もう、あやつり人形じゃない
もう、あやつり人形じゃない恵理にとってのトラウマが消えたのは25歳の時だった。もう50歳になろうとするのに白いスーツの似合う、 まるでモデルのような母が恵理にとって、まさにトラウマだった。母親似の恵理は、高校時代には、片手に余るくらいの男子から交際を求められたが、誰とも付き合ったことはなかった。その都度、いつの間にか臭いを嗅ぎつけた母のチェックが入り、みんな断わったからだった。ずっと、母の言うとおり生きてきたので、その時は、そんなものかなあ…と思った。「大切な一人娘に、変なムシもついたら大変だから」と両親の勧めもあって、名門女子大に進んだ。その上、授業が終わる頃には、校門の前に必ず、母の運転する車が待っていた。大学を出てからも、父の経営する会社でアルバイト程度の仕事をする以外は、母の言うとおり、英会話や茶道や華道を習ったりしていた。そんなある日、母が急死した。くも膜下出血で、あっと言う間の 出来事だった。プロポーズの時、土下座までしたほど、母にゾッコンだった父は、心の支えを無くして、動揺したのか、まったく、仕事が手に付かなくなった。坂道を転がるのは早いもので、 母が亡くなって、半年と経たない間に、父の会社は倒産した。抜け殻のようになった父と恵理は、安アパートで二人暮らしになった。月々の食費にも困るようになった恵理にも、異変があった。 どういうわけか、半年で20キロ近くも太ってしまい、 以前とは、似ても似つかない容姿になったのだ。父と恵理にとって、母の存在は、これほどまでに、偉大だったのだ。こんな状況になって生まれて初めて、恵理は、就職活動することになった。特技は、英会話。母のおかげで、英会話だけは自信があった。こうなることまで予知して、恵理に英会話を習わせたとは思えないが,母の遺産に違いない。面接の帰りに、駅の大型書店に寄った。別に、目当ての本があった 分けでもない。考えたら、母が生きていた頃は、立ち読みするにも、 時計を気にしていた。そんなこともなくなった。 恵理は、生まれて初めて自分の羽で飛ぶような気がした。「もう、あやつり人形じゃない」 そう小声で呟いた。その次の瞬間だった。「Nさん?」Nは、恵理の姓だ。 振り向くと、スーツを着た若い男性が立っていた。高校の時、交際を迫られて、恵理が振った同級生の藤田という男だった。もし、母がいなかったら、彼とは付き合ったかもしれない。そう思った唯一の男が彼だった。藤田の顔を見た途端、恵理は小走りに店の外へと 逃げるように歩き始めた。見違えるほど太ってしまった自分への負い目と男性を避けようとする習慣からだった。何歩か歩いて、立ち止まった恵理は思った。もう母の監視はないのだから、誰とどうなろうと 私の自由なのだ。恵理は、後ろを振り返った。