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久恒啓一

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本日プレゼミで訪問した旧聖蹟記念館をつくった田中光顕という人物についての記述。
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天保14年(1843年)閏9月25日、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。
土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発されたぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃れる。薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。
維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館(現在は幕末と明治の博物館)、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。その他、1901年(明治34年)に日本漆工會の2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行っている。
晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。
1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町の別荘にて97歳で没した。口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』(新版が大和書房のち河出文庫)がある。他に『維新夜話』と『憂国遺言』が遺されている。

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学部長日誌「志塾の風」1404010 | 編集

プレゼミ。Kグループはバートル先生、椎木先生、私が担当教員。
簡単なオリエンテーションの後、徒歩15-20分の旧聖蹟記念館を訪問。
多摩大の近隣を知るという目的。
学芸員の高橋さんから30分ほどの詳しい説明を受ける。
全員で写真撮影。
f:id:k-hisatune:20140410101027j:image
明治天皇は1881年以降、連光寺村で鮎漁を楽しまれ、この地は皇室の御猟場に指定された。
名前を変えた多摩村は大正時代まで続き、皇室はゆかりの深い土地となった。
昭和3年(1929年)、宮内大臣として長く明治天皇に仕えた田中光顕(1843年生まれ)という人がこの地に着目。
田中は70歳で引退した後、明治天皇の偉大さを伝えること、明治の志士たちを顕彰することを志した。
田中は97歳までの長寿を全うしたから、余生は四半世紀に及ぶ。これは余生というべき長さではない。
95歳の時の等身大の写真があった。九七叟。かくしゃくとしている。最後の志士であった。
郷里高知に青山文庫、千葉県大洗に常陽明治記念館、そして多摩に旧聖蹟記念館を建てた。
田中光顕は、1843年土佐に生まれた。坂本竜馬(1835年生まれ)より8歳年下。武市半平太・瑞山の土佐勤王党に参加、陸援隊の一員となった。
警視総監、学習院院長、などを歴任した後、宮内大臣を11年努めている。1939年没だから日中戦争を経て、大東亜戦争のさなかまで生きていたということになる。
「長生きの術はいかにと人問わば 殺さざれし故と答えたり」という田中の歌があった。
館内には、明治天皇騎馬像の彫刻がある。また坂本龍馬を描いた絵、勝海舟の書なども。
勝海舟「得失は一時にして、栄辱は千歳なり」。
ウィキペディアで田中光顕を引いてみたが、まさに明治維新から二・二六事件までの生き証人だった。
この人の一生を追うと江戸、明治、大正、昭和が一つの物語としてみえてくるかもしれない。
f:id:k-hisatune:20140410101303j:image
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来日中の吉林大学沈教授とラウンジで歓談。
金先生、中村その子先生も加わる。
大学同士の交流協定の締結を進めようということになる。
10年ほど前に宮城大時代に私は吉林大の客員教授となった。その時、旧満州の長春は残留孤児を育ててくれた土地であることから、私の名前をつけた孤児を対象とした奨学金を出していた。沈教授には長春でお世話になった。
多摩大では、金教授、バートル準教授という北東アジア研究者と吉林大の沈教授が共同研究をしており、来日時には必ず食事の機会を持っている。
そういう経緯があり、今回の協定締結の話になっている。国際交流とは本来はこういう積み上げの上ででてくるものだろう。10年ほどかけて実りの最初の段階が見えてきたきたところだろう。
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昼休みは非常勤の先生たちへの辞令交付。多摩大との関わりの多様さと大学の歴史もわかる。

安田峰俊先生:中国語、現代中国入門を担当していただいている。
山本博聖先生:自然科学概論担当。
柏原伸也先生:プロジェクトゼミ担当。
十市勉先生とは挨拶。

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高野課長:3つの系の人材像と具体的人物の表現の仕方について。多摩大型問題解決学について。
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ホームゼミ
2-3年生合同のオリエンテーション。
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ラウンジにて。
大森学生委員長:新入生の様子を聞く。いくつか問題もでているようだ。
金教務委員長:自己点検関係。
川手教務課長:卒業の集いの日程調整












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Last updated  2014/04/11 06:16:52 AM
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