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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2007.08.16
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カテゴリ:ヒラカワの日常
毎度のことだが、終戦記念日をはさんで、
憲法論議が盛んである。
もう憲法の話はしたくはないけれど、
議論を整理するために一言付け加えておきたい。

改憲の本丸は、9条である。
国家の最高法規に関わる話である。
国家という共同体の掟を再定義しようというのであれば、
議論の仕方からはじまって、
様々な論件が整理されてしかるべきところだろうが、
9条だけが突出した議論の的になっているところが
すでに、この問題を歪んだものにしている。

改憲派の論拠は
国家としての主体性の確立すること、
自衛隊が防衛軍として法的根拠を与えられ、海外に展開できるようにすること、
先進国の一員として、紛争解決に向けての戦力負担において
応分の責任を果たせるようにすること、
概ねこの三つだろう。

これらを検討してみる。
果たして日本国憲法を遵守してきたことに
主体性は存在しなかったのか。
GHQによって纏められた現行の憲法を
戦後60年間にわたって遵守し続けてきたことのなかにこそ
主体性といったものを見ることはできないのか。
主体性とは、自己決定の権利を主張することではなく、
権利も負債も、自らの意思で背負う(背負い直す)ということだからである。
もし、主体性を論理の一貫性、言行の一致の問題と考えたいのなら
(勿論俺はそのような考えには与しないが)
日米安全保障条約の見直しが先行すべきだというのが
法律遵守を建前とする国家としての当たり前のロジックだろう。
海外に自衛隊を派遣せよというのも、給油船を出せというのも、
本来の主体的な判断というよりは、
アメリカによる政治的圧力に対処したというべきだからである。
どうも、米国によって与えられたという
はじめの一歩が気に入らないらしい。(ほんとかね)
しかし、何でも自己決定したいといいながら、
現在の日本人の衣食住のほとんどのものは、
米国もしくはヨーロッパ先進国から流入したものであり
その上で生活の基礎を築いていることには、
何の痛痒も感じていないらしい。
いや、そんなことは言っていない。
日米安保破棄、国軍の設立、日本的な文化の防衛に専心するのだ。
というのであれば確かに論理は一貫している。
しかし、多元的な価値観を認めながら、粘り強く綱引きと妥協を積み重ねて周辺諸国との
関係を築いてゆくのが外交というもので、
論理の一貫性といったものが、国益と言ったものを必ずしも担保しないということは、
先の戦争で日本人が学ぶべきことだったはずである。

俺は、何度か言及してきたように、
使い慣れた憲法をメンテナンスするという意味での改憲は「あり」だと思っているのだが、
現在改憲を教唆している人々によるレジームチェンジとしての
改憲の手続きを進めることは
躊躇せざるを得ない。
さらに言えば、レジームチェンジありきの彼らによって、
改憲のルールを定めてほしくないのである。
なぜならば、そこに思い込みやイデオロギーを読むことはできても
身を守るための冷徹な損得勘定も、身を捨てても守るべき理想も
よく感じることができないからであり、
自分で考え抜いたというよりは、誰かの尻馬に乗ったような
曖昧な自己決定ばかりが目に付くからである。

議論をする前提といったものを、もう少し厳密にすべきだろうと思う。
改憲派のいう現行の憲法で、(舛添要一 が言うように)
「それで国民の生命財産を守ることができるのか」など
という恫喝は、まったく素っ頓狂な議論にしか思えない。
この議論の前提にあるのは、日本の平和が外敵によって脅かされている、
あるいは将来脅かされることになるだろうということである。
かつては、ソ連や中国を仮想敵国として軍事シュミレーションを行ったりもしたのである。
ここにあるのは、日本が戦争の被害者になるという蓋然性に対する
あいまいな予断である。
そんなことは日本が武装し、挑発しない限り、あり得ない空想である。
もしも、現在、将来の軍事的蓋然性ということを考量するならば、
日本が被害国(仮想の敵国によって侵略される)になることよりも、
日本が加害国(米軍に追従する形でか、あるいは単独でも)になる可能性の方が、
圧倒的に高いということを何故前提から省いてしまうのか。
俺は、憲法9条の改定が、
防衛のためではなく、戦争の加害者になる権利と根拠の確保であるかもしれないという点にもっと注意を払ってしかるべきだとおもう。(なぜかその議論はあまりなされていない。いや、ほとんどないと言ってもいいだろう)

国際関係において、最大の防衛は、攻撃であるという格言は通用しないということを歴史は教えている。
国際政治はボクシングではないのである。
防衛と言うことに関して言うならば、
君子あやうきに近寄らずという戦略こそが有効であることは
アメリカのベトナム、アフガン、イラクなどへの介入の失敗例を見れば
明らかである。
戦後世界の武力紛争の数は、数十件、あるいは百に近い。
その紛争に日本が巻き込まれなかったのは、
まぎれもなく、日本が自国の武力的な能力の手足を縛ってきた憲法の
功績である。
日米安保条約があったから、日本は攻め込まれなかったという議論もあるが、
(もしそうしたいなら、それも理由にしてもよいが)、やはり
日本が武ばらない国であることを維持し続けたことの功績を認めるべきだろう。
日米安保条約があるにも拘わらず、日本の軍隊が海外に展開せずに
ぐずぐずと自己決定をしないでいられたのは、9条の足かせを外交的エクスキューズに使うことが出来たからである。
自衛隊を軍隊として海外に派遣しないという法的な根拠は、
9条の他には存在していない。
これをとっぱらったときに、現下の政治家たちは何を根拠に、
武力展開の要請を拒否できるだろうか。
「喜んで血を流します」というのなら、話は別だが、
それなら、国益などということを建前にして議論すべきではないだろう。
原理主義に国益は存在しない。
ジハードは、宗教的な義務であり、それを決行するイスラム原理主義を
貫いているのは、宗教的な正義であり、真理である。
繰り返しになるが、そのような首尾一貫は、多元的な価値観が共存する世界の中では、
国益とトレードオフする以外には実現できない。
国益と国益が角逐し、衝突する国際関係においては、問題は誰によっても簡単には解決することができない。政治的な解決とは、最悪の事態をどれだけ先延ばしすることができるかということである。

三番目の点に関しても簡単に触れておこう。
軍事同盟国の相手であるアメリカという国が
単独主義と国際協調主義との間で揺れている。
あたりまえである。
その両極を含めてアメリカの覇権というものを考えてみるべきだろう。
国際協力という言葉が含意するところのものは、お互いに相手国が単独主義に陥らないために何をすべきかと考えて行動すること以外にはないはずである。
軍事的オプションが最も効率的であると思っている国家指導者の単独主義に加担することを、国際協力とは言わない。
あえて、国際的といいたのなら、それは国際的共犯というべきだろう。








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最終更新日  2007.08.17 01:55:20
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