3313594 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2017.09.26
XML
カテゴリ:ヒラカワの日常




「路の記憶」より

湯田川温泉

 友人の内田樹のお兄さんが、肺がんで亡くなってから一年が過ぎた。わたしと同じように、若くして起業したが、わたしとは違って立派な会社に育て上げた。ビジネスの才能があるようには思えなかったが、将来を見る独特の見識眼があった。何事も自分の頭で考え、思い立ったら真っ直ぐに行動した。徹底した合理主義者だったが、会社を離れれば情のひとであった。最終的には大手の医療機器メーカーに全株式を売却して、悠々自適の生活に入った。

 生前、公私ともにお世話になり、亡くなるまでの十数年は、毎年箱根の吉池という宿で二泊三日の麻雀を楽しんだ。

「生きていれば返してもらうが、俺が死んだら君にあげるよ」といって貸してくれた五本のチャン・イーモウのDVDは返さずじまいになった。

 一周忌ということで、内田樹くんをはじめ、ご一族がお墓のある鶴岡に集合した。わたしは、前日に飛行機で庄内に飛んで、そこからタクシーで前泊予定の湯田川温泉を目指した。

  「湯田川温泉までやってください」「久兵衛旅館かい」とこちらが旅館名を言う前に運ちゃんが言った。「いや、つかさや旅館です」

 鶴岡といえば、ほとんどの観光客は、温海温泉か、湯の浜温泉へ流れていく。

どちらの温泉場にも、近代的で快適な旅館が多く、日本海を眼下にする露天風呂の施設も充実している。

いっぽうの湯田川は、三方を山に囲まれ、かつては湯治客が長逗留する温泉場として栄えていたようだが、今はひなびた温泉街であり、宿もどちらかといえば、古風な日本家屋である。

 空港から二十分も車を走らせると、こんもりと常緑樹が茂った山が間近になり、隠れ里のような末枯れた温泉街に突き当たる。

 つかさ屋の説明書には、「庄内藩主酒井家の湯治場として、また出羽三山参拝の精進落としの歓楽街として賑わっていた湯田川温泉にあって、つかさや旅館は湯のぬくもりが時代を経ても決して変わらぬように、一貫して訪れる人々の心をねぎらうおもてなしに心掛けてきました」とある。現在の当主は9代目だそうで、江戸時代から続く旅館の風情を味わうには、もってこいの宿であった。

  宿の隣に、正面湯という共同浴場があった。わたしは手ぬぐいも持たずに、いきなりこの正面湯の、正方形の湯に浸かった。湯船の他に何もないが、加温、加水なしの源泉かけ流しである。いまや、こうした純粋な源泉かけ流しの温泉は、全国でも一パーセントしかない。透明で、やはらかい湯に浸かりながら、いいところへ来たと思った。 当地の湯の守り神である、由豆佐売神社(ゆづさめじんじゃ)の正面に位置しているので正面湯という。 

 風呂から上がって、しばらく身体を乾かしてから、浴衣に着替え、由豆佐売神社まで、散歩をすることにした。苔生した参道に続く石段を登り切ったところには県指定天然記念物の乳イチョウの巨木がそびえ立っている。銀杏の幹が、途中でおっぱいのように地面に向かって垂れ下がっている不思議な巨木で、なんとも奇妙な光景である。

 寺の上り口に、藤沢周平原作、山田洋次監督による映画「たそがれ清兵衛」のロケーションが、この湯田川で行われたという説明板があった。そう言われれば、あの貧乏侍が暮らしていた山里の光景は、この神社周辺の光景そのままであり、誰が保存するでもなく当時の空気が保存されていることに改めて気づかされる。夕暮れ間近の神社には、セミの声だけが反響している。

 この地には、柳田国男、種田山頭火、斎藤茂吉、竹久夢二、横光利一など錚々たる文人墨客が来湯しており、あちこちにその碑があるということなのだが、神社の境内のあまりの蚊の多さに辟易して、すぐに退散した。東京もんには、この地の蚊の凶暴さに打ち勝つ免疫は備わっていないようだ。
 正面湯の向かい、神社への参道の横手には、四角い足湯があった。観光客もない平日の夕方に、足湯を利用するのは、近所の家族三人だけであった。裸の足を湯に浸しながら、楽しそうに今日一日の話をしている若い母親と二人の子どもの光景が、目に焼き付く。こんな風に少年や少女の時代が過ぎていく。 東京では失われた景色である。 
 宿に戻り、夕食をいただいて、風呂に直行した。風呂は二つしかない。一つは四人ほどは入れる四角い「ゆったりの湯」で、もうひとつは二人入ればいっぱいの「こじんまりの湯」である。時間制で、男湯女湯が入れ替わるしくみ。 この宿には、露天風呂はないけれど、千三百年前から湧出し続けている本物の硫黄泉、かけ流し温泉がある。当今の観光旅館としては、質素過ぎて物足りないと思われるかもしれないが、ひとり旅のこちらとしては、その素っ気なさがありがたいのである。宿のホームページを覗いてみると、「当館がお客様にとって第二の田舎のような、何かほっとして安らげる、そんな場所に感じていただけたら幸いです」とあった。お料理にしても、中居さんや女将さんの対応にしても、みごとなほど自然なやわらかさがある。 
 本当に、ここを第二の田舎にしてもいいなと思った。  






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2017.09.26 02:27:53
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.