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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2008.03.17
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カテゴリ:ヒラカワの日常
アゲイン一周年記念で
内田くんとのトークショーをやった。
焦点のない、ぼんやりとした会話であったが、
お客さんには結構好評であった。
もちろん、もっとちゃんとやれとの声は潜伏しているのだろうが、
ちゃんとやっているのである。
スパイラル状に、論理を深めるような話を期待するほうが無理というもので、
その場合にはそれぞれの著作をお読みいただく他はない。
とまれ、遠方よりいらしていただいた方もあり、
低頭、お礼申し上げます。

さて、以前より予告の藤原書店『環』掲載の書評を
公開します。システムの都合上、二回に分けますが。
本日はその1。

「文明の接近」
― イスラムとは何でないかを証明する旅


続編であることの意味


 前作『帝国以後』において、エマニュエル・トッドはこれまで誰も思いつかなかったやり方でアメリカ・システムの凋落を予見し、来るべき世界像を描いて見せた。養老孟司は、それを「乱暴な仮説が導く明快な世界像」と評し、トッドは二重の逆転を予見したと述べている。二重の逆転とは、「先ず世界とアメリカ合衆国の間の経済的依存関係の逆転、そして民主主義の推進力が今後はユーラシアではプラス方向に向かい、アメリカではマイナス方向に向かうという逆転である」。養老さんならではの見事な要約であると思う。
 トッドは、この度の『文明の接近』を、前作の続編であると位置づけているらしい。私には、当初その意味がよく飲み込めなかった。かれは、本書で何を証明したかったのか。読み進めていくうちに、漸くトッドの意図が、何処にあるのかが理解できたように思えた。前作は、確かに大胆な仮説に導かれた、明確な世界像の提示であった。しかし、それが仮説であって、仮説が自明の前提に変わるとは誰にも明言することはできない。(たとえ、以後の歴史の事実が、トッドの予見どおりに進んだとしても、である)。
それが仮説であるという意味は、文明の進展とアメリカの凋落という世界像の「図」は示されて入るが、「地」は描かれてはいないということである。つまり、それは部分的な解答であって、いくらでも例外的な事象は起こりうる余地を残している。「地」の絵柄が変われば、完成された作品は、まったく別のものに変容せざるを得ない。『文明の接近』が、照準しているのは、西側世界に流布しているイスラムの特殊性という蒙昧の正体を暴くことである。そして、かれが本書で試みたのは、前作で描いた世界像の背景を描いてみせるということでもある。「世界図」に対する「世界地」。これが、本書が前作の続編であることの意味だろう。では、世界の「地」を描くとは、どういうことか。どのようにすれば、それは可能になるのか。そして、何故、トッドはこのような戦略を選んだのか。

未来予測の不可能性


 新聞を開けば、毎日世界中のあらゆる場所で起こっている事件や紛争について知ることはできる。しかし、死傷者が何人で、自国の為替の動向は知ることができても、その背景で、本当は何が起こっているのかについては、ほとんど何も知ることができない。東アジアで起こった暴動と、アフリカの飢饉との間には、なんの関係もないように見える。もし、こういった出来事が、世界のどこかで、お互いに何の関連も無く、生起しているのだということなら、将来もまた、世界のどこかで突発的にテロルや、革命や、暴動が起こるということになる。しかし、もし世界の今を読み解き、明日の見立てをしようとするならば、世界中でバラバラに発生しているような事象について、それらが何らかの規則の上の出来事であることを証明するための補助線のようなものを発見する必要がある。世界の事件や紛争は、それ自体を見ていては、かえってこの補助線を隠蔽することになるかもしれない。ただし、これはそこに何らかの統一的な法則が確かにある、としての話である。確かなことは、新聞やテレビが報ずる事件も紛争も、突発的に起きたわけではなく、そこに至る様々な要因の絡み合いやら、積み重ねというものが押し出した断面であるということだけである。難しさがるとすれば、その要因と結果の関係は、必ずしも直線的な因果関係を構成しているわけではないということである。喩えて云えば、何が描かれているかは明瞭に分かるのだが、どんな意図で、どのように描かれたかについては見当がつかないような絵画を前にしているようなものである。
 そこで、こう考えてみることにする。なにごとであれ、それが将来どうなるのかについて確定的に語ることなどできはしない。それは、世界が複雑にできているからだということではない。現在の世界を導いてきた原因と考えられるものを拾い出すことはできても、それが確かに原因であったと証明することが原理的にできないような世界にわたしたちが生きているからである。事故であれ、紛争であれ、戦争であれ、それらに至るまでにはいくつかの相関する出来事が先行して起こったと述べることは可能である。しかし、どこまでいってもこれらの相関関係が、因果関係に変わりうることはない。ましてや、未来の出来事を予想するために参照すべき過去の事例を見出すことなどできるはずもない。ただ、人間というものは同じ過ちを繰り返すものだといった類の教訓を拾い出すことができるだけである。

(その2へ続く)







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最終更新日  2008.03.17 18:29:46
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