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カテゴリ:kikiのひとりごと
テレビを見ていて考えさせられる毎日です。
「小学6年の女児がいじめを苦に自殺」のニュースについて、テレビのコメンテーターは、 「独りで給食を食べていたのは異常なのに、担任教師は何も適切な対応をしなかった」 「学校側、市教委はなかなかいじめがあったことを認めようとしなかった」 「いじめが原因の自殺だと断定し、謝罪するべきだ」 「こんな教師は、教師としての資質や力量が問われる」 と、教員側に非があることをテレビで一生懸命訴えます。そこがマスメディアの恐ろしさです。新聞もそうですすが、やはり非難の矛先は学校・教育委員会に向かおうとするのですね。
でも、非難し、責任の所在を追求することだけに終わっていいのか、と思います。めいっぱい非難し、世論を騒がせ煽り立て、学校現場に対する不信感を増幅し、それでマスメディアの仕事は終わりでしょうか?
自殺した女児の家族はもちろん、いじめがあったことを学校側が認め、救ってやれなかったことに責任があることを謝罪してほしいでしょう。子どもをもつ親ならば、誰でも「何か」に原因を求めて非を負ってほしいものです。 そして、この女児の生活の「場」が家庭と学校のみで、なおかつ家庭内での問題が何もないとすれば、学校でのいじめが自殺の原因である可能性は極めて大きいでしょう。 それでも、責任問題が賠償問題になる可能性も考えると、学校・市教委側が軽々しく非を認めることも難しい事情もあるのだろうと思います。社会的問題として、いち学校の見解に留まらない、大きな影響を教育現場に与えることも考えられるからです。
では、どうすればよかったのでしょう。どうすれば女児を救えたのでしょう。担任が適切な対応をしていれば・・・そもそも「適切な対応」って何でしょうね。 いじめの事件が取りざたされるたびに、児童の「こころの教育」「人間教育」「思いやりの心をもった人間に・・・」などと言われますが、では学級35人の児童全員をそのような「思いやりにあふれた子ども」になるように導くのは、やはり担任の仕事でしょうか?そのような「思いやり」が身に付かなかった場合、責任を負うのはやはり担任なのでしょうか? 児童が「心も体も健やかに」育つことを目指して毎日指導している教員に対して、すべての責任を負わせようとする風潮を思うと、私は現場の先生方に申し訳ない気持ちになります。 子どもを社会に出て行く「人」として育てるために、その「人育て」を学校に全部丸投げしていいのでしょうか。何かがあったら、丸投げした「委託先」である学校に責任があると非難するだけでいいのでしょうか。
「学校・地域・家庭でみんながつながり、子どもを見守りながら育てていこう」と、日本中いたるところ目指すものは同じであるはずなのに、実際はその理想とはほど遠いところにあるような気がします。 開かれた学校運営を、ということで「学校評議員」や「学校へ行こう週間」なんていうのもありますが、実際にどれだけの父兄や地域の方々が参加しているのでしょうね。学校が「人間教育」の場であるならば尚のこと、親がもっともっと学校に入って行かなければならないと私は思います。 学校行事だけでなく、日々の授業や校外学習・・・・ボランティアとして担任のサポートをする。父兄が順番に何日間かずつで入れ替わって、指導のサポートや準備を手伝い、支援が必要な児童には傍についてやり。海外の小学校なんかではよくある光景ですが、ボランティア精神の根付いていない日本では難しいでしょうか。夫婦共働きが多く、手伝える専業主婦がなかなかいないかもしれませんね。 でも、そうして、自分の子どもの日々の様子やクラスの様子、担任の指導の様子をじかに父兄が把握出来ること、学級運営に実際に関わることができたら、日本の学校はどう変わるのでしょうね。教師以外の「大人」が、学級内にいて、子どもたちを見守っている、そのことは子どもたちにどのような思いを抱かせるのでしょう。 早いうちからの職業教育も叫ばれています。地域で働く方に、子どもたちが取材する活動などもよくあるようです。では、各学級で父兄の方を講師に招いてお話を聞いたらいいと思います。児童は身近に感じるでしょうし、35人児童なら35通りの父兄の職業があり、それぞれがどのように取り組んでいるのか、毎回違った感想を抱くでしょう。 父兄の中には、兄弟姉妹を妊娠中の母親もいるかもしれません。私のように、乳児を産んだばかりの母親もいるかもしれません。そうした方を招いてお話を聞くならば、乳児とふれあうことができたなら、それは児童にとって「いのちの教育」です。なによりも、それが同じ学級の児童の父兄であるという身近さがいいと思います。 父兄や地域の方に日々の授業に参加してもらおう、共に子どもを育てていこうとするならば、やり方はたくさんあるのです。ないのは学校現場の「余裕」でしょうね。日々の教科指導・決められた学習内容をこなすだけで精一杯なのでしょうから。
先のニュースのように、「教員の資質が劣っている」と非難するのならば、実際クラスに入り、毎日の担任の指導を見てみたらいいと思います。担任教師が独りでどれだけ多くの仕事をしているか。どれだけたくさんの事に追われながら、毎日児童と向き合っているのか。その上で力量を問うのなら、「こうしたらどうですか?」「私も父兄としてサポートするので、こうしてみませんか?」と提案したらいいのです。 それもこれも、日々学級の中に入り、学級の雰囲気や様子を知る必要があるのです。
日本人は変化を嫌います。 物事の根幹が変わる事、慣れ親しんだシステムを変える事、変化に対応する力はあるはずなのに、その変化によって外部から非難を受けるのが怖いのでしょうか。私も日本人なので、そうした体質が分からないでもありませんが、教育問題にしろ何にしろ、思い切って既成を変える事が必要なときがあると思うのです。
そんなことを考えさせられたニュースでした。
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