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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2007.05.26
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カテゴリ:ヒラカワの日常
内田くんが送ってくれた『街場の中国論』を読む。
ミシマ社の三島社長のメッセージ付の謹呈本であった。
大変に面白い。(いつも、そんな感想を書いている気がする。)
今回はしかし、ただ面白いだけではなく、
内田くんの思想家としての独自性が
このようなかたちで開花してきたことに畏怖すら覚えた。

かつて、一緒に会社を経営していたとき、
かれとはほとんど阿吽の呼吸で現場を泳ぎ、
ものごとの理非を論ずる必要を感じることはほとんどなかった。
物事の「感じ方」に関して言うなら
ひとつの事項からほとんど同じ色合いの感覚を吸い込み、
同じ道すじをたどる因果の思考を吐き出すといった
同一性の中にいたからである。
(事情はいまもかわらない)

記憶を辿っていくと、一度だけ、彼と意見がくい違ったことがあった。
それは、俺が「プロフェッショナル」になる必要性を
会議で訴えたときである。
なぜ俺がプロフェッショナルということを言ったのかに関して説明すれば
長くなる。
ただ、何年か仕事を続けているうちに、
すでに俺は自分の仕事のスタイルというものに関して
いささか飽きが来ていたとは言えるかもしれない。
それで、たぶん俺はもっとも「俺らしくない」言葉を
テーブルの上に広げて、
もっとも俺たちらしくないゲームを
してみたくなったということかもしれない。
(知っている人は知っているだろうが、そういう性癖が俺にはある)
しかし、そのとき即座に
「プロフェッショナルなんてつまらない。
最良のアマチュアを目指すべきだ。」と
反応したのが内田くんであった。

もちろん、間違っていたのは俺の方である。
しかし、そのときに彼がアマチュアリズムという言葉にかけていたウエイトの
意味を俺はまだよく理解できてはいなかったと思う。
もし、プロとアマチュアを分ける喫水線が
自分たちのやっていることで口に糊をしているかどうかというような
ことであるなら、
俺たちはどこから見てもすでにプロであった。
だから、このときのプロアマ論議のポイントは
仕事と、その仕事に対する立ち位置に関する幻想に関するものであった。

俺も内田くんもプロが何において卓越性を有し、
素人と自らを隔てるために何をしなければならないかということ
に関してはよく理解していた。
しかし、プロというものが
何によって躓き、何をしていないかということに関しては
内田くんは分かっており、俺はまだよく理解できていなかった。

プロ=専門家というものがしばしば陥るピットフォールは、
素人が知らない裏事情に通じているといったことや、
一次資料や現場にあたってきたという経験の蓄積は、
事実を説明するためには有効であるが、
状況の判断や、将来に対する推論に対しては、
素人に卓越しているということをなんら意味していない
ということに対する自覚の欠如である。
専門家は、その専門性ゆえにしばしば
固定観念に囚われたり、知見によるバイアスによって
判断を誤ることがあるのである。
専門性と判断力はほとんど、無関係だと思ったほうがよい。

文化大革命の初期に、日本における中国専門家のほとんどが
文化大革命の本質とその帰趨を誤ったことに関して
本書の中で内田くんはこう書いている。
― この文化大革命の経験から、僕はいわゆる中国専門家というのが
けっこういい加減な人たちだということを知りました。
(中略)
対立しているそれぞれの党派的立場からする虚実入りまじった「公式発表」から、
何が起きているかを類推するしかない。そういう中で、「どっちの言い分も信用できない」という立場を貫いた中国専門家はたぶんほとんどいなかった。

中国で起きていたことに関して、ある種の先見性をもってこれを眺めていた
人間がいたとするなら、それは「理想的な国家なんてありゃしません」「理想的に見せているだけですよ」「国家なんていうものは、常に国民に対して嘘をつくものです」というような「常識」を骨身に染み込ませた素人だけだったように思えるのである。
状況の判断において重要なのは、
自分が何を知っているのかということよりは、自分が何をしらないかということに
対する自覚である。どんな専門家の知見をもっても、
事実を知り尽くすということなどできはしない。

内田くんが本書でやっていることは
この骨身に染み込んでいる素人の「常識」で中国を読むとどうなるのかという試みである。
そして、中国が植民地主義国家にならなかった理由を、現代のグローバリズムに影をおとしているスペンサー流の進化論と、儒教的な世界から生まれてきた中華思想の差異の中に説明するくだりを読んで、俺はアマチュアリズムの骨法というべきものを見る思いがした。目から鱗とはこのことである。

― この「化外の民」という「えびす」規定が中華思想のかんどころだと思います。そこには「王化が及ばない」ということは現事実として認められている。けれども、そいれは「あいつらは野蛮人だ」という事実認知的な言明にすぎず、「だから教化せねばならない」という遂行的言明を論理的には導かない。ここがスペンサー流との違いです。
教化してもいいけれど、べつにしなくてもいい。そこまで中華の開花の光を届かせてもいいけれど、べつにそれは中華たる漢民族の義務としては観念されていない。

こういったアイデアは専門家にはできないだろう。ただ、中国という国土のとてつもない広さと、周縁に異民族が群雄するさまを、どれだけリアルに思い描けるのか、あるいは治世家の心理に入り込むイマジネーションだけがたよりだからだ。専門家には、このイマジネーションはまことに頼りないノン・エビデンスのツールに過ぎないが、素人は、それしかなければ、それを使いこなす術を学ぶのである。

結果として、こういった素人の「発見」が本書にはちりばめられることになる。
日中の脱亜入欧のチキン・レースというアイデア。
周恩来が戦争賠償請求権を放棄した「長者の風」。
中華に媚びるのが日本の伝統であるとの説。
言われてみればなるほど、もっともだと思えるのに、これまであまり省みられる
ことのなかった常識である。

まことに、素人の「常識」おそるべしである。
いや、内田くんが使っているツールは
ほんとうは、素人の「常識」といったものとは少し違う。
その秘密は、内田くんが、専門家の使うロジックよりも有効期限の長い言葉を選択的に使っているということだろうと思う。(ある意味で、専門性とは期間限定、場所限定の言葉だからだ)。
専門家の思考の隘路に関して語るとき、内田くんは、ほとんど「専門家」なのである。
かれは、日中共同宣言における周恩来の態度を、「徳」という長い時間を生き続けてきた儒教エートスによって説明しているが、専門家はたぶん、当時の日中のパワーバランスや、共産党の内部事情の分析からはじめるのではないだろうか。ひとつの問題を、どれだけ長い時間のスパンで考えられるか。そこに思想家の力量がかかっている。

「常識的に考えればこうなるでしょ」と内田くんは言っているように聞こえる。しかし、それはたぶん違っている。常識はそれだけでは思想にならない。本物の思想だけが常識として登録されるのである。
内田くんは、本書においても、内田的に考えればこうなるという思想を展開しているのであり、もし、読者が、内田的な思想を「常識」だと考えるとすれば、それはかれの思想が、本物だということを、読者が事後的に了解したということにほかならない。







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最終更新日  2007.05.27 09:53:11
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