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木漏れ日の空間にようこそ !!

木漏れ日の空間にようこそ !!

●因果応報を総括する


椰子の林

因果応報を総括する(1)
この世では因果応報の法則に逆らう
ことはできても、真実の世界ではできない
光の名義変更も出来ない


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□因果応報は、この世に於いてもそれらしき現象が出現すると云っても感じ方であって、証明できる根拠や証拠でもって、霊的存在を否定する人などを、他人を説得して納得させることは出来ないのです。ですから、そうゆう人と論戦をすることは無意味です。
要するに、この世的にはその概念は、当事者が、結果として現れた現象をどのように受け止めるか、の領域に属するものなのです。即ち運命の概念で判断するものなのです。



仮にあの世に帰れば、ハッキリした根拠をもって因果が示されるとしてもこの世では、運命として捉えるしかないのです。又霊的因果の法則は、この世に於いては人為的な相互間の力ではなく、背景重力のような作用(反作用)としてのみ働く(もしくは現れる)ものだと考えれば、この世の法則と衝突を起こすことはないと思います。



人間は重力という作用を、日常的には意識しないで(重力を無視して)生きております。又、限定的には人為的な力により、重力に逆らうこともできます。さらに微細的部分的に関しては、例えば歩く、物を持ち上げるなど、常に重力に逆らって生きているとも云えるのです。しかし決して重力から逃れることは出来ないのです。人知の総力を結集して、太陽系の、重力から逃れることができても、まだ宇宙の重力の作用を受けているのです。参考にしていただきたいと思います。



参考ながら、ものごとには、この世的解釈(法則)と霊的解釈(運命の法則?)の2通りがあると考えて、チャンポンにしなければ、病気の原因、治療に関しても、その他一般的な事柄に関しても、思考の混乱が生じることはありません。

水面に咲く

因果応報を総括する(2)
遮二無二因果応報を説くことは
マインドコントロールの原因となり
宗教を堕落するものである

□あの世に法則が有るとして、あの世に帰れば、あの世の法則により
ハッキリと出来事や事象のつながりが、因果関係として示されると云うことも仮定としてできます。
上記仮定に付いて、そのように思う思はないは、この世に居る限り、個人の自由ですから、霊的存在を認められない人は、そのような法則や法則に起因する作用は存在しないとして生きればよいのです。但し、もしあの世が有った場合は自己責任になります。と云うことは、ここで述べてきた一連の記事の対象は、霊を認めるか、もしくは認めたいが、認めるとこの世の現象と矛盾が生じるので、それも出来ないと云う人を対象にしたものです。



ですから宗教関係者は、前記矛盾を抱えたまま、遮二無二
霊の存在を社会に訴えたりすれば、一般社会からの信頼を失い、却って受け入れられず、宗教組織と云うコッブの中だけの論理になります。コップ中の論理のみでは、結果としてマインドコントロールを生む素地が生じるものと思います。そのような弊害を避けるためには、因果応報の思想を運命の法則として捉えることは、一定の説明ができる解釈でもあると思います。



又建前と本音を使い分けるよりは、本当はこのような意味がありますよと説明すれば、それも一定の理解が得られる解釈でもあると思います。単なる観念や妄想幻覚と、何ら一線を画すことの出来ない現象を根拠に、この世的な相互関係そのままに、自分勝手な論理で、因果の根源をあの世や前世までに追求することは、大変危険なものであと思います。
それは「あなたが私に借金が返せないのは、前世のこれこれの原因によるものである」とも主張できるからです。私はこのような現象を、宗教の堕落と言いたいのです。
 
水面に咲く

因果応報を総括する(3)
因果応報はバックグランドで作用
しているとしても、この世ではこの世の
因果を優先しなくてはいけない


□他方、霊の存在を否定する人が、因果応報の思想を受け入れるなら、これも又矛盾するものです。何故なら因果の証拠は、この世的には示すことができないからです。第六感やことの成り行きから、因果の根拠とするならば、霊的に捉えていると云うことです。



霊の存在を主張する論理は、霊はあの世に限って存在するのではなく、あの世とこの世を通して、同じ法則で存在しているとしているのですから、です。いわば、バックグランドで作用していると捉えることができても、先にも記しましたように、因果応報の思想はこの世に於いては、当人自身は第六感で感じても、その根拠を客観的に、提供できない概念を源としているのですから、根拠がどうのこうのと、論じることは本末転倒と云えます。



言い換えれば霊の存在を否定する人が、根拠をもって肯定できたなら、それは本来、この世的な因果でもって対処されるべきことが、放置されていたに過ぎないのです。ですから因果の法則は、霊的な存在を認めてから、(前提として)論議の対象とされるものなのです。論議の議題として、さまざまな人達が混在する、一般社会と同じテーブルに付くには、カルト宗教によく見られる、コップ中の論理では駄目だと云うことでもあります。



コップの中の論理が、因果応報の思想を形骸化するとしたとも言えるのです。結論として言えることは、因果の法則が、バックグランドで作用しているとしても、この世で生きているのだから、この世の法則の方を優先しなくてはならないと思います。その理由はこの世の法則は、この世で生きて行くために、必要なこと、極端に表現すれば生死与奪に関連することが、ハッキリとした根拠を持って、示されているとも云えるからです。



霊的なものは、その時その場の、心の在りようで左右されるものです。即ちこの世に於いては、想像、推測などで、仮に複数の人が同じ現象を捕らえたとしても、(同じことを想像していたとしても)それぞれの人の、心の内でしか捉えることのできない現象ですので、間違う恐れが非常に大きいからです。



一部には心霊写真など、心の外に属する現象もありますが、霊の存在が客観的に証明されて、解釈のバラツキは少なくなるとしても、相手が(霊的存在が公衆の場で)説明をしてくれる分けではなく、それぞれの個人が、一方的な解釈をしなくてはならないのだから、論理的に無意味であることに変わりありません。ですから、病気などの場合は、医学的治療を優先しなくては、いけません。病気平癒祈願は2の次です。



オーム教や一昔前のS学会批判書でも紹介されていましたことですが、隠れて、病院通いを行わなくてはならない、と云うことも宗教の堕落を意味するものだと思います。但し医学療法と同等の即効々力が保証されるなら、霊能力による病気治療も、その限りではありません。
 
  

水面に咲く

因果応報を総括する(4)
誰一人理解できないことは説くべき
ではない。他人のトラブルを利用する
など宗教の行うことではない。


□又犯罪に関しても、この世の法律で取り締まることが先で、宗教による説諭は2の次としなくてはいけません。もし、この反対のことを云う宗教があったなら、邪教とみなして間違いないと思います。例えば正法は世法(法律や道徳)を超えたものだから、自分の説くところの正法のみが宗教で、他は宗教ではないなどと云い、正法をヤッテ居れば世法に囚われなくてもよい・・などなど。は、犯罪の領域に入る事態でも、説諭により罪人を救済することが、出来ると云う意識が働いているものと解釈せざるを得ません。



仮に上記教義が霊的真実としても、人間社会の中で、誰一人理解できないような教えは、説いても無意味であり、説くべきではではないと思います。宗教の概念を変えなくてはならなくなります。宗教の概念を変えれば、関連した概念を次々と変えなくてはならなくなり、連鎖的にあらゆる概念の変更を余儀なくされます。教義とは、霊的な体験の解説付き書物の紹介などとは意味が違います。



上記の記述内容については、私は、当初より認識していた訳ではなく、GLAで云うところの切磋琢磨を、会員、幹部会員達と行った結果、教義の間違であるとの理解が得られたものであります。だからと云って、彼らに感謝の意を表明する意思はありません。
参考として、娘の純子がオウム教に入っていたら、家族皆殺しの目に遭って居たかも知れません。それもGLAとしたら神が判定して賞罰を下した。とすることでしょう。



又幸福の科学(後に娘の縁で家族全員入会することになった)その他の組織や宗教にも入会せずに、GLAを退会していたら、癒着の法則により、命を落としていた可能性もあります。それも神の裁きと云うことになり、GLAの名声を高めたかも知れません。だからと云って、幸福の科学に恩を着なければならない理由や根拠はありません。感謝すべきか?どうか?は、その後の幸福の科学の在りようと、行いによりますが、現在のところ、GLA&トヨタとの出来事を利用されているとしか認識していません。宗教が他人のトラブルを利用するなどとは、とんでもないことなのです。



参考として、幸福の科学は、私とGLAとの間に、亀裂が生じる以前より、GLAとは対立状態に入っていたのです。さらには宗教の問題は宗教で解決すると言っているのです。しかるに、この問題は有効な解決はなされないままなのです。私としては幸福の科学会員にも拘わらず、頭越しに解決を試みざるを得なくなったのです。独自に解決を試みれば、当然幸福の科学にもGLAと同質なものがあり、GLAを批判すれば、幸福の科学をも批判しなくてはならなくなるのです。その他同質の要素を持つ宗教を一まとめにしてカルト宗教として、批判しなくてはならなくなるのです。(頭越に批判をしなければ、そうは、ならない)


水面に咲く

因果応報を総括する(5)
この世的な善悪を抜きにして
因果の法を語るなら、そのこと自体が
因果の法を形骸化する。


□当ページに記す事件にしても、GLAでも幸福の科学でも、その他一般人にしても、仮に誰かが、事件が発生した原因が、私にあると主張するなら、警察に対して私を事情聴取するなり、捜査するなり、何らかの打開手段を行うよう進言しなくてはいけないのです。それができないのであれば、私としては、事件の発生原因は、私にはないものとせざるを得ないのです。
さらには、この世的に、私には責めを負う要素はなくても、霊的な原因があると、主張する向きがあったとしても、当事件は、この世的事実の存在に起因して、善悪の根拠が実証できるものなのですから、先ずこの世的な解決がなされなくてはいけないのです。



それを放置して、霊的因果をとやかく語るとすれば、(例えば神の意向に反して、この世的論理を持ち出して対抗したなどの言い分を主張すれば)そのことが即ち、霊的な思想の堕落であり、宗教の堕落だと言えるのです。その行き着く先は力の論理でしかありません。
宗教の仮面をかぶった、悪魔(ここでは特定の人物を指すのではなく、このような事件を作り出した複数の存在⇒その複数の存在を操っている意思を悪魔として)の水先案内人と云うことです。自分のヤッテいること(悪魔に操られていること)がどう云うことか、誰が得をしているか?を考えれば、分かると思うのです・・。 しかもその事実を自覚していないのです。



同じ口で、ユートピア建設を説いているのだから・・。これこそがカルト宗教のカルト宗教たる所以なのです。本来ならこの事件も、GLAがクダンの偉い様方や私の親族に対して、真理や愛を基としたキチントした宗教指導を行っていれば、何事も起こりはしなかったのです。訳の分からない霊的説明をするから、こうなったのです。イエス・キリストも、(GLA教祖高橋佳子はイエス・キリストの信奉者でもある)教えを歪めて解釈されたり、その解釈で社会に害悪を垂れ流されたのでは、被害者だったと云えるかも知れません。



他人に被害をもたらしたら、神に謝るのではなく害を与えた相手に謝らなくてはいけないのです。イエス・キリストは、神に謝ったかも知れませんが、他人に害悪を及ぼしてはいないのです。キリストは、自分の良心に関することや、他人のことや社会一般について、我がこととして、神に謝ったかも知れません。しかしそれはイエス・キリストの自身の心の中の問題なのだから、他人との関わりと云う、心の外での、相互関係から生じた出来事と混同してはいけないのです。格好を付けるために、何でも真似をすればよいというものではないのです。





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