安部清明と狐

安部清明と狐


 ご存知の通り安倍清明と書くのが普通ですが、ここではわざと「安部清明」とします。
ここで紹介する話に安部仲麻呂が出てきますが、これも安部仲丸と資料では書かれ、更に清明がその子孫とされています。
しかし、史実ではその証拠はありません。


『金烏玉兎集』

 大唐擁州の伯道真人が天竺に渡り、文殊に会って『金烏玉兎集』を受けて帰ってきました。
この書は、大唐国の内裏に納められました。

 遣唐使安部仲丸が大唐に渡海したが、その国で殺され、赤鬼になって大唐で障碍をなしました。

 後、吉備大臣が遣唐使として入唐しました。
彼もいくつかの難題をつきつけられ、これを解決しないと命を奪われる筈だった所、赤鬼になった仲丸と長谷観音の援助によって危機を脱したのです。
ソレばかりではなく、難題を全て解いた吉備の知恵を買われ、武帝に仕えた後、七宝を賜って日本に帰って来ました。
その七宝の一つに、ホキがありました。
ホキとは天地を象った祭祀用の容器で、この中に『金烏玉兎集』が納められていました。

 吉備は、自分が存命できたのは仲丸の助力によるのだから、『金烏玉兎集』を仲丸の子孫に譲り渡そうと思ったのです。
そしてその子孫が、常陸国の吉生(現八郷町吉生)および猫島(現明野町猫島)に住むと聞いた吉備は吉生に赴き、
中丸の子孫の安部の童子を探りあて、『金烏玉兎集』を渡しました。

 安部の童子が鹿島神社に百日の参籠を行おうとしました。
九九日目に、他の童子達が小蛇を殺そうとしている所に出合い、蛇を買い取って放しました。

 百日目に、一人の美女が鹿島宮の安部童子の元を訪れ、自分は昨日の蛇であり、竜宮の弟姫であると名乗って、彼を竜宮へ連れて行きました。
安部童子は、竜宮において石匣と烏薬を貰い受け、鹿島に帰りました。
烏薬を耳につけると、鳥の語を理解することが出来ました。

 鹿島の拝殿の上に、東西の烏二羽が来て、都の烏が関東の烏に、
「都では天皇の神殿の下で蛙と蛇が争い、その為に生じた炎が上にのぼって天皇の病の原因になっている。
 蛙と蛇を取り去れば、天皇の病気は平癒する」と告げました。

 安部童子は直ただちに都に上り、烏の会話を聞いて得た知識を生かし、天皇の病因を当て、平癒させました。

 この功績により、安部童子は四位・縫殿頭に任じられ、折節清明節の頃だったので、清明の名を与えられました。

 「此の仲丸は竜宮迄詣でいたり、化来の者なる故に、子々孫々清明と名乗りて、幾久傍傍辺国を栖とす。
 ・・・生国は、筑波根の麓猫島の生かと云う。
 権化再来の人は何れも生国定まらざる也。
 彼の清明が母は化来の人也。
 遊女往来の者と成り往行し給ふを、猫島にて或る人に留められ三年滞留ある間に、今の清明誕生あり。
 既に童子三歳の暮れ、歌を一首連る給て曰く
 「恋しくば尋ねて来て見よ和泉なるしのだの森のうらみ葛の葉」
 と読み給いて、かき消す様に失にけり。
 故に清明上洛の砌、先づ母の様子を祈誓すれば、古老経たる狐子一疋、我が前に出てきて、我こそ汝の母なれ、と云いて失いけり。
 是即、しの田の明神にて御座也。
 故に清明は博士、一道自然知智にして、天下に名を馳すと云々」


狐の生態  伝承の狐観  九尾の狐  玉藻前  稲荷と狐  鳥居と油揚げ  狐とダキニ天


© Rakuten Group, Inc.