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2011.07.16
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命をどのように見たらよいのでしょうか

命をどのように見るかということですが、魂という角度から見るか、この世に生きている人間の角度で見るからです。
 般若心経は、観自在菩薩が般若ハラミタを了承したといっています。般若ハラミタをつかまえた人格をさしているのです。だから、普通の人間の常識をもっているものとは違うのです。
 人間には、この世に生きている人間と、般若ハラミタを心得ている人間と、二通りの人間があるのです。このどちらを自分にしたいかということです。
 諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つを、三法印といいまして、この三つがよく分りますと、専門家の坊さんになる資格があるのです。宗派によって、少し違う所もありますが、昔は坊主のことを、法印といったのです。法印とは、この三つのことを知ることをいうのです。
 一番最初の、諸行無常は、分りやすいことなのです。行とは、すべてのことが存在することです。
 例えば、建物が存在することが、行なのです。なぜ、行くという字を使っているかといいますと、時間が流れているのです。時間が流れているように、物はすべて流れていると考えるのです。
 これは科学の理論から考えても、そういえるのです。時間がなければ、空間がない。時間と空間の両方は、一つの状態です。時間が流れていることが、そのまま、空間が流れていることになるのです。これが、諸行ということなのです。常は、一つの状態です。あり方がきまっていることを常をいいます。無常とは、きまったあり方があるのではないということです。
 時間と空間は、いつも流れている。事情境遇も、いつも動いているのです。体の状態も、いつも変化している。だから、諸行無常という考え方は、自分の肉体を見ればすぐに分るのです。
 観自在菩薩は、普通の人間ではないのです。ところが、日本人は、普通の人間として、般若心経を読もうとしている。観自在菩薩と、普通の人間とでは、意見が違うのです。だから、五蘊皆空が分らないのです。
 そこで、般若心経を本当に信じるとすれば、観自在菩薩に接近することができるのです。本当に、般若心経を信じたいと考えるなら、少々分りにくい所があっても、のみこんでしまうくらいの度胸がいるのです。
 頭で分っていても、生活でそれを実行するのでなかったら、本当に分っているとはいえないのです。般若心経が、生活で実行できる程度まで、その人の魂が進歩しないと、神を信じることはできないのです。
 神とは、生きているそのことなのです。これは、非常に一方的な、断定的な言い方に聞こえるのでしょうが、神なのです。これは、存在といえますし。又命ともいえます。命といっても、存在といっても、神といっても、天といっても、皆同じなのです。
 それを、私達は、経験しているのです。目が見えることはよく分ります。毎日、目を使っていますから、分るけれど、それが神だとは考えていない。だから、神を経験していても、神を信じていないことになるのです。それが、日本人の基礎的な矛盾になっているのです。
 生きていながら、生きている事実が何であるか、分らないのです。これが分れば、死なない命が分ってくるのです。生きているという事実に、適合しているかいないかを、考えるのです。
 自分の考えのまちがいを認めることが、般若心経の最も歓迎することです。これが、般若心経の目的なのです。
 今、人間が生きている命は、死ぬにきまっている命なのです。死ぬにきまっている命を、自分の命だと思っていることが、間違っているのです。それを、五蘊皆空という言い方で、教えているのです。
 今の人間が生きている命は、カルマとしてこの世に出てきた命であって、カルマとしての命は、本当の命ではないのです。だから、今生きている命は、間違っているのです。これは、人間としてこの世に出た以上、やむをえない運命なのです。死ぬにきまっていることが分っていながら、その命を捨てようとしないことが、悪いのです。
 捨てるというのは、何も首をつることではない。自殺することではない。命に対する見方をかえることなのです。


  ルネッサンスによって人間の本質はどう変化したのでしょうか

ルネッサンスというのは、十四世紀末から十六世紀初頭にかけて、イタリアに起り、次いで全ヨーロッパに普及した、芸術上、文化上の革新運動です。
 この運動は、個人の解放、自然人の発見を主眼とすると共に、ギリシャ・ローマの古典文化の復興を目標とし、単に文学、美術に限らず、広く、政治、宗教にも大きな影響を与えたものです。それからが、だいたい近世といわれています。
 現代という言葉が、いつごろから使われるようになったのかはっきり分りませんが、ヨーロッパの文明が世界的に通用するようになった頃、日本で言いますと、明治の末期頃からです。これが、現代という言葉にあてはまると思います。
 最も、はっきり現代と言えるようになったのは、第一次世界大戦以後でしょう。民族の独立が、アメリカのウィルソンによってさけばれ、アフリカ諸国がどんどんと独立した時です。
 中世までは、ユダヤ人はわりあいにひっそりしていたようです。近世から現代になりまして、ユダヤ人の動向が顕著になってきました。ユダヤ人が、偽キリストの世界をつくりつつあるためです。
 偽キリストの王国につきましては、キリスト教の専門家でも、はっきり分っていないのです。マルチンとか、カルビンが、宗教革命の端緒になったのですが、この二人がカトリックの教義を新約の教義にきりかえた。進歩という形で、ゆがめてしまったのです。その背後には、どうもユダヤ人の活躍があったようです。
 ルネッサンスは、古代ローマの思想、ギリシャの思想を、現代的にやき直したものです。文芸復興というのは、ユダヤ人の陰謀といえるのです。
 人類は、皆、文明が進歩したと思っている。これは、ユダヤ人の言い分なのです。文明を進歩させるという言い方で、人間を生活面だけに定着させてしまった。生活することが、唯一無二の人間存在の目的であるように、思いこませてしまったのです。これが、近世文明、現代文明の特徴なのです。
 現代の人間の命は、死ぬにきまっている命なのです。ところが、本心では、死にたくないという気持ちが、はっきりしているのです。死にたくないという気持ちがはっきりしていながら、死なねばならないと考えている。これがおかしいのです。死にたくないという気持ちがないのなら、しかたがないのですが、死にたくないという気持ちがはっきりしていながら、死なねばならないと、常識的に考えている。これはとんでもない間違いなのです。
 人間が、死にたくないと思うのは、何かの方法を考えれば、必ず解決することができることを意味しているのです。実現できるから、そう思うのです。
 死にたくないというのは、人間の本心です。そういう本心を持っていながら、常識的に死なねばならないと考えている。
 人間は、常識と本心が、ばらばらになっているのです。端的に言いますと、心理構造が分裂しているのです。常識と本心が、ばらばらになっているのです。二重構造になっているのです。
 なぜこんなことになるかといいますと、魂は本心で生きている。ところが、人間としての自分は、常識で生きている。霊魂としての自分と、人間としての自分とが、別々の考え方で生きている。これが、人間構造の大欠点であって、本当の平和が実現しないのも、人間の考え方が、二重構造になっているからなのです。
 一体、教育の間違いは何であるか。人間存在の本質と、ユダヤ的な世界観とが分裂しているのです。教育という言葉を使っていながら、教育の概念が二重構造になっているのです。これが、学校内暴力、家庭内暴力の原因になっているのです。人権を認めるから、いけないのです。もし人権という権利を認めるのなら、義務をはっきり確立しなければいけない。義務を教えないで、権利ばかりを教えすぎると、結局、学校内暴力につながるのです。これが、ユダヤ主義にあやつられている証拠なのです。
 ユダヤ人は、フランス革命で、またアメリカの独立で、人権を主張したのです。人権思想が、ヨーロッパ社会に広がり、全世界に広がったのです。人権は、民衆をおだてるためにユダヤ人がつくった思想です。これが、基本的人権になっているのです。
 国際連合憲章には、基本的人権がうたわれています。基本的人権という文字を憲法に用いているのは、日本だけなのです。
 日本の憲法は、非常にユダヤ的なのです。これは、アメリカの占領軍が、そうしたのです。基本的人権を、フランスでも、イギリスでも、言っていないのです。憲法でこういうことを言うのは、日本だけなのです。
 人間に、もし基本的人権があるとすれば、基本的な原理、人間が存在することの命の原理に立たなければいけないはずなのです。
 ところが、基本的人権という概念を、学校へ入学する権利があるとか、結婚する権利があるとか、就職する権利があるというように用いているのです。これは、生活権のことをいっているのです。
 基本的人権ではないのです。基本的人権とは、人間が存在することの基本論に及ばねばならないのです。人間が存在することの基本が、現在の日本社会では、全く分っていません。
 人間の存在する基本が分っていないものが、基本的人権という言葉を用いることが、おかしいのです。日本の憲法をつくつた人は、言葉の使い方を知らない人でした。人権は、本当はあります。ありますが、人権は、人間の霊魂のあり方を、正確に認識した時に言えることなのです。人間の霊魂、命を正確に認識しないままで、基本的という言葉を使うのはおかしいのです社会的人権、生活的人権という言葉ならいいのですが、基本的人権というのは、間違っているのです。
 人権を教えるなら、人責、義務を目覚めさせる必要があります。ところが、今の学校は、権利を教えすぎるのです。その結果、先生を先こうと呼ぶのが、あたりまえになっているのです。現代文明のユダヤ主義を、すいこみすぎたのです。
 もし教育の場で、人権を言いたければ、生活権に限定すればいいのです。そうすれば、先生と生徒の関係、親子の関係が、確立されるのです。責任を言わないで、権利、権利と言えば、子供は、暴力的になるにきまっているのです。ルネッサンスの影響が、このように学校の生徒に及んでいるのです。






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Last updated  2011.07.16 19:14:35
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