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歌織@星見当番

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2014.02.15
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(これは四分割の感想文のうち、二つ目です。この後三つ目と四つ目も来ます)

愚痴に文字数を割きすぎたように思うので。ここからは『かぐや姫の物語』ですごいな、素晴らしいなと思った箇所を挙げていきます。映画の時系列に沿って書いていきます。最初にも書きましたがネタバレいっさい憚りません。

まず冒頭の、墨の描線に淡彩で描かれた草花の美しさ。竹林に分け入る翁の竹を伐る手つき、倒れてくる竹の動き。当番は自分で竹を伐ったことがないけれどそれでも動画にうつしとられた翁の動きを見て、そのひとつひとつにウソがない、と感じました。翁自体の造形はとてもデフォルメされたものなのに、動きはリアル。翁の顔もそうですね。とても簡略化されているのに、表情はとてもリアルです。リアルと言っても、ディズニーやピクサーのキャラクターのように発音に合わせて口が正確に動いたり、目や歯を剥いたり眉毛を吊り上げたりするわけではないです。余談になりますが、昨今のディズニーやピクサーのキャラクターは、顔の演技がリアリティを追求しすぎてわざとらしく大袈裟になっていますね。ディズニーでも、もっと昔の短編映画時代だと漫画チックな方向に大袈裟なのですが、昨今のものはアニメのキャラに実写の人間と同じ顔の演技をさせようとして失敗している感じ。

『かぐや姫の物語』の翁は、とても単純な顔立ちをしています。目も、中心にぽつっと白いハイライトが入っているだけの小さな黒い丸で、白目がほとんどありません。だから、視線の動きでの演技がつけにくい。だけど、日本人って元々欧米人みたいに大袈裟に眉を吊り上げたり、ぐるぐる目を剥いたりしませんよね。興奮しても、大きな平たい顔の中で小さな目がきらりと光って、小鼻がふくらんで、頬が紅潮する程度。竹林で、ひかる竹の中にかがやく小さな女の子を見つけたときの、翁のあの顔は。平均的な中高年日本人男性が興奮した時の顔の描写として、とても上手いと当番、思うのです。実際、あのぽつりとハイライトの入った小さな目を潤ませて、頬骨の高いところが赤くなっている翁の顔など、当番の母方の祖父にそっくりです。

翁の造形、表情と動きの演出は素晴らしいです。翁が「嫌なやつ」「鬱陶しい、わかっていないおじさん」のキャラクターとしてしっかり設定されていると感じます。「目先の富に釣られやすい性格」「自分の欲望と子への愛情の区別がついていない、二言目には『お前のためを思って』と言いながら、実際は常に自分の欲望のために動き、娘にとっては明後日の方向であるようなことをする、「よくいるタイプの父親」です。そうであるように、「ちゃんと誰の目から見ても間違いなくウザく見えるように」作ってある。

アニメは実写とは違って「絵」です。そこにそれを置こうと思って描いたものしかアニメの中には存在できませんから、あの鬱陶しい翁は鬱陶しくしようというはっきりした意図でああ描かれている(※)…筈です。物語の登場人物としての翁は、自身の鬱陶しさに無自覚・無意識ですがそれを描いて物語の中に配置する監督は、その鬱陶しさに無自覚・無意識な訳がありません。絵にするということは見つけること、見えた(意識した)ものをそこに再現するということです。意識できないものを描くことはできません。

※高畑監督自身は絵を描けないそうです。実際背景その他の美術は男鹿和雄さん、人物の造形と作画設計は田辺修さん、と別に「絵にしたひと」がいらっしゃいます。ですが、最終的にあの顔あの表情あの動きの翁にOKを出したのは監督です。ゆえにここでは便宜上『かぐや姫の物語』に登場するものは全て監督の頭の中にあったものが具現化したもの、高畑監督の中から生まれたものとして書いています。

ああいう竹取の翁を登場させた、ということはすごいことだと当番、思うのですよ。当番、映画館へ行くのがかなり遅かったものですから先に『かぐや姫の物語』を観に行ったひとのレビューをネットで色々と見ました(当番、ネタバレをまったく気にしないタイプです)。「ヒロインであるかぐや姫の造形が『男・おじさんから見た少女』にしかなっていない」とか「姫に高畑監督の主張を代弁させすぎ」とか、
そういうことを書いているレビューもたくさん見ました。しかし、その生硬で唐突な自然礼賛スピーチを姫にさせる監督、ステレオタイプな少女しか描けていないと言われる監督は、あのウザい竹取の翁を画面に登場させることにOKを出す監督でもあります。

自分の仕事場である竹林で見つけたというだけの女の子を「わしに授かったのだ」と言いきってしまう翁。竹の節から出てくる黄金に興奮して頬を赤く染める翁。近所の子供たちから我が子を「竹の子、筍」と囃されて、ムキになって「姫、姫」と顔を真っ赤にして連呼する翁。「竹の子」という呼びかけに興味を示した幼い娘が子供たちの方へよちよちと歩いていくのを声を枯らして呼び続け、戻ってきた娘を
抱きしめて男泣きに泣く翁。その、我が子への愛情と自分のプライドをごっちゃにしていることが丸わかりの、おとなげない態度。都にのぼり貴族へ縁づけることが娘のしあわせと頭から信じ込み、それが娘の望みではなく自分の欲望であるということには無自覚のまま、姫へ求婚が来れば自分のことのように舞い上がってしまう、俗物でお調子者の翁。

そういう翁をえがきだしたのが、高畑監督です。翁のその態度を養女の姫君がずっと嫌がっていること、拒絶したくてたまらないけれど拒絶しづらいということを描き、最後には翁の娘として地上で生きていくのが耐えられなくなって、故郷の月へ助けを求めてしまうほどに追い詰められたところを描いた。月の住民によって姫は連れ戻され、翁の望み「高貴のひとに娘を縁づける」はとうとう成就しなかった。原作どおりの筋書きであるといえばそのとおりです。しかし、それを描ききったのが監督です。少女は描けていないかもしれない。娘の気持ちはわからないかもしれない。しかし、父親が娘を追い詰めることもある、ということはちゃんと描けている。

高畑監督、1935年生まれの78歳です。78といえば押しも押されもせぬおじいさんです。翁と同じ年頃、と言ってもそう間違いではないでしょう。そのおじいさんである監督が、「父親の構い方が明後日の方向であったために娘が追い詰められ、ついには逃げ出す。父親は最終的に娘に拒絶されてしまう」という物語を紡いだ。「父親の『よかれと思って』は時として重く見当違いなものなのだ。それは往々にして娘には負担なのだ」ということを描ききった。

先にも書きましたが高畑監督、『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』の演出家・脚本家です。どちらもかぐや姫と竹取の翁のように、孤児の少女を養父として引き取るおじいさんの物語です。引き取った女の子と暮らすうちに頑なな心を溶かされ愛を知るおじいさん(『ハイジ』のアルムおんじ)や、想像力が豊かでありすぎるために周囲から浮いてしまう女の子をあるがままに受け入れ「わしは1ダースの男の子よりもお前の方がいい。わしの自慢の娘じゃないか」と言うおじいさん(『赤毛のアン』のマシュウ)の物語を映像化したのがこの監督です。

『アルプスの少女ハイジ』から約40年。『赤毛のアン』から35年。30代・40代という若い時期に「幼い少女を育み、見守り、少女によって変えられていく老いた養父」と「そんなおじいさんを父と慕う可憐な少女」を描いた監督が、70代後半になって「自分を変えられず、変わる必要すら感じない老いた養父、少女を自分に合わせて変えていこうとして拒絶される養父」を描いた。高畑監督は老いて変わってしまった?いえ、高畑監督は老いて正直になったのだ、と当番は思います。

世のおじさん、おじいさんというものは、そうそうアルムおんじやマシュウのようにはなれない。娘たちが夢に見るような優しい養父にはなれない。それは夢、おじさんが少女に夢を見るように、少女がおじさんに見る夢なんだ。現実の少女が、おじさんの夢には収まりきらない生々しい存在であるのと同じように、おじさん(おじいさん)もやはり、少女の夢の中には収まりきらない生々しいエゴや欲望を持つ存在なんだ。かぐや姫に求婚する貴族たちや帝ほど若くなくてもそうなんだ。竹取の翁ほどに老いて枯れてしまってもやはり、どうしようもなく勝手な欲を持つひとは持ってしまうんだ。そういうことを、高畑監督はあからさまに描いてみせたのだと当番は思っています。翁が原作通りに捨てていかれるところまでちゃんと描いて「だけど、そういうことをすれば娘には嫌われるということもちゃんとわかってはいるんだよ」というところまで言っている。当番そう思います。ここまでのことは、その辺にいる普通のおじさん・おじいさんにはなかなかできないのではないかしら。

『かぐや姫の物語』には、『アルプスの少女ハイジ』や『赤毛のアン』を明確に意識した場面がいくつもあるんです。竹取の翁が床に座って竹細工を作る場面はアルムおんじの木工細工の場面を思わせるし、幼い「姫」が炭焼きの子供たちと一緒に秋の山でヤマブドウを採っている場面は、枝を掻き分けて実を採る様子から口の周りを紫にして頬張るところまで、ハイジとアルムおんじがヤマブドウを採りに行った場面そのままです。幼い姫と捨丸(炭焼きの息子)はハイジとペーターの関係そのまま。翁に連れられて都へ
行くのはハイジのフランクフルト行きと同じ。広い御殿を駆け回る野生児姫に姫の教育係としてつけられた厳格な女房・相模が手を焼くのはゼーゼマン家の女執事・ロッテンマイヤーさんの姿を彷彿とさせます。気晴らしに牛車を仕立てて山へ花見へ行き、満開の山桜が立つ斜面を登りながら豪華な着物を脱ぎ棄て、沓も脱いで花の下でくるくる回る姫君も、やはりハイジでしょう。御殿の裏庭に幼い頃を過ごした山里を模して箱庭を作り植物を植えるのも、それを養母の媼との秘密の楽しみにするのもハイジから来ている場面。クララのおばあさまがハイジのために特別に見せてくれた隠し部屋にあるアルプスの油絵の場面です。

そして、模型の山里ではもう我慢できなくなって、模型を壊しながら泣き叫ぶ姫君の姿もハイジ。ハイジだ、という眼で見れば、裳着の宴の途中にカッとなって涙を流しながら屋敷から走り出ていく姫君も、帝に背後から抱きすくめられてショックのあまり幽体離脱してしまう場面も、ハイジがフランクフルトで心を病み、夢遊病になった場面と二重写しに見えてきます。また、姫が着物を脱ぎ棄てながら都の大路を走っていく場面、水辺の葦原を風のように駆けていき、山里に辿り着き雪の中へ倒れ込んだと思ったら元の帳台へ戻っている場面、あれは一見、姫君のこの世のものではない特殊な能力なのか、それとも姫の願望が見せた夢なのかわからない風に描写されています。あれが姫の特殊能力ではなく、想像力のなせるものだとしたら。それはほとんど『赤毛のアン』ではないでしょうか。

(中途半端ですがここで切って四分割の三番目に続きます)





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最終更新日  2018.05.14 00:18:58



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