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坂上二郎さんが、お亡くなりになりました。。。
昭和の御茶の間を、ほんとうに盛り上げてくれ、誰からも好かれた人でした。 天才の欽ちゃんとは違い、本当に、天然な、ものすごい方でしたね。。。 別の意味での天才でした 闘病生活も長く、昨年も転倒からの入院もありました 最後まで、本当に頑張られました。。。 本当に、いままでありがとうございました 御冥福を、お祈りいたします。 「コント55号」坂上二郎さんが死去 76歳 2011.3.10 15:18 コント55号のコメディアンで俳優の坂上二郎(さかがみ・じろう)さんが10日午前9時40分、脳梗塞のため亡くなった。76歳だった。通夜、告別式は執り行わず、近親者のみで密葬を行う。喪主は未定。 昭和9年、鹿児島県生まれ。歌手を目指して19歳で上京、歌手の付き人を経て漫才師になり、東京・浅草のストリップ劇場「フランス座」のコントで共演した萩本欽一と昭和41年「コント55号」を結成。松竹演芸場や有楽町の日劇で「机」「帽子屋」など、舞台狭しと駆け回る勢いのあるコントを披露、萩本の全身を使った突っ込みをきっちり受け止める「チッコイ目の二郎さん」として人気者に。コントの中で始めた飛行機の手振り付きの「飛びます、飛びます」は多くのお笑いタレントが物真似のネタにし、二郎さんの代名詞ともいうべきギャグだった。 その後、テレビのバラエティー番組にも進出、お茶の間でも人気を得るが、昭和40年代後半から俳優としても活躍、TBS系「夜明けの刑事」、NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」など多くのドラマに出演した。また、二期会のオペレッタ公演「こうもり」に出演するなど、歌手としても実績を残した。 平成15年9月、ゴルフのプレー中に脳梗塞(こうそく)で倒れ、一時は生命も危ぶまれる状態だったがリハビリ中の16年1月、東京・明治座のコント55号公演で舞台復帰、18年3月には舞台劇「富豪と、嘘と、のぞみ」で完全復活を遂げていた。 欽ちゃん、二郎さんに「ありがとうしかない」 2011.3.10 18:25 「コント55号」のコメディアンで俳優の坂上二郎さんが10日午前9時40分、脳梗塞のため亡くなった。76歳だった。 相方の萩本欽一(69)は同日、報道陣に対し、「(二郎さんには)ありがとうしかない。コント55号は最高だった。二郎さん、声をかけてくれてありがとう。すごい楽しい笑い人生を二郎さんのおかげで出来ました。坂上二郎、忘れません」と涙ぐみながら語った。 欽ちゃん「今思えばさよならの握手だった」 2011.3.10 21:19 「コント55号」のコメディアンで俳優の坂上二郎さんが10日午前9時40分、脳梗塞のため亡くなった。76歳だった。同日夜、東京・羽田空港で取材に応じた萩本欽一(69)は、亡くなった坂上二郎さんについて「最高のコメディアンであり、相棒だった」としのび、コント55号の今後については「幕引きです」ときっぱりと語った。 主な一問一答は次の通り。 --坂上二郎さんの訃報はいつ知った 「仕事先の富山県で車で移動中、知人から電話が掛かってきた。その人は『二郎さんが…』と言ったまま絶句してしまった。その直後に、ラジオのニュースで(訃報が)流れた」 --訃報を知ったときの気持ちは 「ごめんね二郎、遠くにいて、飛んでいけなくてごめんね、と」 --最後に会ったのはいつ 「昨年12月。舞台の打ち合わせを兼ねて病院にお見舞いに行った。そのときに『(自分は)大丈夫』と言うので、『(十八番のギャグの)“飛びます飛びます”できないだろう』と言ったら、“飛びます”の指の形をつくり、『飛べませーん』とギャグで返された。帰ろうとしたとき、二郎さんが握手を求めてきた。温かい手だった。あのときは『俺がんばるぞ』という握手だと思ったが、今思えばさよならの握手だったんだなあ…」 --坂上さんはどのような人だった 「とにかく笑いに貪欲だった。二郎さんは仕事後の楽屋で、『汗かいたー!』と言って、全部(服を)脱ぐ。そこまで一生懸命で汗をかくコメディアンは見たことがない。また、テレビの仕事で、テレビ局から『45秒で収めて』といわれ、僕はその通りにした。しかし二郎さんは結局1分半やった。二郎さんは『お客さんを笑わせられないままコント55号は去れない。お客さんが笑ったから(テレビ局も)許してくれるよ』と言っていた。最高のコメディアンであり、相棒であり、友達だった」 --今後、コント55号はどうするか 「幕引きです。コント55号は二郎さんが僕に声を掛けてくれたことで始まったものだから。その二郎さんが、一人で幕を閉めてしまった。それでも僕は名残惜しいから、時々テレビで『元コント55号の欽ちゃんです』とアドリブを飛ばすかもしれない」 --今日は坂上さんに泣かされたか 「泣きたいけれど、テレビの前では泣かない。なぜなら二郎さんは僕だけのものだから。家に帰って、お空にありがとうと言って、一人で泣きます」 --天国にいる坂上さんに届けたい言葉は 「二郎さんが亡くなって、たくさんの人が『すてきだったよ』と言ってくれている。僕が代わりにお礼を言っておくからねと伝えたい」 小堺一機、二郎さん訃報に「本当に寂しい」 2011.3.10 20:03 コント55号のコメディアンで俳優の坂上二郎(さかがみ・じろう)さんが10日午前9時40分、脳梗塞のため亡くなった。76歳だった。 坂上二郎さんと親交のあったタレント、小堺一機は「また、昭和の芸能界の偉大な先輩にお別れしなければなりません。本当に本当に、残念です、寂しいです。少年期には、おなかが痛くなるほど笑わせてもらい、この世界に入ってからは間近で勉強させていただきました。 でも、僕らは悲しんでばかりはいられません。先輩に教えていただいたことを大切に頑張らねばなりません。坂上さん、ありがとうございました。これからは、頑張る後輩たちを見守ってください。本当にお疲れさまでした!」とコメントした。 関根勤、二郎さんは「アイドル、憧れだった」 2011.3.10 20:03 コント55号のコメディアンで俳優の坂上二郎(さかがみ・じろう)さんが10日午前9時40分、脳梗塞のため亡くなった。76歳だった。 坂上二郎さんと親交のあったタレント、関根勤は「突然の、知らせに驚いております。坂上二郎さんには、テレビ番組『カックラキン大放送』で10年間、芸や人生など、お教えいただきました。 私にとってのコント55号は、私自身のアイドルでありお笑いの道を目指すきっかけとなった大きな存在です。そんな憧れの坂上二郎さんとの共演は、夢のような時間だったと、記憶しております。 ここ最近は、明治座にコント55号の舞台を観に伺った際に、楽屋でお会いするのが楽しみとなっておりました。 今年1月の公演では声だけの出演でしたので、大変寂しく感じました。また、お会いできる時を楽しみにしておりましたが、それが叶う事がないと思うと誠に残念であります。 坂上二郎さん、今までどうもありがとうございました。ご冥福を、お祈りいたします」とコメントした。 鶴太郎、二郎さん訃報に「ずっと背中を…」 2011.3.10 18:48 コント55号のコメディアンで俳優の坂上二郎(さかがみ・じろう)さんが10日午前9時40分、脳梗塞のため亡くなった。76歳だった。 坂上二郎さんの物まねを持ち芸にしていたタレント、片岡鶴太郎は「コント55号は、私が中学生の頃、彗星の如く現れた大スターで、当時から二郎さんのことが大好きでよくまねをしていました。やがて私が芸能界に入り、二郎さんのまねを持ち芸にしているのをご本人も喜んでくれて。番組収録後、二郎さんがご飯に誘ってくださり、2人で『飛びます!飛びます!』と言い合って“2人二郎”をしたこともあります。 コメディアンであり、歌手であり、シリアスな芝居もできる方で、私はずっと二郎さんの背中を見て、築いてくださった道を歩んだ気がします。20歳の年齢差がありましたが、公私にわたって本当にかわいがってくださいました。尊敬していた先輩で、訃報はとても残念で、非常に驚いています」とコメントした。 藤村俊二 「本当に明るい人で、笑顔で元気な姿しか浮かびません。同年生まれの「昭和九年会」という気の合う仲間で、いなくなる順番の話をよくしていて、二郎さんが最後だろうと言われていたのに…。ばかなことを言い合えた数少ない芸能人の一人。あれだけの喜劇人がいなくなるのは寂しいです」 島倉千代子 「若いころに私のコンサートで司会をしていただき、その時にコントもご一緒させていただきました。二郎さんは子どもの格好で、私はセーラー服姿で楽しくコントを作ったことを思い出します。穏やかで心の温かい方で、そばに居ると私も随分安心したものでした。ゆっくりとお休みください」 水前寺清子 「この度は坂上二郎さんの訃報を聞き、愁傷の思いです。坂上さんとはテレビ、映画、舞台で共演し、とても印象に残っております。歌が大変お上手で数々の思い出がまぶたに焼き付いております。心よりご冥福をお祈りいたします」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Mar 10, 2011 09:40:54 PM
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