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テーマ:孤独(19)
カテゴリ:「個」「孤独」「群」「共同体」
日本のテレビ放送の独自文化というと、やはりワイドショーである。これは、報道とも、エンターテイメントともいえない、独自の位置づけであり、欧米諸国、アジアの諸国でも、ちょっとした、芸能番組というのは、存在するし、パパラッチもいる。しかし、芸能人のプライバシーについて、毎日放送するという、ワイドショーという形式での番組はあまりないそうである。
そして、そのワイドショーの特徴の一つが、コメンテーターの存在である。 本来、コメンテーターは、「解説者。評論する人。」であり、その道の専門家であったり、評論家という専門の職業の人が担当する。ところが、ワイドショーのコメンテーターは、ちゃんとした、専門家である事はあるが、なぜか、自分の専門外と思えることも含め、すべての内容についてコメントしてしまう。これが、実に不思議である。 あるコメンテーターは、もともと、オウム真理教の専門家のジャーナリストとして、ワイドショーに出るようになったが、いつの間にか、レギュラーになり、全ての内容についてコメントするようになっている。作詞家の人も、なぜ、そこにいるのかも謎である。 極端な話し、ワイドショーのコメンテーターは、顔が売れて、そこそこ、話しができれば、誰でもいいのかもしれない。コメントの内容も、多少支離滅裂でも、筋が通っていなくてもいい。とにかく、コメントするという事が大切である。 ちなみに、きっちりコメントしているコメンテーターも数人いて、ピーコは、独自の視点がしっかりしていて、なかなかのものである。 しかし、なぜ、ワイドショーのコメンテーターは、誰でもいいのだろうか。 その謎を解くヒントとなる出来事が、先週のファシリテーションのワークショップで起こったのだ。その日の、ワークショップは、グループダイナミックスについてを学ぶ日であった。 グループダイナミックスとは、集団力学ともいい、集団の特質、集団発達の法則あるいは集団内や集団間に働くさまざまな力の作用・動態を、力学的方法を用いて分析しようとする研究分野の事なのだが、実際は、集団行動によって起こる力の事を指す場合が多い。 たとえば、会議などで、何人かの有力者が話し合っていると、その勢いで、内容が決まってしまう。なんて事があるだろう。そのような、集団になった時に、不思議な力というか、方向性というか、集団の持つ人格が出てくるが、そのようなものである。 もともと、このグループダイナミックスは、ナチスが台頭してきたときに、研究され始めた学問である。それほど、集団の持つ力というのが、恐ろしく、その研究を始めたという事だ。 さて、このワークショップで、どのような事が起きたかというと、何人かの、よく発言する人が、意見を出し合ったら、出席した人が、あくまでも、参加した気分になってしまうというものだった。だが、実際には、出席はしたが、意見は述べていないし、有力者の意見と、出席者の意見が完全に一致しているとは言えない。厳密に言えば、合意のもとで、話し合いがなされた事になっていなかったのである。 よくある事だが、会議が終わった後に、冷静になってみた時、なぜあのときに、賛成したのかわからない事があったり。会議の場を崩したくなかったために、賛成したフリをついついしてしまう人がいて。後から、苦情が出るという事である。このような事が、トラブルの火種になりかねない。 グループ内で行動していると、なんとなく、流されてしまう。これが、グループダイナミックスの一つの現れだと言うのだ。 これは、恐ろしい、場合によっては、重要な議決で使われてしまうと、後で取り返しも付かないことになる場合も出てくる。 それにしても、人間という生き物は不思議だ、人の話を聞いたり、見たりしているだけで、あたかも、自分がやったような気分になれる。 野球やサッカーを観戦すれば、自分が監督にでもなったような気分になってしまう。 もしかすると、学校での授業でも、黒板で誰かが、数学の問題を解いていっていると、しかも、それが正解だと、なんとなく、自分もその問題を解いたような気分になる事がある。教育番組なんかを見ていても、よくわからないけど、解けたような気分になることがある。しかし、実際は、自分で解いているわけでもないし、たとえそれをノートに書き記したからといって、テストでその答えを書けるとは限らない。 実質的には、自分が行動していなくても、その時、なんとなく、満足するというのが、実に不思議である。 なんとなく参加した気分にするには、もしかすると、なんらかの有力者が出演し発言すれば、誰でもいいのかもしれない。 誰かが、代弁してくれさえすれば、見ている人は、行動に移さなくても、なんとなく行動したような気分になって、なんとなく満足するのだ。 グループダイナミックスと、マスメディア論は違うと言う方もいるだろうが、マスメディアを通して、グループダイナミックスで起こること広がるということがある事については、否定しにくいだろう。 ワイドショーも、番組として、見ている人に対して、満足感を与えるには、コメンテーターは、とにかく、もっともらしい、コメントを言えさえすれば良い。だから、顔さえ売れてしまえば、誰が何を話してもかわまない訳である。見ている人が、満足さえすればいいのだ。 放送局も、なんとなく、世間で起こったことに対して、話したような気になる事によって、満足するという、ちょっとした快感が視聴率をかせぐ事を知っているのだと思う。 しかし、見ている人は、その時は、満足するが、実際は、なにもしていないのである。 討論番組を見ていても、その時、なんとなく言いたい事を言ってくれて、なんとなく満足しても、世の中の現状は変わらないのである。 また、選挙の時だけ、演説を聴いて、そのあとは、政治家に対し、放りっぱなしになる事が多いが。演説を聴いている間に、なんとなく、満足してしまい。あとは、無関心になってしまうからだと考えられる。 選挙というシステムは、いい面も、悪い面もあるが、なんとなく、演説を聴いているだけで、満足してしまうようでは、自分の身に降りかかってくる、様々な出来事も察知しにくい。 後で、文句を言っても、既に、法的なプロセスを得ているため、すでに、変更することが困難な事になる事がある。あとは、いい手だとは思わないが、誰か、偉い人を捕まえて、荒業で覆すしかない。後の祭り。というか、後の政(まつりごと)という事である。 いろんな、有力者の言う事を聞いて、なんとなく満足してしまう事があるが、そんなとき、ちょっと冷静になって、本当に自分が言いたいこと、やりたい事、思っている事を思い起こしたい。もしかすると、その、こころの片隅にある、そのような気持ちが、なんとなく、流されてしまう事を防ぎ、流された事によって、不快な思いをする事を防ぐかもしれない。 そのような、冷静な判断ができる能力は、孤独によって育まれるという。自分を冷静に見る目、流されない力、そして、肝心なことに対して動く力は、最終的に自分を守り。大切な人を守る事になる。 日本のワイドショーのコメンテーターは、なぜか誰でもいい。それは、日本人が、集団の中で、自分を冷静に見て行動する事が不得意な事を、表しているのである。 蛇足ですが、芸能レポーターって、なかなか新人が育たないですよね。市場が、意外と小さいという事で、いまいる人だけで、事足りてしまうという部分もあるでしょうが。 内部情報を聞きだせる、対人関係能力が、若い世代のレポーターでは、弱いという部分もあるかもしれませんね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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勝谷誠彦に読ませたいです。
(2003.12.11 13:38:14)
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