親父の出来るまでうちの親父は昭和一桁山形県生まれ。小さい頃から、そのずんぐりむっくりした体も伊達ではなく、 小学校低学年の頃から農家の田植え、稲刈りの時期になると引張りだこだったらしい。伯母(母の姉)談 その頃(昭和20年代)まだ田植機も稲刈機もなく、郡の農家は殆ど人の手を頼っていた。 親父は未だに自慢する。 「田植えも稲刈も、仕事の速さと綺麗さで、俺は東田川郡(西だったかも)で表彰されたんだ。」 「俺の記録は未だに破られていないんだぞ。」っと。 まあ、破りようにも今時、手で田植えも稲刈もしないから、、親父。。 これはある意味遺伝で、親父の母親、つまり私の祖母もとても働き者で、 当時の女性の記録保持者として、(私が中学校に上がる前くらいまで) 公民館に写真が飾られていたらしい。 その祖母に体つきがそっくりだと言われる私。 喜んでいいの?これって。 体つきが良く、働き者だった祖母とは反対に、色男で細身の祖父はあまり体が丈夫でなかったようで、 息子、つまり親父の賃金を当てにするようになるまで、あまり時間は掛からなかったそうだ。 親父の実家は当時、祖父が馬で物を運ぶ仕事をしていたので、田植え、稲刈の時期は、 子供を外で働かせた方が儲かるのを知っていた祖父にとって親父は良い金蔓だったのだろう。 これはもっと親父が大きくなってからの話だが、 当時の稲刈は、時給でなく、どれだけ刈ったかでお金が貰えたそうだ。 稲一束いくら、っという感じで。 当時の農家といえば良い家持ってる金持ちばかりで、結構良い給料を貰えたそうだ。 普通の男衆が平均して刈れる束の、2から3倍刈る事が出来た親父は、 家に帰ってその平均の金額から、半分を計算して父親(祖父)に渡すと、 「これじゃぁ、腿よりこぶら(脹脛の事)が大きいだろ」 (俺(父親)の取り分よりお前(子供)の取り分のが大きいだろう) と、もっと要求したらしい。 一番最初に奉公に出された時は、普通の2倍の米で雇われ、 祖父が先にそれを家に持帰ってしまっていた為に、 逃げる事さえ出来なかったと、当時を振り返って笑う。 一人っ子だった父は、母(祖母)が恋しくて、 後何日で家に帰れる。 一日3食食べるから、後OOO食で家に帰れる。(OOOは数) 一食に3杯の飯を食べるから、後OOOO杯食べれば家に帰れる。 一杯の飯に米粒が300粒の飯があるとして、後OOOOOOO粒の飯を食べれば家に帰れる。 っと毎日計算していたらしい。泣かせる話だ。 だからかどうかは判らんが、親父は今も数字にゃ滅法強い。 たちの悪い事に、出来たのは仕事だけではなかった。 親父は尋常高等小学校(8年間)を修了しているが、 戦争中は出陣で取られてしまった教師の代わりに自分より下の子供たちに教えていたらしい。 小さい村の学校とはいえ、成績はずっとトップ。 担任(当時母の家に下宿中)に中学校(今で言う高等学校)に進学する事を強く勧められたが、 当時、数少ない高校卒業者であった近所の兄さんが働きもせず、選挙運動に明け暮れていたのを見た祖父が、 「学校行って、あんな(兄さんの家の方向を顎で指し)気狂いにでもなるつもりか。」っと却下。 祖父にしてみれば、親父にすぐ働いてもらった方が金になると判っていたから無理もない。 それだけでなく、親父は農家からも土方の親方からも、今で言う「スカウト」が後を絶たなかった。 第二時世界大戦も終わり頃、学校で成績の良いものだけがどこだかの滑空訓練飛行場に送られた。 飛行機の訓練の(学徒出陣に備える)為だ。 そこで習ったモールス信号や、手旗信号のやり方を良く私たち姉弟に教えてくれた。 その学校でももちろんトップだったのだが、一度だけテストで2番目になった事があり、 よほど悔しかったのか、トップを取った相手の名前まで覚えていて、良く私に話していた。 終戦当時親父は13歳。数えでは14、5歳。 もう少し戦争が続いていたら、特攻隊として招集されていただろうと言っていた。 彼が働き盛りになる頃、農家の仕事よりも土方の仕事が儲かるようになっていた時期だった。 祖父は親父が出て行ってしまうのを案じたのか、親父が17の頃、交際していた、 元ミス酒田(違う場所だったかも)との結婚をいとも簡単に許してしまった。 その後彼女は男の子を2人産んでいる。 親父はその頃の事をあまり口にしないが、農業や、土方、漁師と、いろんな仕事で家を空けた為、 たまに帰ると、上の息子に「おじちゃん誰?いつまで家にいるの?」と良く聞かれたといって笑っていた。 まだ結婚する前か、した後か、どこかで土方の出稼ぎをしている時に、 すごく仕事の出来る男がいると噂になったらしく、 飯炊きその他の仕事で雇われた若い女の人たちに、ご飯や芝居に良く誘われたらしい。 (『芝居』って言うのが笑えるでしょ。映画じゃないのよ。笑) そっちの方も長けていたのか、親父の女の話は現在(今71歳)になるま後を絶たない。 前の奥さんも苦労をしたはずだ。 母も私たちも嫌な思いを数多くしている。 親父をつくっているものに続く |