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久恒啓一

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武者小路実篤と いう名前は、白樺派という美しい名前とともに私たちの世代にとっては、あこがれの対象だった。

実篤は1885年(明治18年)生まれだが、1975年(昭和50 年)に90歳で没するまで「私の美術遍歴」を最後に著書を刊行し続けているから、私が高校生から大学生の間に、同時代にこの人の本を読んでいたということ になる。
23歳の処女出版「荒野」から数えて67年間、作品は6000というから、長寿で仕事を続けているということは凄いことだと改めて感じた。中川孝によると、最初の単行本は1908で、1959年の75歳時点で50年経っているが、その時点で、戯曲117編、短編小説131編、中編ないし長編26編、伝記小説9編、感想、随筆、詩集など93編、著書の総数は500冊とある。

子爵であった父・実世は実篤が数え年の3つにならないうちに「この子をよく育ててくれる人があったら! この子は世界に一人という人間になるのだが。」と言ったという。
この大それた予期を知らされた実篤は、「陸軍大将になっても始まらない」、「総理大臣になると思ったこともあったが、それも総理大臣が最後の目的ではなかった。自分はもっと大きい空想家だった。伊藤さんや山縣さんになっても始まらないと思っていたのだ」そして、「アフガニスタンの王様になるくわだてをしたものだった。」
本人も「遠慮なく言うと自分の星は世界に一人というおもしろい人間になる星だそうである。」と言っている。

武者小路実篤は24歳のときの日記で「60歳まで健全でいたなら必ず何かしてみせる。何かして見せるといふのは、一つの武者主義をつくって見せるといふことである」と書いている。

26歳では文学同人誌「白樺」を志賀直哉らと創刊している。「白樺」は、学習院中等科での実篤(当時17歳)と志賀直哉(当時19歳)の出会いとそこから生れた十四日会、そして明治43年に創刊された白樺を紹介している。こういう雑誌は長く続かないことが多いのだが、大正12年の関東大震災まで実に160号を数えるから、その影響は大きかった。

昭和に入ると、、、

大正末から昭和11年頃にかけて、、、

昭和10年代以降になると、、、、


戦後、著作の中心は、、、

武者小路実篤が1918年に「新しき村」(人間が人間らしく生きるための運動)を提唱し、その年の11月に宮崎県に村が創設されて、すでに90年以上が経った。
この地は中世の山城跡で6.5ha余りの広さがあったが、ほとんどが山林と原野であり、農業用水や飲料水の確保に苦労することになった。創設時大人18人、子供2人の計20人で始まったこの村では、1929年頃には50人余りの人が生活するようになる。
実篤はここで二人の子を設け、「友情」「或る男」「耶蘇」など数十冊の本を書いている。当初の必要資金は、実篤の原稿収入を始め、村外会員、志賀直哉、柳宗悦、岸田劉生などの白樺同人や篤志家の支援でまかなわれていた。岸田は経済支援のための画会を開いても鋳る。
実篤は、創設から7年間にわたって会員とともに生活をしているが、村を経済的に支えるために原稿執筆に専念するため村を出ている。目指した自活への道へは13年の歳月がかかっている。それは泥沼へ石を投げ込むような努力の日々だった。この村では創作活動も盛んで、村の雑誌「新しき村」や、「新しき村出版部曠野社」なども設立されている。また美術活動、演劇活動も盛んだった。現在この地では、「日向新しき村」として二家族4人が生活している。

実篤は、「新しき村というのは、、、皆が協力して共産的に生活し、そして各自の天職を全うしようと異いうのだ。」「人間らしい生活というのは、人類の一員としてこの世に生活してゆくのに必要なだけの労働を先ず果たして、そして其他の時間で自分勝手の仕事をしようというのだ」と「新しき村の小問答」で語っている。
農業を中心とした共同生活で、運営や生活に関わる仕事は分担するなど、各自が義務労働を果たした。衣食住や医療、教育を保障し、労働時間は一日8時間(のちに6時間)と決めている。それ以外の自由な時間は芸術活動や創作活動にあてた。テニスやレコード鑑賞など、生活は苦しかったが、精神的には充実した生活であったという。また、多数決による解決法をとらない運営を目指した。

最初の妻・房子は、我孫子に建てた新居を売って新しき村の土地の購入費にあてるという実篤の案に同調し、実篤も大いに喜んでいる。太陽に向かうという日向という名前、日本の歴史の発祥地という伝説に魅力を感じ、自分たちの手で新しい日本史の一ページをひらこうという使命感に燃えていた。
しかし、房子の奔放な性格は性的な面も含めあらゆる面で摩擦を起こした。1926年(大正11年)に実篤は房子と離別。同年新入村の飯河安子と結婚した。房子は、村内の男と結婚した。1939年には、ダム建設に伴い村を出る者もあったが、房子と新しい夫は残っている。

1938年のダム建設のために一番肥沃であった土地の一部が水没したため、翌年、埼玉県毛呂山町葛貫に「東の村」を創設した。太平洋戦争が終わると実篤はいち早く新しい時代の村づくりに取りかかる。養鶏、水稲、畑、乳牛、果樹とひろがっていく。1948年には財団法人新しき村を設立している。
実篤はずっと理事長を引き受けている。創立40周年の1958年には村の農業活動による生産物と収入で村内の食料や生活費がまかなえる自活を達成する。

この「新しき村」の運動が、武者小路実篤のいう「武者主義」であった。武者小路実篤は、文学と芸術と人生論と同様に、生涯この運動にも深く関わっている。

「新しき村に就いての対話」によれば、
「以前はあることについて疑問を挟めばそれでよかった。解決は他人に任せて安心だったが。しかしそれに自分であるところまで答えを与えたくなった。」と語っている。
Aという人物と先生との対話という形式の文章では、
「先生は相変わらず楽天家ですね」、「先生は相変わらず空想家ですね」、「先生は相変わらず空想家ですね」という問いかけに対して、先生は「相変わらず空想家だ」、「いあや、空想家ではない」と変化しながら、新しき村の意義を説明しようとしている。
また、「僕は思想家とか宗教家とか言われるほうがうれしい」ともいっている。

武者小路実篤記念館は、京王線仙川から歩いて10分のところにある。武者小路実篤が 住んだ1500坪の土地は、現在では、実篤公園として整備されていて、その一角に住んでいた家があり、さらに平成6年に生誕百周年を記念して建った記念館 がある。
起伏があり、植物や花が咲いており、池もあり、この自然豊かな公園は昔の武蔵野を偲ばせる。改装中で家の中までは見れなかったが、実篤が愛した池 のある庭の側から中をうかがうことができる。晩年になったら「泉と水」のあるところに住みたいと念願していた夢を実現させた家である。  
越してきたのが70 歳だから、家族や友人に囲まれ仕事を続けた幸せな期間をこの地で過ごしたのである。野桜の大木が目についたが、木々の紅葉もきれいだった。ベランダから低い地にある庭と池を楽しむ姿が見えるようだ。
庭の池の鯉を見ながら進んで小さなトンネルをくぐると記念館が姿を現した。
ちょうど展示替えのためメインの展示室はみることはできなかったが、裏の小展示室に案内してもらった。ここにはビデオのコーナーがあり、何本もの紹介ビデオがあり、それを4本ほど見ながら疲れを癒した。

「仙川の家」は、この最後に住んだ家をテーマとしたビデオである。早起きで、朝は毎日原稿を4-5枚書いて、午後は絵筆をとって書画をかく、そして来客に会う、という生活を送った。普段は2人きりだったが、子や孫を含めると15人いて、よく家族がここに集まったらしい。三女の辰子はビデオの中で「したいことをしている生活でした」と回想している。
「終の住処」というビデオでは、1500坪の土地と建物を詳しく紹介している。ピカソから贈られたミノトール、庭の桜と紅葉、サンルーム、月見台、、。
「秘蔵映像」では、新しき村の様子、初めての洋行時の見送りの様子などを見ることができた。

武者小路実篤といえば、あの独特の温かみを案じさせる書画を思い浮かべる。若い頃から美術の鑑賞は好きだったが、自ら絵筆をとったのは40才頃からだった。味わいの深い生命賛美の作品が多い。独特の画風と、添えられた率直に想いが吐露された讃は人気があった。
「自然 玄妙 81歳」「人生の旅人に幸あれ 87歳」など晩年には年齢を入れるよいになった。
「天に星 地に花 人に愛」
「人生は楽ではない そこが面白いとしておく」
「画の仕事は道楽であり、それ以上でもある」
「野菜はそういう意味では僕はいつみても感心する。」
「瞬間の美しさ、僕はそれを永遠化する事に画家の喜びがあると思う」
「共に咲く喜び」「自然玄妙」
「人見るもよし 人見ざるも よし 我は咲く也 八十四歳」
「どかんと坐れば 動かない 八十九歳」
「雨が降った それもいいだろう 本が読める 実篤」
「龍となれ 雲自づと来たる 実篤」
「仲よき事は美しき哉」
「まれけり死ぬる迄は生くる也」
「いつ迄たっても本当の事が言いたい」

「満八十になって」という随筆がある。「あと10年生きられれば、僕は僕風の美術館をたてたい希望は失っていない」「入って出るまでに僕の生きた本に接することが出来るような特別な小美術館」と書いているが。この記念館はそれが実現したものだろうか。
記念館で買った図録をみると、志賀直哉と写った写真が多い。明治39年に行った志賀直哉との徒歩旅行の写真など2人は体格もよく男前である。白樺の新年会、創刊十周年記念、晩年の写真など、常に志賀直哉とともにいる。2人は生涯の親友だったと感じる。
また、白樺関係の記念写真には日本民藝館を創った柳宗悦が感性の鋭そうな目をして写っているのも目を引いた。高村光太郎、岸田劉生、木下利玄、バーナード・リーチらの姿もみえる。
「仲よき事は美しき哉」と好んで書画に書いた実篤は妻の安子が亡くなっ たわずか2ヵ月後に永眠する。

実篤は小説、戯曲、詩、評論、随筆、雑感など6000近い作品を発表したのだが、「武者小路実篤 この人は小説を書いたが小説家と言ふ言葉で縛られない哲学者思想家乃至宗教家と云ってもそぐはない そんな言葉に縛られないところをこの人は歩いた」という中川一政が書いた「この人」という詩がよくこの人の歩みをあらわしていると思う。
記念館で買った「人生論」を本当に久しぶりに読み直したい。作品解説は亀井勝一郎だった。この名前も懐かしい。

武者小路は、作家として大成し、晩年には独特の画家ともいえる存在になった。また、「新しき村」という運動の創設者となった。幼少の頃に夢見た「アフガンの王様」にもなったのだ。
画家の中川一政は、「この人は小説を書いたが小説家と言ふ言葉で縛られない。哲学者思想家乃至宗教家と言ってもそぐはない。そんな言葉に縛れないところを此人は歩いた」と実篤のことを述べている。
「世界に一人という人間」「世界に一人というおもしろい人間」であり、その人間が様々の形としてこの世で仕事をしたということだろうか。
青年時代の白樺から始まった武者小路実篤は、90歳までという長い時間をかけて、多方面の才能の開花させ、他に類例のないタイプの人生を送った。









 







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Last updated  2013/11/26 11:28:38 AM
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