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謹んで心から哀悼の意を表します
本当に、お疲れ様でした。 【三笠宮さま薨去】宮内庁が午前10時半すぎに発表 三笠宮さま 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。戦時中は陸軍の軍人、戦後は古代オリエント史の研究者として活躍された。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は約1週間後に東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で執り行われるとみられる。薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。 宮内庁は27日午前10時半すぎから、加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、三笠宮さまの薨去を発表した。 昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。 昭和天皇、秩父宮、高松宮の弟にあたられ、幼少期の称号は澄宮(すみのみや)。学習院初・中等科、陸軍士官学校を卒業後、陸軍騎兵学校、陸軍大学校へと進み、先の大戦中の昭和18年、お印の「若杉」から「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として南京に赴かれた。19年には大本営参謀となり、終戦時は陸軍少佐であられた。 16年10月に高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚し、寛仁親王殿下、桂宮宜仁親王殿下、高円宮憲仁親王殿下、●(=ウかんむりの下に心、その下に用)子(やすこ)さん(近衛忠●(=火へんに軍)夫人)、容子(まさこ)さん(千宗室夫人)の3男2女をもうけたが、平成14年に高円宮さま、24年に寛仁さま、26年に桂宮さまを相次いで亡くされた。 戦後は東京大学文学部の研究生となり、歴史学者の道を歩まれた。メソポタミア地方(イラク)の学術探検、トルコの古代遺跡視察のほか、友好親善や葬儀参列のため、北欧や東南アジアなども訪問し、戦後の皇室による国際親善に大きな足跡を残された。 90歳を過ぎると体調を崩しがちになり、20年6月に急性心不全との診断を受けてご入院。21年と23年にも軽い心不全で入院された。寛仁さまが薨去された直後の24年7月には、心臓の僧帽(そうぼう)弁が十分に機能しないために血液が逆流する鬱血性心不全と診断されて96歳で手術を受けられた。 手術後は公の場に出る機会が減ったが、27年12月2日に100歳となり、28年1月2日には、皇居で行われた新年一般参賀で元気な姿を見せられた。しかし、5月16日に急性肺炎で同病院に入院後、心機能の低下が確認され、ご入院は約5カ月に及んでいた。 最近は容体が安定していたが、27日午前7時40分ごろに容体が急変して同8時ごろに心停止となり、百合子さまが付き添われる中で息を引き取られたという。 【三笠宮さま薨去】激動の時代 生き抜かれ 昭和天皇のご聖断にお立ち会い 昭和天皇とともに、高円宮ご夫妻の結婚祝宴に出席される三笠宮さま=昭和59年12月8日、東京都港区 27日に薨去(こうきょ)した三笠宮さまは昭和天皇の末弟として長兄を支え、大正、昭和、平成の3つの時代を生き、歴史的な局面に数多く立ち会われてきた。 昭和7年に陸軍士官学校予科にご入学。11年の二・二六事件で反乱部隊が襲撃した東京・赤坂の高橋是清邸は三笠宮邸のすぐ向かいにあった。三笠宮さまは市谷にあった士官学校の皇族用宿舎に滞在していたが、著書で当時を回想し「市街戦が始まると機関銃の弾丸がちょうど飛んでくる方向だな、と緊張した」と記されている。 大戦中の18年には、お印の「若杉」をとって「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として中国・南京に赴かれている。 19年1月からの大本営陸軍参謀時代には、陸軍内で東条英機首相を排除しようとする動きが浮上した。若手参謀から話を聞かれた三笠宮さまが「黙認した」と誤解され、首相暗殺計画に発展。三笠宮さまは「軍人として許せない行為」として憲兵隊に通報され、未遂に終わったとされる。 終戦を3日後に控えた20年8月12日には、皇居の御文庫附属室に高松宮はじめ皇族方とともに参集し、昭和天皇からポツダム宣言受諾の決心を下した「聖断」や、理由の説明を受けられている。 同じころ、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍相が空襲で全焼した三笠宮邸を訪問した際、昭和天皇にポツダム宣言受諾の翻意を促すよう訴えると、三笠宮さまは「陸軍は満州事変以来、大御心(昭和天皇の考え)に沿わない行動ばかりしてきた」と叱責されたと伝えられる。 一方、戦後には自らが体験した軍の「実態」について皇族の立場から批判をされ、波紋が広がった。南京に赴任した18~19年の経験について、著書『帝王と墓と民衆』で、「かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾(てきがい)心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」と述懐し、「求めるものはただ和平のみとなった」と述べられている。紀元節の復活に学術的な視点から反対の立場を取られたこともあった。 戦後間もなく歴史研究の道に進み、古代オリエント史の研究を続ける一方で、昭和天皇の代理として台風などで被害を受けた被災地にも多く足を運ばれた。 28年に秩父宮、62年に高松宮が亡くなり、唯一残った弟宮として64年1月7日には、皇居・吹上御所で昭和天皇の崩御に立ち会い、「激動の時代」の終わりを見とどけられた。 平成になってからは皇室の重鎮として天皇陛下のご即位をはじめ、皇室のご活動の移り変わりを見守られた。 【三笠宮さま薨去】ご子息3方を見送られる 厳格な姿勢も温かい家庭 孫の高円宮家の承子さま、絢子さま、千家典子さんとくつろがれる三笠宮さま=長野・軽井沢(宮内庁提供、撮影日:2014年8月10日) 気さくで穏やかな人柄から「大殿下(おおでんか)」と呼ばれた三笠宮さまは、5人のお子さまに恵まれた。軍隊経験に基づく厳格な姿勢を貫く中で温かい家庭を築かれ、3人の親王方はいずれも独立してそれぞれの道を歩み、精力的に公務に取り組まれた。しかしその後は不幸にも、親王方全員に先立たれていた。 平成14年11月には三男の高円宮さまが室内球技のスカッシュ中に突然倒れ、心室細動のため47歳の若さで薨去。約10年後の24年6月には、度重なるがんの手術を乗り越えてきた長男の寛仁(ともひと)親王殿下も亡くなられた。葬儀が営まれた同月には、翌日から入院された。 三笠宮さまは、寛仁さまの本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」に車いすで参列したが、非常に悲しみ、涙を流されていたという。住まいから葬場へ向かう寛仁さまを見送る際には、体調不良を訴えて座り込まれる場面もあった。 次男の桂宮さまは昭和63年5月に宮邸の寝室で倒れ、右半身まひなどの障害が残り、長年、車いすでご生活。平成20年9月に敗血症を発症してからは懸命に闘病生活を送っていたが、26年6月に薨去された。 【三笠宮さま薨去】広がる悲しみ 「お疲れさまでしたとお伝えしたい」「本当にさみしい」 三笠宮さま(右)と、三笠宮妃百合子さま=東京・元赤坂の赤坂御用地(宮内庁提供、撮影日:2015年11月16日) 三笠宮さまが27日に薨去(こうきょ)された聖路加国際病院(東京都中央区)では、午前11時5分ごろ、ご遺体を乗せたとみられる車両が病院を出た。同病院に入院中の友人を見舞いに来た神奈川県海老名市の無職、今井祐賢(ゆうけん)さん(69)は「激動の時代を生きられ、大変な思いもなさったことでしょう。『お疲れさまでした』とお伝えしたい」と話した。 同病院に通院している中央区の無職女性(81)は「ご病気でお苦しかったことでしょう」と悼み、「奥さまはお寂しいと思います」と三笠宮妃百合子さまを気遣った。 お住まいの宮邸のある赤坂御用地周辺でも、悲しみが広がった。岐阜県山県市から旅行に来ていた主婦、山田香代子さん(63)は「季節の変わり目が、お体に響いたのでしょうか。言葉になりません。本当にさみしい。何とも言えない悲しい気持ちです」とショックを受けた様子で話した。 練馬区の大学研究員の男性(64)は「この気持ちを、どのように表現したらいいのか」と言葉を詰まらせ、「皇室の大切な方が亡くなられたことを、大変悲しく思います。長い期間ありがとうございました」と感謝の気持ちを述べた。 【三笠宮さま薨去】主なご発言 「皇族は外交官」「国民あっての皇室」 「だれでも音楽がはじまればじっとしておれず、踊り出すなにものかがほしい。(中略)世界がひとつにならねばならない現代においては、世界のすべての人たちが喜んで飛び出して踊れるもの、言葉が通じなくても、踊りで心と心とが通じ合ったら…」(昭和27年、『文芸春秋』秋の増刊号、フォークダンスにひかれた理由を聞かれて) 「スポーツを通じてこの緊張した国際関係を緩和したいという念願こそ大会にかける私の期待だ。もちろんソ連の入国を拒否すればこの大会の意義もなくなるし、第一、世界選手権大会ではなくなってしまうから私が総裁をひきうけた意図も失われてしまったろう」(29年5月、東京での世界レスリング選手権大会で記者の質問に対して) 「外国王皇族は外国語もペラペラで、政治、経済、スポーツなどについて広い意見を述べられる。それに対して日本の皇族が口の中でモガモガしゃべっているんじゃ対等の話ができない。皇族はその生活の半分以上を外国のお客さまの接待に過ごしているのだからある意味での外交官だ」(40年8月、渡米を前にした記者会見で) 「国民あっての皇室だから、国民が皇室に何を期待するかが前提だ。皇室のあり方も、歴史の発展に沿って変わってきたのだし、これからも社会の変遷に即応していかなくてはいけない」(平成元年6月、平成皇室についての質問に対して) 【三笠宮さま薨去】両陛下、7日間ご服喪 秋の園遊会は中止、比大統領とのご会見も 弔問を終え、三笠宮邸を出られる天皇、皇后両陛下=27日夕、東京・元赤坂 宮内庁は27日、三笠宮さまが薨去(こうきょ)されたことを受け、天皇、皇后両陛下が同日から7日間、三笠宮妃百合子さまは90日間の喪に服されたと発表した。これに伴い、両陛下のご主催で11月1日に催される予定だった秋の園遊会を中止とした。 また、天皇陛下が27日に予定していたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見は取りやめられた。秋元義孝式部官長を通じ、大統領に伝えられたという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 28, 2016 02:38:23 AM
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