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カテゴリ:阪神2023
新居浜市出身で、高校中退で、プロ入り、16歳117日で初登板を果たし、戦後最年少の公式戦出場記録
1978年オフに真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史との交換トレードで田淵幸一と共に西武ライオンズへ移籍。 84年に引退なので、うちの叔父の福間納投手と投げ合ったりはしてるかもしれませんね。 御冥福を、お祈りいたします。 古沢 憲司(ふるさわ けんじ、1948年3月31日 - 2023年8月22日[1])は、愛媛県新居浜市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 経歴 1963年に新居浜東高校へ進学するが、阪神タイガースのスカウトが視察に来ていたことを知ると、自ら高校退学と阪神入団の意思を示した[2]。阪神のスカウトは高校卒業後の入団を要望したが古沢はこれを固辞し[2]、1964年1月26日に契約金200万円で阪神への入団が決まった[注 1]。 阪神時代 1964年途中に高校を中退して阪神へテスト入団。7月25日の国鉄戦(甲子園)に16歳117日で初登板を果たし、戦後最年少の公式戦出場記録となった。村山実・若生智男・太田紘一に次ぐ4番手でマウンドに上がり、三振を2つ奪うなど無安打に抑えた。チームは2年ぶり2度目のリーグ優勝を果たすが、南海との日本シリーズでは登板機会が無かった。 1965年6月30日の大洋戦(甲子園)では17歳で完封勝利を収め、プロ初勝利を挙げる。藤本定義監督は「まさか完封とはね。17歳と言えば10年しても、いまの村山より若い。先が長いだけに楽しみや」と笑顔で語っていた[2]。 1967年にウエスタン・リーグ最高勝率を獲得した。 1969年と1970年は一軍登板無しに終わった。 1971年に自身初の2桁となる12勝を挙げ、規定投球回にも到達して、防御率2.05はセ・リーグ3位を記録。 1972年には江夏豊を差し置いて開幕投手に抜擢されるも一軍では1勝にとどまるが、二軍ではウエスタン・リーグ最優秀防御率を獲得。サイドスローから変化球を低めに集める投球スタイル[4]だった。 1973年に再度規定投球回に到達し、以降1978年まで6年連続で規定投球回を上回る。 1974年には自己最多の15勝を挙げ、リーグ最多の4完封を記録。6月1日の広島戦(広島市民)で初セーブを挙げたほか、同年にはオールスターゲーム初出場を果たす。 1976年には自身2度目の開幕投手を務め、9月には月間MVPを受賞。防御率3.35(リーグ7位)の好成績を記録した。 1977年には3年ぶり2度目のオールスター出場を果たし、7月24日の第2戦(西宮)では全セの先発を任され、巨人の吉田孝司とバッテリーを組んだ。同年は2年連続2桁となる11勝を挙げたが、リーグ最多の3完封を記録する一方でリーグ最多の17敗に終わった。 1978年は4月2日の開幕2戦目・巨人戦(後楽園)の終盤に一死一、三塁で投ゴロを処理し、あえて本塁に送球せずにカバーのいない二塁に投げ、やすやすと三塁走者に決勝のホームインをさせた。3日後の4月5日のヤクルト戦(神宮)では「時間切れ引き分けまであと1分」という土壇場で大矢明彦にサヨナラ本塁打を打たれた。6月13日の巨人戦(後楽園)では自らの打席で死球を受け出塁したが、次打者・中村勝広のカウント1-2から2盗を企てて失敗。無駄にスタミナを消耗したせいか、その裏には張本勲に10号本塁打を打たれた。6月29日のヤクルト戦(神宮)ではインプレー中のボールをうっかりグラウンド・ボーイに渡してしまうという失態を演じた。1978年オフに真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史との交換トレードで田淵幸一と共に西武ライオンズへ移籍。 阪神などで通算87勝の古沢憲司氏が死去 「世紀のトレード」で田淵幸一と西武へ 2023/08/25 11:38 ![]() 阪神時代の古沢憲司さん(中央)。左は当時の皆川睦男コーチ、右は吉田義男監督=1977年4月10日撮影 阪神、西武、広島で通算87勝を挙げた古沢憲司氏が亡くなっていたことが、25日までにわかった。75歳。かねてから闘病中だった。 愛媛・新居浜出身の古沢氏は、1964年途中に新居浜東高を中退し、16歳で阪神に入団。同年7月25日の国鉄戦(甲子園)に救援登板した。16歳117日での初登板は、戦後最年少の公式戦出場記録だった。 右のサイドスローで、65年6月30日の大洋戦(甲子園)では17歳で完封勝利を収め、プロ初勝利を挙げた。幼少期にけがをした影響で右手首が曲がっていて、直球を投げると自然にスライダーになったという。74年に自己最多の15勝を挙げるなど3度の2桁勝利を挙げ、72、76年に開幕投手を2度務めるなど、江夏豊、上田二朗、江本孟紀らとともに阪神投手陣を支えた。 78年オフに「世紀のトレード」といわれた真弓明信、竹之内雅史、若菜嘉晴、竹田和史との交換トレードで田淵幸一とともに西武へ移籍。82年途中には高橋直樹との交換トレードで大原徹也とともに広島へ移籍し、84年には中継ぎとしてリーグ優勝と日本一に貢献した。 85年限りで引退。93年は広島の1軍、94、95年は2軍でコーチを務め、96年から5年間は阪神の2軍コーチとして井川慶、藤川球児らに基礎を教えた。若い頃は、その天然ぶりからニックネームは「バーディー」で(ゴルフの)パーより少し足りないという意味だったが、指導者になってからは若手に強気な投球を教える鬼軍曹的な立場だった。 2001年に広島がドミニカ共和国で運営するカープアカデミーのコーチに就任してからは、同国に長期滞在して日本の野球を伝授。外野手のバティスタや投手のフランスアらを見いだし、1軍に送り込んだ。12、13年と再び広島の1軍で投手コーチを務めた後も再びカープアカデミーのコーチに復帰した。 プロ通算19年。543試合登板、87勝115敗25セーブ、防御率3・72。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 25, 2023 05:44:01 PM
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