カテゴリ:神戸大学囲碁部史
昭和56年、私は入学した。最初は落語研究会に入部したが、夜間部の授業と合同練習の時間が重なっていて退部せざるを得なかった。大学生協の食堂で働いたり、寮自治会の役員になったりした。囲碁部に入ったのは寮自治会で知り合った先輩が、囲碁同好会のメンバーだったのがきっかけだ。当時の囲碁同好会は員数の減少と部員の高齢化に直面していた。強い先輩が二人いたが後の三人が一部リーグでは勝てないので、二部と一部をエレベータしていたのだ。当時、大学では留年の御三家と陰口を叩かれている団体があった。自治会、囲碁・将棋、オーケストラ、である。原理研など悪質な宗教団体や左翼過激派などカルト的組織に入ったら卒業はできないので、これらはもはや留年の・・どころではなかった。
私は入部当時、代表級の先輩に七子だった。それが四子を卒業した所で団体戦の補欠になった。昭和58年3月に、留年を重ねていた先輩や主将などがごそっと卒業してしまった。新たに3回生になった部員は、たった二人。三段前後が3人、初段前後が2人しかいなくなってしまった。新部長・新主将にならざるを得なかった私は、栄光ある歴史を持つ神戸大学囲碁部を再建しようとして、バイトをやめて一年間は囲碁部のために活動したのだった。 私には以下の課題があった。 ○囲碁同好会を学生部公認団体にすること ○部員を増やし、部員の棋力を向上させて、リーグ戦を戦えるようにする事 実は、私の入学した頃は、囲碁同好会は学生部の公認団体ではなかったのだ。そうなった理由は、二つあったと言われている。昭和30年代、西村御大の頃に、神戸外大に赤松さんという強い人がいた。後に読売新聞の観戦記者として活躍された。西村さんは神戸大の団体戦に赤松さんを入れて試合に出たらしい。赤松さんは学生本因坊2回取った人だから即バレた。当り前だ。このため神戸大学囲碁部は、関西学生囲碁連盟から懲罰として一年間試合に出れなかった。さらに六甲台グラウンドに隣接して囲碁部の部室があったらしいがこれを火事で燃やしてしまった、と言われている。昭和30年代の不祥事によって、神戸大学では、囲碁部は学生部公認団体の資格を抹消されていたのだ。 私はまず学生部に加盟申請をして準公認団体になった。しかる後に私は新野経済学部長に顧問就任を依頼した。翌年、囲碁部は公認団体になって、大学から年間5万円の活動費をもらえるようになったのだ。かくて課題その一はクリアした。 昭和57年入学で残った部員はS田君一人。昭和58年に入部した部員は6人いたが全員5級以下だったのである。これらを鍛えて試合に出れる体制を作らねばならない。不可能だと思った。まず関西学生囲碁連盟には、準加盟団体になる申請をした。つまり昭和58年度は団体戦を欠場し、連盟費2万4千円を節約した。準加盟で個人予選に出る権利を確保し、来年は本加盟に戻ると約束した。それまでは強い部員がいたために、初心者を育てる必要なんかなかった。しかし初心者を戦力化する必要に迫られたのだ。最初、私に8~9子だったY本君・S垣君が急激に強くなり半年で初段になってしまった。それ以外の部員もどんどん強くなって、翌年春期は3部で完全優勝。秋は2部でも2位で入れ替え戦に出場するという快進撃を見せた。昭和59年はS田君が部長・主将になって、私は税理士受験のために一線を引いていたが、後輩たちと練習対局を多くこなしていた。 昭和60年に行松君が入り主将となる。その前後に相次いで強力新人が入部し、黄金時代が始まった。奇跡は起こった。一部リーグの優勝を狙えるチームになったのだから。 その頃から一芸入試が始まった。大阪市大や龍谷大が強い部員を集めたが、やがて立命館大学が強い部員を大量に集めるようになった。私たちの頃は、京大が常勝で阪大が対抗していた。関学・関大・同志社・大阪府立大・京産などが強かった。立命は一芸入試するまでは二部リーグに低迷していたのだ。 私が思うに囲碁に限らず何事も、上達する過程が楽しいのだ。5級で入学して五段で卒業する。これが理想だと思う。最初から六段の部員が集まっても濃密な人間関係が生まれるだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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