カテゴリ:ヒラカワの日常
すこし、涼しくなってきた。
アメリカの経済にも秋風が吹いている。 このままだと、近い将来ドルの暴落という事態も考えられる。 政治的なアメリカの威信は、イラク戦争の失敗ですでに翳りを見せていた。 必然的にアメリカはユニラテラリズムを採用せざるを得なかったということだろう。 難破船からねずみが逃げ出すように、ブッシュ政権からは何人もの関係者が退散している。そして、政治的な威信失墜の兆しが、今度は経済的な信用崩壊へと接続されそうな気配である。 クレジットクランチである。 日本の経済学者は、楽観論が多いようであるがこの度の住宅ローンの破綻に始まる米国経済の混乱と、連動する世界同時不況は予断を許さない状況になっている。 アメリカの事態に関しては悲観的な観測を述べているエコノミストの一人、水野和夫の『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』を読んだ。 水野は、1995年を境にして、戦後が終焉し、日本も世界もこれまでの経済的な常識はもはや使い物にならないということを、実証的に裏付けてゆく。 彼はシンクタンクの保有しているあらゆるデータを分析することで、95年が時代の転路点であることを発見する。ここまでなら、多くの経済学者、エコノミストも予見することはできる。水野の創見は、それが経済の世界における近代の終焉であり、同時に資本による反革命の始まりであるという、経済システムの変換を読み込んだことである。 大変に面白く、スリリングな理論である。 俺もかつて、94年という年が時代の転換点であると書いたことがあった。 「ぼくはビジネスの世界で、1994年を境に劇的な変化、価値変動がおこったと考えています。そしてその変化は日本中を隈なく覆い尽くして文化や人々の言葉づかいまで変えていくほどの繁殖力をもっていました。正確に言えばアメリカン・スタンダードというものがカバーする地域、人種、職業すべての価値観に大きな修正をもたらすものとなった」(『東京ファイティングキッズ』) 俺は、ビジネスの現場における人々の言葉づかいが大きく変わったことから、このアイデアを思いついたのであるが、水野は専門家らしく経済的な指標を読み解くことの中から、この転換が根源的なシステムの転換であることを「発見」する。そして、ポスト近代とは、インターネットや金融技術が牽引する超近代などではなく、帝国の再来,資本が、自らへの分配を確保するための反革命であると言うのである。 これは、実に目から鱗の指摘であった。 なるほど、グローバリズムとは、自由主義の拡大ではなく経済帝国主義であったのか。そう考えればいろいろなことが腑に落ちる。そう考えなければ、グローバル企業の飽くなき膨張や、経済成長しながらも拡大する格差や周縁の疲弊といった問題がうまく理解できない。膨張しているのは、資本だけであり、国民経済ではないのである。 帝国主義とは何か。 レーニンはその帝国主義論でこう述べている。 「帝国主義とは、独占体と金融資本の支配が成立していて、資本輸出が著しく重要性を増し、国際的なトラストによる世界の分割が始まり、最強の資本主義諸国による世界の全領土の分割が完了したという発達段階に達した資本主義のことである。」 簡単に言えば、帝国主義とは、国益拡大のための際限のない周縁国の植民化であった。 帝国主義はどのようにして終結したのか。 それは、有限な世界の中で、覇権同士がぶつかり合い、経済的なブロック化が進行し、ついには戦争による以外、つまりは覇権の蕩尽という方法でしか決着をつけることができなかったからだ。 いま起こっているグローバリズムとは、この帝国主義の時代における軍に代わって、企業が、世界経済を再分割してゆく動きであるといえるかもしれない。低賃金の労働力、飢えたマーケットを固定化、植民化するという形で、企業が国境を超えていく。 「グローバリゼーションは誰の手にも負えないコントロール不可能な経済現象で、関わる者すべてはこれに影響を受け、そして、たまたま適切な準備ができていた者だけがその恩恵を受けることができるのだと考える人もいる」(『ウォルマートに呑みこまれる世界』) ちょうどいま書評を書いている本の中で、その著者チャールズ・フィッシュマンが言っている。市場主義といい、グローバリズムといい、その渦中にいるものにとっては、それが時代の中の過程的なシステムであると考えるよりは、究極の姿であると考えやすい。ビジネスも政治も、限定的な時間の中での損得勘定しかできないからである。 「改革なくして成長なし」も「成長がすべての怪我をなおす」という法則も、限定的な時間の中でしか意味を持ち得ない。こういったスローガンは、何かの真理を言いあらわすというよりは、現在のシステムが、それを弁護ないしは強化するために言わせているのだと思ったほうがよいのである お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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