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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2007.03.12
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カテゴリ:ヒラカワの日常
日本経済新聞の文化欄に
小川国夫が「煙草」と題する小文を寄せている。
『アポロンの島』に漲っていた孤独であることの瑞々しい緊張感は
この文章からは消え去っている。
が、言葉の手触りに馬鹿正直に、どこまでも押してゆくと
こんな文体になるといった書き方に好感をもったのである。
気持ちを揺すぶられたといった方がよいかもしれない。
写真が出ている。
小さい写真なので細部はよく判らない。
随分お年をめされたといった風情である。
お若いときには
ギリシアをオートバイで走るにふさわしい
彫刻刀で掘り出したような頬の線が、
今は幾分やはらかくなって、縦に皺が走っている様子である。
こういう縦皺はなかなか日本人にはできにくい。

かつて、図書館で
W・H・オーデンの顔を見たときに
その皺の美しさに見とれてしまったことがあった。
オーデンの顔の皺について言っていたのは
確か田村隆一ではなかったかと思う。
そういえば、田村隆一も小川国夫と同じような
縦に切り込む皺の持ち主であった。
かれらに共通しているのは、皺だけではない。
縦に切り込む皺と同じように、存在の表層から縦に切り込んでいって
存在に深傷を与える厳しい言語感覚の持ち主であった。

この度の、小川国夫の文章は
かれ自身と煙草の因縁について書かれた内容であった。
「私はなんとなく煙草が好きになったのではありません。たちまち
とりこになってしまったのです。」
冒頭にこのように記されている短い文章は
「われわれが普段煙草をもてあそぶのは、
臨終に対処するための準備ではないのか。」と意表をつく
終わり方をする。
やはり、これは小川国夫だ。

文中、煙草を吸ってとがめられた経験を語り、
凄まじく痩せこけた芥川が、紫煙の向こうに写っている写真について語り、
腹に銃弾を打ち込んだゴッホが、ベッドに横たわって吸った臨終の時間を語り、
映画の中の、致命傷を負ったおとこに煙草をくわせさせてやる場面を語っている。
勿論、
小川国夫は、煙草の社会的な地位や健康上の問題点について
語っているのではなく、煙草の呪術的な力について語っている。
いや、煙草についてというよりは、
世にうとまれているものが放つ
悪魔的なオーラについて語っているのであり、
それを賛美してもいる。

考えてみれば、無用の文章である。
生活上の何の役にも立たない、退嬰的ともいえる内容である。
しかし、こういった思考が意味が無いとは誰にも言えない。
「俺もまた臨終に際して、一服やりながら越し方を振り返ってみた」と
思う人間がひとりでもいる限りはね。

『株式会社という病』ほとんど、書き終わる。
小川国夫を引用したのは、同じ視点が
俺の中にもあることを確認したからである。
『病』の終わり近くに、俺はこんな風に書いたのである。

- 私の言いたいことは、日本人の精神が劣化したとか、金の力が大きくなりすぎて日本人がそれに祈拝しているとか、日本人が馬鹿になったということではない。総体的に見れば、人々はよく働き、社会は徐々にではあるが暮らしやすくなってきて、経済的には豊かになってきていることは疑いようのない事実である。技術もまた進歩し、人間の限界をすこしづつ広げてきている。そして、人間と言うものもまた総体としてみれば進歩してきているといえるのかもしれない。
それでは、お前は何が言いたくてぐだぐだと書いてきたのだと問われるかもしれない。私が言いたかったのはただ一つのことである。ある詩人は、それをたった二行で表現している。私は何万語も書いてきて、この二行を解説してきたようなものである。

光を集める生活は
それだけ深い闇をつくり出すだろう

資本主義の高度化、都市化、利便性の向上、金融経済の進展といったものは、すべて「光を集める生活」を人々が求めてきた結果である。しかし、光を集めた分だけ、私たちは闇の部分をも作り出してきたはずである。しかし、右肩上がりで成長を続けなければならないという強迫観念は、それが強ければ強いだけ、闇の部分を隠蔽するという結果を生み出す。別の言い方をするならば、光とは闇を照らすものであると同時に、闇は光にとって必要なものでもあるのだ。たぶん、そういうことではないだろうか。
 失われた八十年代を通して、私たちは日本の経済システム全体が、冷戦の終結やIT革命、グローバル化、市場化といった世界的な変化に対応できなかったが故に、長期的な景気の停滞に陥ったのだと総括したのだと思う。確かにそれは半分は正しい。しかし、そのことをもって、いっときアメリカのネオコンが主張していたように歴史が終わったわけでもないし、また景気の循環が終結したわけでもない。市場化は、資本主義という経済システムの必然的な帰結ではあったかもしれないが、終着点だなどとは、誰も言えない。





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最終更新日  2007.03.12 21:11:07
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