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ひよきちわーるど

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2005.06.04
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カテゴリ:カテゴリ未分類
今、万葉サイトにて
「椿」についてのページを作成している途中である。

そろそろ完成に近づいてはいるのだけれど
ここにきて安達瞳子氏の「椿しらべ」という本に出会い
またさらに椿の世界に没入している。




いつになればページを完成させるのかと自身に問うのだけれど

そして今、自宅のパソコン内部には 
たくさんの写真(柿本神社 忠度関連史跡 大中遺跡 生石神社)がひしめきあっていて
それらを早く整理しなければならないのだけれど

とにかく椿に関しては自分の納得できるところまで資料を読み、
まとめ上げていきたいと思っている。










「椿」と聞いて、真っ先に浮かぶ歌は人それぞれだろうけれど
私の場合、「五木の子守唄」である。

その子守唄の歌詞については諸説あるようで
実に多くの種類があるけれど

ここでは 私が幼い頃に祖母に歌ってもらった歌詞をあげてみたいと思う。





「おどま 盆ぎり 盆ぎり
 盆からさきゃ おらんど
 盆がはよくりゃ はよ戻る」

「おどま かんじん かんじん
 あん人たちゃ よかし
 よかしゃよか帯 よかきもん」

「あすは山越え 
 どこまでゆこか
 鳴くは裏山 蝉ばかり」

「おどんがうっちんだちゅて
 誰が泣いてくりゅか
 裏の松山 蝉が鳴く」

「蝉じゃござんせぬ
 いもとでござる
 いもと泣くなる 気にかかる」

「おどんがうっちんだば
 道端いけろ
 通る人ごち 花あぎゅう」

「花はなんの花
 つんつん椿
 水は天からもらい水」







幼い頃、この歌を聴きながら
椿という花は何と悲しい花なのだろうと思ったものだった。

何故椿なのだろうかと思う。












椿ときくと 必ず祖母を思い起こす。
本当に強く優しい祖母だった。

今でも、彼女の子守唄を覚えている。






今日は、数年前にこの「ひよきちわーるど」にて書いた日記を
再び復刻日記として書いてみた。

今、私がこんなことを思っているということを
一度だけでも 彼女に伝えられたらと思う。











・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・







「えらい所に嫁に来てしまった」

これが 祖母が嫁いできた時の 本家の印象だったそうだ。


居並ぶ人々は皆美しい人ばかり。
ごく普通の顔立ちであった祖母は 最初困惑したそうだ。

今から思えば
「おばあちゃん、そんなこと気にしなくてもいいじゃないの(笑)」とも思うのだが、
当時の祖母にしてみたら それはそれで困惑したことにちがいなかった。


確かに本家の人々をみると、
皆若いときにはさぞ美しかったろうなと思わせる人ばかりだった。







我が家は本家ではないけれど
・・ひよの弟は 小さいときなど超色白。
母ゆずりである。
産毛など金色に輝いていた。
おまけにくるくる巻き毛なのである。
実に愛くるしい赤ちゃんだった。


そして4つ離れた妹になると
彼女もまた色白でお目目ぱっちり。
姉の目から見ても実に可愛いかった。
今でも美しい顔立ちである。


時々日記に登場してくる7つ離れた妹も
実に化粧映えのする整った顔立ちである。







そしてひよきち。 うききゅー b(T‐T)
言いたくないが(笑)、器量に恵まれていない。
父に似て色黒である。

7歳の時の交通事故で 右手に傷が残ってからは
いよいよ落ち込んだ。






私が9歳か10歳の時に
祖母が言ってくれた言葉が今でも心に残っている。

「○○ちゃんの顔は10人並だけど、心はいつまでもきれいでいなさい。」







そしていつも博多人形を手にして言うのである。

「このお人形のように 眼の美しい人にね。」と。








私が大人になってからも 祖母は繰り返しこう言っていた。

「○○ちゃんが 器量が悪くてよかったよ。
 美人さんというのは人から嫉妬されたりして大変みたいだからね。」

うーん。
俄には首を縦にふれないような(笑)言葉だ。
女性と生まれてきたからには やっぱり美しい人になってみたいよなあ。









でもね、私も娘をもって初めて分かったことがある。

娘に願うことは 美しい顔立ちかどうかではなく、
ただただ幸せにという気持ちだけなのだ。
親としては当然のことだろうけれど。

娘が幸せであれば 顔立ちなんかはどうだっていい。

娘自身が美しくなりたいと思うのならば 
自分で努力すればいいだけの話なのだから。

祖母も こんな気持ちで私のことを見つめてくれていたのだろうか。








4人いる孫の中で1番おとなしくて、1番みっともなくて 
子どもらしいかわいらしさもないような
そんな私を 彼女は実に可愛がってくれた。

7つ離れた妹が生まれた時、私は心のなかで
「ああ、これでまた 
 私は両親に可愛がってもらう可能性が少なくなった」とさえ思った。

物心ついたときには もう既に弟や妹がいたので
何処かで諦めるということには慣れていたのだが、
妹が増えるということは その分 自分の負担が増えるということであり、
親に可愛がってもらう可能性も、また親に甘える可能性も
一段と減っていくものなのだと思った。






もちろん 妹のことは可愛がった。

彼女は実に可愛らしかったし、
よく子守歌など歌ってきかせていた。

けれどどこかで こんなに可愛い妹なのだから 
それまで私に向けられていた祖母の愛情も
いずれはこの妹に向けられるのだろうなと感じていた。

たまらなく淋しかった。








けれど 祖母の私に対する愛情は減ることもなく、
相変わらず幼い頃のまま いつだって可愛がってもらっていた。

ある意味、彼女は本当の意味において 私の理解者だったのだと思う。

彼女の前だけは 私は1人の子どもに戻ることができた。
長女としてではなく、その年相応の子どもとしてふるまうことができた。

彼女の前にいるときは、私はかけっこがビリでもいいのだ。
しっかりしていなくてもいい。お利口さんでなくてもいい。

お料理のことや器のことを教えてもらいながら、
祖母の家で好きなだけ絵を描き、
祖母の本を取りだしてきては読んでいた。












もしかしたら彼女は 
長女としての私の淋しさを知っていてくれたのではないだろうか。

弟や妹たちのように 上手に素直に甘えられなかった私。
甘えたとしても、受け止めてもらえないときのことを考えると 
不安で とても実行に移せなかったのだ。

「お父さ~ん、お母さ~ん」と言って 両親の懐に飛び込んでいく彼らを
私は不思議な感覚で見つめていた。
どうしてあんな風に 何の屈託もなく胸に飛び込めるのだろうと。








今だってそうだ。

流産したときですら 
遠く九州で心配しているだろう両親のことを思ったら 泣けなかった。

「大丈夫か?」と心配して電話をかけてきてくれる両親に対しては
大層元気な声で「ああ、全然大丈夫。まあ、予想はしてたからね」と
明るく言うしかできなかった。ほとんど条件反射だ。

ここで私が泣いてどうなる。
余計彼らに いらぬ心配をかけるだけだ。







唯一 4つ離れた妹からの電話で 
私はようやく泣くことができた。
彼女とは年も近いからだ。
彼女に対してなら 泣いても大丈夫だと思った。






もし7つも離れた妹に泣いてみたとしても、彼女は当惑するだけであろう。

ましてや弟となると 彼は男性だからこの悲しみはなかなか理解できないだろう。
この悲しみを訴えても、やはり困ってしまうだろうなと思った。







4つ離れた妹との電話で 私は
「やっぱり、親の前とか、他の弟妹の前では泣けない。
 何のかんの言ったって、強い○○姉ちゃんでずーっと通してきたから。」
 と言いながら 泣けて仕方なかった。









もうすぐ祖母の一周忌である。

もう1年経ったのかという思いと、
まだ1年しか経っていないのかという思いとが交錯している。
短いような 長いような1年だった。

1日たりとも 彼女のことを考えなかった日はない。







もうすぐ1周忌を迎えるに当たり、
心の何処かで もう一度彼女に会えそうな 
そんな気持ちがしてならない自分に気付き、馬鹿だなと思うのだ。

1周忌が巡ってきたとて、もう2度と彼女に会うことはできないのだ。







孫達の中で1番目だたなかった みっともなかった私。

お世辞にも可愛いなどと言えるような そんな器量でもなく、
おまけに右手には傷もこさえてしまって 
暑い時期になってもなかなか半袖を着ようとしなかった孫娘を、
祖母は一体どのような思いでみていてくれたことだろう。


そんな孫をみて同情するわけでもなく
鼓舞するわけでもなく、
普通の人々なら マイナス要因としてしか捉えないようなことを
彼女は 私のためには「幸い」として考えてくれたのである。


私の器量の悪さを見ても 嫌いになるどころか
「周りの人から嫉妬されないから安心だ」と笑ってくれ、

右手の傷を見て「心はきれいになりなさい」と諭してくれ、

おとなしく、自分の気持ちをなかなかストレートに出せない私を
はっきりしない子どもだと言うどころか
「人の気持ちを考えることのできる子や」と言ってくれた。


嫌うどころか 大きく包み込んでくれていた。


マイナス要因すら 「幸い」として考えてくれるような人が
一体どこの世界にいるだろうか。








彼女の1周忌を間近にして、改めて
伝えたかったこと、言えなかったこと、感じたこと。






最早

それらのことを 

彼女に伝える術もないことを

今更ながらに 思う。













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Last updated  2005.06.06 08:38:02
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