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幼き頃より剣術を好み 三河では剣術において敵う者無しであったが上泉信綱に入門し
さらに剣の道を極め自身の流派を起こしてのちは その腕を乞われ徳川家康の剣術指 南役を七年間に渡り務めた 三河の地では古来より薬王派と呼ばれる刀工集団が活躍していたと伝わる 現存する刀剣が極めて少なく謎の多い一派とされるが三河武士達に好んで使われ 彼 らの活躍を支えたと云われる 神の影たる神託を得る 奥山神影流開眼 奥山 公重(おくやま きみしげ、大永6年(1526年) - 慶長7年(1602年))は、 日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての新陰流の兵法家、剣客。 奥山の系統の新陰流は「奥山神影流」、「奥山流」と呼ばれる。 本姓は奥平であり、初名は定国。のちに徳川家康から「公」の字を与えられ、公重に 改めた。 通称、孫次郎。号、休賀斎、または急加斎とも。剃髪後は音寿斎と号した。 幼時から剣術を好み、三河では孫次郎に及ぶ腕前の持ち主はいないほどに上達した。 剣名高い上泉信綱(伊勢守)が甲府に立ち寄ったことを聞いて出かけていき、入門。 上泉が甲府から飛騨高山に移って滞在した1年あまりの間に随従し、新陰流の的伝を 得る。 高山から戻ると、奥山郷(静岡県水窪町、現浜松市天竜区)に入り、日夜奥山明神に 祈願をつづけ、永禄8年(1565年)、神託によって奥義を極め、神影流、奥山流と称し た。休賀斎は海内無双の兵法家と呼ばれ、入門者が多かった。 元亀元年(1570年)、姉川の戦いで功があり、徳川家康に招かれて7年間刀術を教授。 天正2年11月28日(1574年12月21日)、家康より御朱印を賜って御台所御守役となる。 病気のため辞仕したのちは、旧主である奥平貞能のもとに戻り、慶長7年(1602年)、 77歳で死去。技芸は、子の孫左衛門公唯に引き継がれた。 Wikipedia:より 太刀 薬王寺 脇差 備前長船裕定 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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