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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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ヒラカワの見方

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August 5, 2008 楽天プロフィール Add to Google XML

 多様性の対極にあるもの。
[ ヒラカワの日常 ]    

汗を拭きながら
バスに乗って、アレクサンドル・ソルジェニーツィン死去のニュースを読む。
文学というものの底力を認識させてくれた作家であり、
あらゆる権力に一人で対峙し続けてきた戦後の最も偉大な作家の一人である。
一筋縄ではいかない男であり、ロシア文学の生嫡子である作家が
ソルジェニーツィンであった。
追悼。
だが、誰がかれの後を引き継いでいけるのだろう。

昨晩の浅草どぜう&日本酒痛飲がたたって、
今日は、眠くてしょうがない。
(どぜうは、「駒方どぜう」が有名だが、地元での人気は
断然「飯田家」だそうである)
確かに風情があって、よい店であったが、
どじょうに踊らされてつい呑みすぎた。

今朝も、電車の中で居眠りして秋葉原を乗り越して、上野まで行ってしまった。
暑い夏である。
「昔は夏がいいと思っていたけど、やっぱし冬の方がいいわ」と女房が
手ぬぐいで汗を拭き拭き嘆息している。
身勝手な女である。
まあ、しかし俺も同類だろう。
冬がいい。

中国のオリンピックに関して
内田樹くんがブログで大変興味深い記事を書いている。
鋭く、いい文章である。是非、お読みいただきたいと思う。
誰も言わないことであるが、何十年か後には
「あれが分岐点だったね」と振り返られるだろう問題の中心を衝いている。
分岐という意味は、前近代から、近代化への分岐という意味ではない。
オリンピック推進派は、現在の建設が創造への破壊だと考えているだろう。
たしかに、外形的には鄙びた、それゆえに前近代的な胡同(フートン)が破壊され
近代的な(ハイパーモダンな)建造物をならべた街路が出来上がるだろう。
しかし、この種のハイパーモダンは数十年すれば回収不能の反故のような時代遅れに
なることもまた確実なことだ。そしてまた、新しいものが古いものを糊塗するように
作られるだろう。金と、権力さえあれば、それは何時でも、何処でも
誰にでもできることである。
しかし、この創造的破壊いや、破壊的創造で失われたもの、
スクラップにされた形の無いもの、内田くんのいう「貧しさへの共感」
というものは一度破壊されると、二度と修復することのできないものである。
世の中には修復可能なものと、二度と元には復さないものとが確かにある。
そして、修復不能なものほど、その破壊は容易に行われる。
発破もクレーンもいらない、投下する資本も不要である。
もともと形がなく、誰も所有権を主張していないものだからだ。
それは、高度に文化的で、長い時間をかけて作り上げられてきた
もっともコストのかからない集団的な生存システムだからである。
いや、システムというよりは集団的な価値観である。
政治的な意思決定も、経済的な意思決定も常に、この集団的な価値観を
背景に行われている。

オリンピックは、いつの頃からか(たぶん商業主義的なオリンピックとなった1996年アトランタ大会あたりから)スポーツの祭典である以上に、
商業主義のレバレッジ(てこ)であるという意味合いが強くなった。
それは、アメリカが金融中心の経済政策を打ち出し、グローバリズムによる
世界的な収奪システムを展開し始めた時期に重なる。
グローバリズム思想が、まさにグローバルに展開するために最も必要だったことは
あらゆるローカルルールの廃止、価値観の標準化ということである。
そして文化資産も含めてあらゆるものを一元的に価値づけをできる透明な尺度として、
ドル(お金)が選択されたということであり、
世界もまたこれを承認したのである。
そのような価値観が瀰漫する中で行われるオリンピックというセレモニーでは、
すべてのものがお金に換算されることになる。換算されたお金の嵩が、力の象徴であり、
国威であるというように読み替えられる。
そのことは、逆に言えばお金に換算され得ないものは全て無価値なものとして
廃棄されることになる。

あたりまえのことだが、世の中にはお金に換算され得ないが、
ひとりひとりの人間にとってはかけがえのないものがたくさんある。
多様性ということばがよく言われるが、多様性の本当の意味は、
ビジネスや、文化の様態の種類が多様だということではなく、
それらを計測する尺度が複数あることであり、自らが採用したくない尺度に対して
敬意を払い、共存してゆくことであると俺は思う。
卑近な例で恐縮だが、(いや多様性はまさに卑近なところに存在している)
喫煙の習慣を、医療費や健康といった尺度から糾弾することも、
貧乏を、労働意欲の欠如や能力の結果であるといって貶めることも、
一元的な価値観から生まれてきた合理性信仰のように俺には思える。

貧の意地、貧への共感、そして貧への尊敬といったものは、
そういった多様性の中でも、もっとも捻りの利いた、重要なもののひとつである。
貧への尊敬は、欲望の放埒を押さえ、生活の規矩を教え、驕矜を戒め、
社会を平穏に導く効果がある。
ようするに、くだらないやつが威張らない社会にとって必要な価値観なのである。

それは、コマーシャリズムレバレッジとなったオリンピックが胚胎しているものの
対極にあるものだろう。



Last updated  August 5, 2008 16:58:15





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