3313115 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2008.05.05
XML
カテゴリ:ヒラカワの日常
連休中は、ずっと家にこもっている。
初日に、橘家文左衛門(@中野芸能小劇場)を聴きにいったが、
それ以外には何も予定がない。
だらだらとした黄金週間というのもおつなものである。
昨日は、思うところあって
三浦雅士『青春の終焉』、関川夏央『昭和が明るかった頃』、すが秀実『1968年』、
を引っ張り出してきて読む。
ほとんどは、再読なので、読みたいところだけ拾い読みしている。
というのは、東京オリンピックのあった1964年が、気になっていたからだ。
これらの本には、当時のことがちらほらと書かれている。
あのとき、俺はまだ紅顔青尻の中学生で、
詰襟を着て、代々木のオリンピック陸上競技場の会場にいたはずである。
マラソンを実際に競技場で見たのだ。
うす曇りの空の下(俺の記憶では強い日差しはなかった)、
一団の集団が競技場を出て行った。
アベベという哲学者の風貌をもった稀有のマラソンランナーが
先頭で競技場に戻ってくるまで、
トラックとフィールドで何が行われていたのかの記憶はきれいに消えている。
俺の注意は、時折トランジスタラジオが伝える実況に
注がれていたのである。
日本人の円谷幸吉が、二番手を走り、トップのアベベを追走していると、
ラジオは伝えていた。
後に、「記録か芸術か」でちょっとした議論を呼んだ市川 崑の『東京オリンピック』を
見ると、アベベはほとんど、追っ手を意識することなく
ただ、まっすぐに前方を見つめ、いや、
もっと遠くの何かを見つめながら振り返ることなく走り続けていた。
それは、過去も現実も振り返るためにあるのではないといった草原の走者の哲学の
ようでもあった。
この映画に脚本スタッフとして関わったのが先日お会いした、谷川俊太郎である。
アベベの走りは、谷川俊太郎の詩のように、孤独で美しかった。
『二十億光年の孤独』を走り抜ける覇者。
そこには、競技というよりは、遠い異邦の儀式のような荘厳さがあった。
祖国のエチオピアで走っていたのと同じ、素足で
急ごしらえで近代化した東京の町を走っていた。
彼がゴール・テープを切り、儀式の終わりにいつもしているかのように
呼吸を整える屈伸をして、普段のアフリカ人に戻った頃、
円谷が二番手でスタジアムに帰ってきた。
しかし、そのすぐ後ろにはイギリスの選手が迫ってきていた。
トラックで円谷はその選手、ヒートリーに抜かれ、
精根尽き果てたという様子で、ゴールに到着した。
メダリストになったのに、本人にもスタジアムの観客にも
爽快感というよりはくすぶったような寂寥感が残った。
知られるように、後に円谷は悲痛で美しい遺書を残して自殺し、
アベベもまた、事故で両足を切断するという不幸に見舞われた。
ヒートリーは、どのような人生を送ったのだろうか。

いや、東京オリンピックを回想するために
これらの本を読んでいたわけではない。
書こうとしているコラムのために、読んでいたのである。
それは北京オリンピックをめぐる、騒動についてである。
中国がチベット問題、つまりは民族問題を抱えていることは
誰もが知っていることだった。
それが、人権問題として大きくクローズアップされたのは
オリンピックを前に、ラマ教徒による示威行動が暴動に発展し、中国政府がこれを暴力的に弾圧する映像が世界に流れたからである。
俺は、この問題を、「国際社会」が作り出した最強のイデオロギーである、
人権問題として中国政府を指弾するということに、どこか違和感を感じるのである。

たしかに、中国政府は人権よりも、国威発揚を優先させる政策をとっている。
中国政府にとっては、この暴動がひとりチベットの問題ではなく、他民族を抱え込んで巨大な実験国家を運営するという、人民統治の根幹に関わる問題である。それは、中国政府にとっては、国際的な問題というよりは、歴史的な国内問題なのである。
だからといって、俺は中国政府の統治システムを擁護する気はないが、中国のオリンピック開催を人権問題とからめて指弾する気にはなれない。それは、北京にオリンピックを誘致する以前からあった問題であり、人権問題そのものはアメリカやヨーロッパ、日本などの先進国家の中ではすでに解決された問題でもない。イラク人民の人権を擁護するという名目で、イラクを空爆し、非戦闘員を殺戮しているのが現実である。外交カードとして用いられる「人権」という言葉の中には、人間の生活や素顔が払拭されている。

国威発揚といったナショナリズム的感情に突き動かされて、チベット支援の人々を攻撃している中国人の顔を見ていると、俺はなんとも言えぬ複雑な気持になるのである。
それは、あの1964年に、「国際社会の一員」となるために、ひたすら東京の景観を破壊し、近代化、市場化への道を進んでいった自分たちの顔を思い浮かべてしまうからである。
「昭和が明るかった頃」と関川夏央は書いている。たしかに、それ以前の日本は、貧しいながらも、貧しさを分け合って安定した明るさがあった。東京オリンピックとは、まさに、日本が背伸びをするために、「清く貧しい」東京を、清潔でモダンな東京に変貌させるための、破壊と創造であった。そのとき破壊したのは、古い町並みだけではなく、まさに貧しさを分け合うことを可能にしていた農村的な共同体も破壊したのである。温帯モンスーンに位置する農業国家が、一気に都市化するためには、東京オリンピックという儀式が必要であった。そして、それを実現するために動員されたのは、近代化した市民としての日本人ではなく、村落共同体的な一体感を持った日本人であった。つまり、ナショナリズムが必要であったとはいえないだろうか。当時の日本の生活者にとって、オリンピックは本当に必要な行事だったのだろうか。そんなはずはあるまい。戦後十年で、日本は敗戦の荒廃を建て直し、順調な経済発展を続けていたはずである。ただ、国際社会の一員となるというスローガンは、衣食足りはじめた当時の日本人の心性を刺激するには十分な言葉だった。
俺の記憶の中にある当時の日本人の顔は、いまオリンピック万歳と叫ぶ中国人の顔に酷似している。

断っておきたいのだが、俺はオリンピック以前の日本が良かったとか、近代化がいけないとか言いたいわけではない。まして、チベット人民を弾圧している中国共産党政府には、やむを得ない事情があるといった擁護をしたいわけでもない。人間の社会が都市化へ向かって進展してゆくのは、自然過程であり、快適で清潔な生活へ向かう欲望を否定することなどできはしない。国威を発揚するオリンピックは、その近代化を加速させる絶好の機会でもある。オリンピックが牧歌的なスポーツの祭典に戻ることもまたできないだろうとおもう。それでも、東京にオリンピックはいらないという人間の顔がほとんど見えなかったように、北京にオリンピックはいらないという中国人の顔が見えないということは、考える必要があるだろうと思う。
自衛隊員円谷幸吉が、何故死なねばならなかったのかについて、俺が理解できたのはそれから二十年もあとのことである。
東京オリンピックが日本にもたらした功罪というものがあるとするならば、人口が十倍の
中国のオリンピックの功も罪もまた十倍の規模になることを、リアルに思い描いて北京オリンピックを考想している中国人の顔も、日本人の顔も見えない。中国共産党にとっても、少数民族にとっても、オリンピックが成功裏にすすむかどうかは、本当はたいした問題ではない。オリンピック以後に、東京がそうであったように、何年か後にそれが何であったのかが分かるように思う。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008.05.05 23:23:10
コメント(2) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.