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視覚化景迹

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田中亘

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キリスト教は「愛」の宗教である、とよく言われます。

その「愛」は神が我らの主イエス・キリストを通して示された「愛」であって、誰もが示せる愛ではありません。

その「愛」は、イェス様ご自身が私たちの心に示されるまでは、誰もその「愛」を知り得ることは出来ず、ましてその「愛」を示すことは出来ないのであります。
イェス様はご自身このように教えられました。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」
(ヨハネの福音書15:13)


インマヌエルという言葉があります。
具体的には聖書の中に3回、この言葉が出てきます。

インマヌエルという言葉はギリシャ語でEmmanouelと言い、ヘブライ語では「イッマーヌー」といいます。
この言葉の意味は、先ずはじめの「イム」という言葉が「と共に」という意味で、次の「ヌー」が「私たち」という意味です。
そして最後の「エル」が「神」という意味で、インマヌエルとは「神が私たちと共に」という意味の言葉であります。

神が私たちと共にある、という表現の言葉は聖書の中では数多くみられます。
ここですべてを網羅してご説明することはスペースの関係上出来ませんが、また、折々にご説明するとして、最も顕著な、大きなキリスト教の根本としての「神が共にある」という事実は、イエスの生涯そのものにあるのであります。

インマヌエルは、イエスの誕生に始まり、イエスの十字架上での死と、死んで3日目に甦られたという復活を通して「神共にいます」という真実が、完全に成就し、私たちに示されているのであります。

私たちが本当に、この「インマヌエル」を体験出来れば、私たちはその私たちと共にいて下さって力を与え、聖霊に満たして下さる神様の示す「愛」を身に受けることが出来るのであります。

その時、私たちは神様の大きな働きに参加して、力を与えられる生ける神様を体験するのであります。

しかし、スポルジョンという人は「インマヌエルが私たちにご自身を啓示されるまでは、私たちの魂は主を見ることは出来ない」と言っております。

私たち人間には二つの目が与えられております。
一つはこの肉体の目、そしてもう一つは心の目であります。
この二つの目が働いて私たちはいろいろなものを見ることが出来ます。

特に「心の目」は大切です。
勿論、肉体の目も大事なのですが、肉体の目は時々、ものをはっきりと正確に見ることが出来ません。見間違えることは度々です。

肉体の目は、観たものの情報を心の目に送り、その観たものを判断します。
実際に目で見間違えれば、伝達を受ける心の目にも間違った判断が成されます。
こうして私たちは間違った考えをし、とんでもない誤解をしてしまいます。

ですから、目で見る、ということは、必ずしも正確で正しい判断材料には成らないのであります。
ということは、私たち人間には、案外正しく観る能力に欠けていることがあるということです。

もし、間違ったことを正しいと判断したりすると、人生に大きな事故を起こすことだってあるでしょうし、人生、間違った方向に進んでしまうことだってあるのです。
自分だけを信用する、なんておっしゃる方が多いのですが、こういう事実を観ると、それはとても危険な行動ではないでしょうか。

インマヌエル、神が私と共にいる、ということは、その様なミステークを起こさないで済む、と言うことにも繋がります。

神様は絶対です。間違いはありません。

また、「人には出来ないが、神には出来る」のであります。
聖書はその様に教えます。

自分だけを信じて生きている人は、心の小さな人になってしまいます。
なぜなら、不安が多いからです。
不安が心を揺さぶって、落ち着きを与えてくれません。
ですから、小さく小さくなってしまうのであります。

しかし、この神様、全知全能で、しかも、この大宇宙の創造主である神様と共に生きる人は、神様の判断が直接自分の心に与えられるのですから、神様を頼って生きてゆけるわけで、間違うことがなく、不安は払拭されて、安心した平和な人間へと成長するのです。

聖書には「神により頼む者は失望に終わることがない」と教えております。
見間違えないのであります。

もし、この目が見間違えても、神様からの情報が満載されている「心」が、目で見た間違った情報を正してくれるのであります。

宇宙へ行くとゴミがありません。
宇宙空間は汚れのない綺麗な空間です。

ですから、太陽の光も、反射するようなゴミがないため、なににも反射しないで光は走ります。
そのため、宇宙空間は真っ暗です。
太陽の光があるのかないのか判らないほど、真っ暗です。

光は反射してはじめて光の存在を知るわけで、反射がなければ光の存在を知ることは出来ません。

逆の言い方をすれば、宇宙の物体は太陽の光に反射しなければ、私たちの目には見えない、その存在を知られない、ということなのです。

光に反射して、はじめて物体なのであって、反射しなければ物体とはいえないのであります。

神様と共にいる、ということは、神様の絶対なる力を戴けるということであり、それは神様の光を浴びているということなのであります。

もし、神様の光を浴びているなら、私たちは神様の光に反射しているはずです。
光に反射しなければ、私たちの存在は認められないわけで、存在しているのに存在していないことになってしまうのであります。

ですから、神様の光に反射して、はじめて私たちはこの世に存在しているといえるわけです。

インマヌエルということは神様の光に反射しているということで、もし、神様の光に反射していなければ、私たちはこの世にあっても何ら価値のない存在になってしまいます。
神様の光こそ、それは「神の愛」なのであります。

私たちの主イェス様は、正に光なのであります。
聖書にそう書いてあるのです。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている」
(ヨハネの福音書1章4~5節)


「光は闇の中に輝いている」とありますから、イェス様は神様の光を受けて、イェス様ご自身が光を放つ神であり、その光が私たち一人一人に注がれているのであります。

もし、そのイェス様の光に反射して輝かないなら、その人の存在はこの世の闇の中なのであります。

イェス様の光も神様同様、愛、なのであります。
私たちがイェス様に反射するということは、イェス様の「愛」を反射するわけで、私たちも愛なる人間となるのであります。

インマヌエル。
それはイエス・キリストであり、私たち人類の光の基であります。

神と共にある、とは、イエスと共にある、と言っても良いでしょう。
イェス様の光に反射しようではありませんか? 
存分にイェス様の「愛」を人々に顕そうではありませんか。

そしてこの世にあって「愛」なる存在を示しましょうよ。
あなたなら、それが出来ます。ハレルヤ!






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最終更新日  2007.11.04 20:41:55



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