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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2009.03.05
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カテゴリ:ヒラカワの日常
ほとんどあらゆる問題に対する答えが「さらなる経済成長」なのだ。失業率が高まっている―雇用を創出できるのは経済成長だけだ。学校や病院の予算が足りない―経済成長で予算は増額できる。環境保護がふじゅうぶんだ―経済成長で解決できる。貧困が広がってきている―経済成長によって貧しい人々は救われる。収入の分配が不公平だ―経済成長でみんなが豊かになれる。何十年にもわたって、経済成長は過去の世代が夢に見ることしかできなかった可能性を実現するための鍵なのだといわれつづけてきた。
(クライヴ・ハミルトン『経済成長神話からの脱却』アスペクト刊、嶋田洋一訳)

 経済成長それ自体は、良いも悪いもない。文明化が進み、都市化が進み、消費生活が活発になれば総需要は拡大し、生産もそれにつれて拡大して経済は成長する。もし、問題があるとすれば、それは社会の発展プロセスは均一ではなく、まだら模様であり、発展の進捗は地域によって大きな差があるということである。

そもそも経済成長とは、何を意味しているのか。話をわかりやすくするために実質国民総生産の増加を経済成長だと定義してみる。要するに市場に供給する生産物、サービスの増加が経済成長だと考えてみる。文明化が一定の水準に達し、消費者の手元に必需品としての生産物がいき届いた時点で、需要は原則としては買い替えのための消費だけになるので経済は成長することを止めて均衡へと向かう。もし、この段階で人口減少が起これば総需要はさらに減少することになり、経済成長はマイナスの局面に入ることになる。簡単な算術である。

しかし、何故か現実の世の中では、与党の政治家も野党の政治家も、企業家も、経済学者も、メディアも、一般の人々も「経済は成長しなければならない」という観念に支配され続けている。小泉政権下のスローガンは、「改革なくして成長なし」というものであった。二〇〇八年の米国大使館のホームページには、米国国際開発庁長官ヘンリエッタ・フォアの次のようなアナウンスメントを掲載していた。「経済成長は、私たちが推進している分野です。なぜなら、経済成長はほかのすべての活動の基礎であり、貧困の低減の主な原動力になるからです。経済が成長すれば、人々が教育や医療の費用を負担することができ、自らや家族が当事者意識と安定感を感じられる活動にかかわることができます」。 

また、OECDの広報誌「オブザーバー」は、「全体として,ゼロ成長シナリオはすべてに不利に作用する。特に開発途上諸国では失業と環境の悪化が広範囲に広がるだろう」と述べている(一九九九年夏号掲載論文「経済成長は人口問題を解決するか?」)。

かくして、経済対策も、医療政策も、教育方針も、人口対策も、経済を持続的に成長させるという前提のもとに設計され、施行される。経済成長は、人間の社会が達成しなければならないほとんど唯一の目標となる。ほんとうは、経済が成長するか鈍化するかは人間の社会の様々な要因が生み出す結果であり、成長への妄信はただの願望に過ぎないとしてもである。しかし、何故か経済がマイナス成長するという前提は、禁忌とでもいうように遠ざけられ、よくとも見て見ぬ振りをしてきたのである。

何故、私たちは経済成長という神話から自由になれないのだろうか。
 その理由はいくつか考えられるだろうが、世界中の国家という国家は、一時的な移行的混乱はあるにせよ、文明化、都市化、民主主義化といった歴史を辿っており、いまだ明確な衰退局面といったものを経験していないということがあるだろうと思う。

「軍人はいつも過去の戦争を戦っている」の喩えどおり、私たちの思考の基底には、すでに経験済みの事象が共同的な記憶として堆積しており、私たちはその既知の堆積物をさまざまに組み替えながら現在の世界観というものを無意識的に構成してしまうのである。私たちは、私たちとその祖先がまったく経験したことの無い、未知の事象に関しては、ほとんどうまくイメージすることができない。ほんとうは、イメージできないということと、それが私たちの上に到来しないかどうかということとはまったく関係が無いにもかかわらず、私たちはその未知の可能性を勘定に入れて思考することができない。

(中略)

人口が減少する。経済が均衡する。これらは、原因ではなく結果である。すくなくともそのように考える余地を残しておくべきだろう。もし、そうだとすれば、経済が右肩上がりを止めた後の社会の作り方というものを、冷静かつ具体的に考想しておくべきではないだろうか。私には理論的にも実感としてもそれが自然な考え方であると思われる。経済成長というものを至上の命題として、飽食した市場にさらなる商品を投入し続け、その結果として人々が過剰消費、過剰摂取に明け暮れる光景は滑稽を通り越して悲惨なものがある。

卑近な例を挙げるなら、世間にダイエットという言葉が流行しはじめたとき、すでに経済成長はその本来の動機を失いつつあると思うべきではないのか。食料を必要以上に摂取し、肥え太って動けなくなり、何とかしなければならないと思ってスポーツジムに通い、ルームランナーで余分な水分を搾り取るというのは、どう見ても間尺に合わない行動である。しかし、自分がブロイラーのニワトリのような生活をしていてもやがてそれを奇妙だとは思わなくなる。より効果的なダイエット器具が開発され、新しい需要が喚起される。しかし、こんなことが永遠に続くと考える方が不自然である。


(続きは五月頃発刊の新書で)





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最終更新日  2009.03.06 02:24:41
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