したと同じことだ」というバイブルを片手に、武力の行使を厭わないキリスト教徒(アメリカ人)は皆、トラウマにのたうちまわらねばならない。現実はそうなっていない。 また、憲法を変えれば、日本の国益にとってプラスであり、アジアの平和に寄与するという考え方もある。しかし、アジアの多くの国は日本の自衛隊が軍隊として認知され、日本が軍事的に「一人歩き」することに大きな危惧を懐いているという声は聞くが、日本が軍事的に大国化することを促進せよという声は寡聞にして知らない。 国益論から憲法を変えたいというひとたちの根拠は、おそらくは北朝鮮の脅威と、中国によるアジアの覇権ということだろう。このふたつの危険な因子が、日本を取り巻く環境に存在していることを俺は否定しないし、どちらも大変難しい問題を孕んでいると思う。ただ、北の脅威ということなら米、中、ソを巻き込んで行われた朝鮮戦争当時の方が、逼迫していただろうし、当時の中国は今のようにまだ市場化していないということもあって、ずっと危険な国家であったはずである。それでも、日本は非武装中立を建前としながら、何とか国際関係を乗り切り、国内はむしろこのときに大きく経済発展してきたわけである。俺の家は工場だったので、このときの特需による注文の拡大には目を見張るものがあった。これをして、国益といわずになんというべきかと思うのである。 俺は憲法を無条件で信ずるべきだなんぞといいたいわけではない。 変えたきゃ変えればいい。 ただ、何をやりたいのか、そうすることによって、どこが現行の憲法と抵触するのかということだけは、明確にしてもらいたい。そのやりたいことが日本人の総意であるならば、確かに憲法は実情に合わないといえる根拠になる。 先に憲法を変えていて、憲法に書いてあるからやりたいことができるというのでは話の筋目が通らない。 俺は、敗戦という厳しい現実の中でぎりぎりの思考の果てに生まれたテキストを、先人たちが日本という国家の旗印として選んだのであれば、その精神から学んでいければよいと思っている。 混沌としてきた世界情勢の中で、どうにも胡散臭い二世議員たちの言うふつうの国になるんだという改憲理由よりも、戦争というものを肌身に染みこませた人々が、平和の理念を掲げ、これを受け入れ、それを遵守しようとしたことに対して、すくなくとも敬意を表したいと思っているだけなのである。 自分たちが加担してきた現行憲法に対する敬意の無いところに、誇りもへったくれもない。
Last updated
May 16, 2005 17:12:10
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