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Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

「家族と私」その1


「家族と私」その1


バトンリレーの記事を書き出しました。
テーマは「○○○と私」

そして、皆さんの所へバトンリレーのご連絡に、
「○○○と私」の○に、どんな文字を入れても、
構わないのであるが、実際に自分が書こうと、
キーボードに手を触れてみたが結構進まない。

「上海発!画像の更新!」は旅行などの画像を、
更新するためで記事を書いていますが、今回は、
バトンリレーでブログに普段書かない事と言う事。
ブログを飾る事も出来ませんね。

「家族と私」で記事を書いてみます。

------1------

私の結婚と工場の立上げとが、
ほぼ同じ時期でしたので、
結婚式にお金を使うよりも、
その資金を工場のために使いたいと、
妻に了解を貰ったのも、もう遠い昔の事。

しかし、妻のウエーディングドレスは、
私のデザインで私が必死になって作成した。

結婚式も実に質素なもので、
親戚からこんな結婚式に出て、
とても恥ずかしかったと後から耳に入った。

工場の設備などは新品で、
気持ちよかったが、自分達の食卓もなく、
木製のみかん箱の上に、コンパネ板を
乗せた質素なものでした。


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夜ビールを飲み、少し酔っ払って、
間違ってコンパネ板の上に手でも、
突いて起き上がろうものならコンパネ板の、
上のもの全てがひっくり返ってしまった。

その事を聞きつけた家具屋のご主人が、
立派なテーブルやら茶箪笥などを、
プレゼントして下さいました。

結婚する前に、その家具屋の奥さんが、
困っていた時に助けた事があり、
私が困っていると言う事を聞きつけ、
プレゼントを思い立ったそうです。

仕事も軌道に乗ってきた頃、
妻が長女を身篭りました。

その頃は、従業員も20名ほどで、
それほど多くはなかったのですが、
あまり仕事に長けた人がいなく、
私達2人で夜中までの仕事が連日続いた。

そんな中での妊娠でした。

仕事が忙しく、保健所での妊婦の集いにも、
仕事を手伝うよう妻に指示した。

ゆえに、妊娠中の食事も私と同じ物を、
食べつづけた為、妊娠中毒症で、
体が腫れてしまった事もあった。

「家族と私」その2へつづく


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「家族と私」その2


------2------

妻の在所である島根県から、
妻の母が、娘の初産の2週間前から、
愛知県の我が家に来て、家事を手伝った。

私は、近所のスナックで友達と、
飲んでいる時に義母から連絡が入った。

何か有った時はと、スナックの
電話番号のついたマッチを渡していた。

夜10時半頃に病院から生まれたと、
連絡が入ったそうである。

義母が今夜は遅くまで付き添うとの、
事だったので安心して、友人とスナックで、
酒を飲みながら、色々と語っている時だった。


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友人に訳を話し11時に家に着き、
義母を乗せて、病院へ向かった。

長女の誕生は雪の深々と降る、
1月19日の夜でした。

雪が7cmほど積もりタイヤと雪の、
擦れるような音が聞こえるようだった。

義母を乗せている事も手伝いゆっくり走った。

余り大きくない産婦人科の駐車場に車を停めた。
義母は、ドアーを開けると小走りに、
部屋に入って行ったので後を追った。

何処にいるのかと探していると、
義母がこちらですよと私を呼びに来た。

妻の顔を見ると上気した様な感じだった。
「私は生まれたのか?」って言って、
「どこにいるの?」と聞いた。

看護婦さんが私を案内してくれ、
入ろうと思ったら、消毒した白衣を、
着て下さいと、そして、初めての子供を見た。

これが俺の子供か?と思った。
無菌室だからあまり長居は駄目で、
外に回りガラス越しに子供を見た。


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私の長女は、2350kgと小さかったが、
未熟児ではなかったので、
保育器に入る事もなかった。

しかし、左の赤ちゃんが4120kgと右隣が、
3660kgと大きく、余りにも私の子供が、
小さく、看護婦さんを呼び聞いてみた。

「この子って、本当に私の子供です?」
看護婦さんは笑いながらも、無菌室に入り、
私に、その子の足の裏を見せてくれた。

確かに私の姓名が書かれていた。
さらには、隣の子供の足の裏も見せてと、
頼んで見せて頂いたが、違う姓名だった。

看護婦さんは外に出て来て、納得されました?と、
言った後、「お父さんにそっくりですよ!」と、
更には「綺麗なお嬢さんになりますよ」と・・・。

この看護婦さんは誰にでも同じ事を、
言っているのでは?とも思ったが、妻の所へ戻った。

既に義母が先ほどの看護婦と私との、
やり取りを話したらしく、
「あまり変な事言わないでよ~」と、
私は「もう帰るわ!」と言い「義母さんは?」と、
聞き、「今晩はここへ泊まります」と言った。

「家族と私」その3へつづく


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「家族と私」その3


--------3--------

長女はすくすくと育った。
もっぱら長女を風呂に入れるのは、
私の担当であった。

仕事も忙しく結構遅くなってしまった。
妻から先にお風呂に入って下さいと、
言われていたが、先に風呂へ入り、
また仕事をするのは気が引けた。

だからいつも10時ごろの入浴になった。
妻が、長女を裸にし、私にバトンタッチ。


しかし、私も仕事で疲れすぎ、また、
快いお湯にいつも肩まで浸かってしまう。


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そして、暫くして「ブクブクブク・・」と、
言う音にハッとして、長女を見ると、
すっぽり頭までお湯の中に・・・。

慌てて身体を持ち上げると目をパチパチして、
喜んでいる。この事がキッカケかどうかは、
分からないが小学校の水泳大会でも、
皆から期待されるほど水泳が上手くなった。

そして、長女が1歳2ヶ月を過ぎた頃に、
妻は長男を身篭った。

長男の出産予定日は長女と同じ、
1月19日だった。

1月15日・16日を利用してスキーの計画をし、
1月15日の朝早くスキーに出かけた。

妻もおにぎりを作ってくれ、
「気をつけてね」と、見送ってくれた。

だが、私を見送った後、2時間ほどして、
陣痛がはじまり、必死の思いで受話器を取り、
従業員に電話をして、そこのご主人が、
病院へ運んだそうだった。

そんな事とは夢にも思わない私は、
4時間掛けスキー場へ3台の車で向かっていた。

「家族と私」その4へつづく


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「家族と私」その4


--------4--------

私は皆と示し合わせたとおりの、
場所で落ち合い、私の車へ待っていた2人の、
女の子を乗せ、4時間掛けスキー場へ、
3台の車で向かっていた。

スキー場へ着いたのが、午前10時過ぎだった。
長野県木曽駒御岳のスキー場で、
昔は、6時間ほどかけて行った時もある。

15日の夜も宿泊する予定で妻にも話してあり、
着替えもバッグに入れてあった。

予定では民宿に先により、チェックインして
スキーを存分楽しむはずであったが、
雪を見た途端に、民宿の事など吹き飛び、
リフト券を購入し、思う存分滑っていた。


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私は女の子2人を連れて頂上で滑っていた。
一番上のリフトは結構急勾配で、
気を抜くと怪我をし兼ねなかった。

もうそろそろ、皆で落ち合い昼食でもと思い、
下へ降りて行った。降りるのは滑って、
降りれば良いので簡単だった。

トランシーバー3つを用意していたので、
何が起こっても直ぐに連絡が付いた。

そんな折、トランシーバーから声がした。
「おい!子供が生まれたらしいぞ!」
一瞬自分の妻の事を忘れていた為、
「誰の子が生まれたんだ!」と聞き返していた。

予定日まで、あと4日有ったし、出発する時は、
そんな風でもなかったがと思ったりもした。

別のトランシーバーから、今事務所へ行って、
聞いてきたら、やっぱり私の子供だと言う。

どうやら、友人の寿司屋から連絡が入った。
私の妻もスキーに行った事は知っていたが、
私が何処のスキー場に居るのかは知らなかった。

私の地元のスキー仲間が集まり私の行きそうな、
スキー場に片っ端から、私の住所と氏名と、
子供が生まれたから、直ぐに戻れ等の内容を入れ、
8箇所のスキー場も訳が分からないまま放送した。

8つのスキー場の中のその一つに、私が滑っていた、
御岳スキー場があったと言うことだった。


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他のスキー場にも、私の住所と名前がアナウンスされ、
私を知っているものから後日電話があったりして、
とんでもない噂を巻き起こしてしまった。

皆で集まり、食事をしながら相談した。
男連中は帰る帰らないと半分に意見が分かれた。
女の子の意見は、絶対に帰るべきだとの意見。

後は、私が決断を下さなければならなかった。
しかし、まず家に電話して情況を収集した方が、
得策であるとの事で、ヒュッテから電話をした。

寿司屋に電話をしたら「馬鹿も~ん!」と、
私は「ま~!落ち着いて下さいよ」というと、
「これが落ち着いていられるか!」と大きな声。

寿司屋から電話を替わったのが飲み友達だった。
「皆で手分けしてスキー場に電話したんだぞ」
手分けして電話してから、1時間半も経っているが、
消息が分からない為、皆が寿司屋に集っていた。

そして、また電話を替わった。
「直ぐに帰れるか?」と私に聞いたのは、
これも友達の警官で今日は非番だった。

「今何してるの?」と聞かれたので、
「皆で食事してます」と答えると、凄い勢いで、
「今すぐに帰って来た方が君の身のためだぞ!」と、
警官の仕事に戻ってしまっている言い方だった。

そして、私は決断を迫られ、致し方なく帰る事にした。

「家族と私」その5へつづく


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「家族と私」その5


--------5--------

つづきから

ヒュッテで食事中の皆は全員で10名。
私を入れて11名で、男は5名、女は6名だった。

テーブルに着くなり皆からは「どうだった?」と、
聞いてきた。彼らも私が電話をしている間に、
大体の意見が、まとまっていた様であった。


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「家では大騒ぎになっていたよ!」というと、
「そりゃそうですよ!」と女性の声がして、
続けざまに違う女性の声で「私ならそんな時に、
絶対スキーなどに行かさなかったわ!」と・・・。

彼達は一斉に私を見て
「お前はどうするんだよ~!」と、
私は、
「皆には申し訳ないが帰ろうと思う」と言った。

「よしっ!それでこそ男だ!」と、
そして、「それが一番いいですよ!」と、
女性の声がして、更には、

「帰らないって言ったら、引っ叩いてやろうと
私達で相談していたところよ!」と彼女達・・。

皆も1泊する予定で来ていたので、
私の知ってる民宿まで案内すると言うと、
「私達も貴方一人で帰したりはしませんよ!」と

結局、その昼食代は私の、おごりと言う事で、
皆には許してもらった。

遅い昼食だったので、時間は既に、
3時になろうとしていた。

スキー板を担ぎ11人は駐車場まで行き、
来る時と同じく、私は2人の女性を乗せて、
車を運転した。帰りには結構空いていた。

しかし、結局は1月15日の成人式の日で、
車の台数も多く渋滞している所もあった。


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私達はアマチュア無線をそれぞれの車に、
搭載していたので、
常時、連絡を取り合っていたので、
極端に車同士が離れることもなかった。

6時ごろに、高速道路のレストランへより、
夕飯を皆さんへ振舞った。

皆は無線で、
「早く奥さんの所へ行ってやれよ!」と、
しかし、このまま家に帰ったのでは、
夜9時近くになる為途中で食事をした。

食事をした1時間ほど遅くなってしまったが、
途中で道が違うので皆と別れ、
私は彼女達をそれぞれの家に送り届けた。

お母さん達は、
「今日泊まってくるのではなかったの?」と、
私には、その説明をしているような
時間の余裕もなく、彼女達に説明を任せた。

私は先に、自分の工場へより、それより、
寿司屋へ行ったが、友人2人がまだ居た。
私を見るなり「お前って言う奴は・・!」と、
寿司屋は柳包丁を振るので、友人が制していた。

その日の大変さ、長かった一日を聞かされたが、
寿司屋は友人に向かって、
「そんな話しは後にしろ!」と柳包丁で、
「お前は早く病院へ行って来い!」と話しを止めた。

1月15日成人式の午前10時に、長男は生まれた。
私が病院へ着いたのが夜の11時だった。

長男が生まれてより、13時間が経っていた。
病院の前に立ったが、正面玄関は閉められていた。

「家族と私」その6へつづく


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「家族と私」その6



--------6--------

辺りは暗く目を凝らして正面玄関を見た。
正面玄関の右側へ歩いていくと扉があり、
マジックで夜間御用の方は、
このベルを押して下さいと書かれていた。

私は押してみたが、鳴っているのか鳴ってないのか?
分からなかった。夜も11時過ぎると外は寒かった。

女の人の声で、ご用件はなんでしょうか?
「○○と言うものです。妻が入院してると、
思うのですが」と言うと、「面会は9時までです」
更に名前を伝えたが「そのような名前の人は、
入院されてませんよ」と、致し方なく電話を切った。

この病院とは違うのかとも思いながら、普段から、
もっと妻と一緒に病院へ来ていればなどと思い、
再度車に乗り、その場を離れて公衆電話を探した。

公衆電話は、それほど遠くない所にあった。
その公衆電話に入り受話器を持つが、電話番号が、
分からないので、電話番号案内に電話して聞いた。


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運の悪い事に、同じ名前の産婦人科が2件あった。
2件とも教えて頂き1つ目に電話した。

「もしもし」「私は○○と申します」
「はい?ご用件は?」「子供に会いに来ました」

「あなたは、どちら様ですか?」と、
いい加減に、イライラするほどであった。

名前を再度伝え、妻の名前も伝えたが、
「そんな人はこちらにはいませんよ」と、
虚しく電話は切れプップップッと音がしていた。

仕方なく、もう一つの病院へ電話した。
時間は既に12時近くなっていた。

「○○ですが、○○おりますでしょうか?」
「今どちらにいらっしゃるのでしょうか?」

手堪えは十分である。場所を伝えると、
この病院の近くですから来て下さいというが、
「先ほど行きプッシュホンを押した」と、
伝えると、「とにかくすぐ来て下さい!」と、
また車を運転してその病院へ行った。

正面玄関に着き、先ほどの誘導された通り、
左側の扉に設置されたプッシュホンを鳴らした。

「鍵は空いてますから3階へ上がって下さい」
先ほどの右側の扉のプッシュホンは何だったんだと、
3階に上がってすぐに聞いたら小児科と言うから、
ため息をついて、看護婦に名前を言った。

私がスキーの格好をしているので変に思われた。
理由を話してようやく「貴方がお父さんですか??」
と、頭の先から爪先まで、じっと見られた。


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私は早く子供が見たいと思っていると、
ナースセンターから、2人の看護婦が出てきて、
「○○さん!○○さんでしょう!」と、

「今日はあなたの為に、一体何人の人が来たか?
知らないでしょう?」と言われても分からなかった。

早く子供が見たいのに、今日一日の説明をし出した。

まず、妻を病院へ運び、待合室で看護婦が応対した
従業員のご主人をお父さんと勘違いした事。

その後、赤ちゃんが生まれてから、私の友人が2人、
病院へ駆けつけ、どちらがお父さんですか?
と、聞いた事。

妻の姉婿が慌てて病院へ駆けつけ、
その人をお父さんかなと思ってしまったなど、
この看護婦は良くしゃべる人だなとも思った。

私共の看護婦も一体誰が、お父さんなのか?
お父さんは何処に行ってるのか?奥さんに聞いても、
「ちょっと。。」と言うだけで何も話さない。

やっと、お父さんが現れたと思ったらスキーの格好?
私も長い間、産婦人科の看護婦してますが、
こんな奇妙な一日はないですよ。と早口で話す。

私は、「子供に会いたいんですけど・・」と言うと、
「まだ赤ちゃん見てないんですか?」と、やっと
連れて行ってくれた。大変な中で生まれた子は、
男の子で、3680gあり、長女の時と違い大きかった。

それから、妻の病室「只今戻りました」と入たら、
親戚の人達が、まだいて、「何が只今だよ!」

兎に角、散々な長男の出産の日だったが、
実に思い出に深く、いまだに話しが受け継がれている。

次は、次男の出産ですが、

「家族と私」その7へつづく


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「家族と私」その7



--------7--------

長女のお産の時も、長男のお産の時も、
私は、付き添う事が出来なかった。

しかし、義母や近所の人達また従業員の、
ご主人により、無事出産する事ができた。

だが、3人目ともなれば考えなくてはならない。
そう!3人目が出来てしまった。

この3人目の次男は、妻の在所の島根県で、
お産をする為、出産予定日の半年前から、
友人二人で、交替で車を運転して送り届けた。


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何故に、妻を在所に送り届けたかと言う事を、
これから順追って書いていきたいと思う。

一番の原因は、長女と長男の面倒を見ながら、
再度、私が居ないような事にでもなったら、
パニックでは済まなくなるとも思ったからだ。

妻は、長男を身に宿す前に、1ヵ月半ほど、
入院をしてしまった事があった。

内臓の病気ではなく、ある部分の手術の為に、
友人の紹介してくれた病院に入院した。

しかし、長女はその頃9ヶ月位だったが、
病院へ一緒に入院させる事も出来ずに、
私が朝から寝るまで長女の面倒を見ていた。

勿論、社長業という仕事もこなしながら、
食事の世話から、入浴、着替え、
洗濯もこの当時は、今と違い「オシメ」
ウンチのついた「オシメ」を水道の水を、
流しっぱなしにしては、手で洗った。

不思議なもので、慣れてくると、それも
汚くないと思い出すから人間って不思議である。

さすがに、従業員達は、社長やお嬢ちゃんの、
衣類だったら洗濯して差し上げてもいいですが、
オシメだけは、ごめんなさいと、結局、
私が洗うしかなかった。

食事の世話なども、離乳食を作るのが大変で、
「やさしいお母さんの離乳食法」の本も、
買ってきたり、作り方が面倒と他の本を、
買ったりして、3冊の離乳食の本があった。


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どの本も、おかゆが主体にしてあった。
おかゆを作ることの難しさをこのときに、
体験し、今では作る事さえ拒否反応起こす。

しかし、その時は必死で作った。
おかゆも作っては、翌日に持ち越しては、
赤ちゃんの健康に悪いと書いてあり残った分は、
私が食べたが、不味いと言うものではなかった。

仕方無しに、近所の喫茶店のママさんが、
ブーザンさんの赤ちゃんの為の特別メニューと、
約、3週間離乳食を作って下さった。

離乳食は問題解決、洗濯も入浴も問題なし、
しかし、ファッションメーカーへの商談には、
40分ほど運転をして、商談後帰宅までの、
時間は、2時間半ほど、その間、長女を
家に一人で置いておく訳にはいかなかった。

私は長女を背負い、帯で私の身体に巻きつけ、
運転をしなければならなかった。

交差点などで、隣の車線で信号待ちのため、
停車し、背伸びをして、大あくび・・
ふと私の方を見てから、前を向くが、驚いて、
慌てて私の方を、目を凝らして見ている。

私は信号機を指差し、ギヤーチェンジし、
その人も、状況を察したのか苦笑いして去った。

「3人目のお産は妻の実家になった原因」
の続きは、

「家族と私」その8へつづく


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「家族と私」その8


--------8--------

メーカーに着いてからがまた大変である。
デザイナーやパターンナーが、私が行くと、
皆、赤ちゃんの周りに集まり「可愛い~い」

「奥さんに逃げられたのですか?」って、
冗談を言うデザイナーもいたが、メーカーの
社長が来ると、さっと潮が引くように席へ戻った。


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「ちょっと大き目の荷物も一緒に持って来るって、
聞いていたが・・」赤ちゃんとは思わなかったようだ。

テーブルの横のソファーに寝かせ商談を始めた。
商談になれば、お互い必死である。
その当時は、物を作れば売れる時代であった。

30分ほどで、仕事の受注するデザインが決まったが、
だが、加工賃がどうしても決まらなかった。

5品番(5デザイン)の全てエレガントな婦人服。
1枚100円アップの加工賃の攻防が続いていた。

そんな折、寝かせてあった長女が泣き出した。
どうして泣いてるのだろうと、デザイナー達も、
来て見ていたが、メーカーの社長から、従業員に、
貴女、この前子供さんを育てていたでしょう?と、
そのパターンナーを手招きして呼んだ。

お腹が空いたのかな~?とか、
怖い夢を見たのかな~?などと思い思いに言ったが、
どちらも間違いであった。

私は、布製の手提げ袋から、オシメを取り出した。
そして、オムツカバーの大きなスナップを外し、
下に広げ、更にサイドへ広げた。

離乳食とミルクだけなので、便は硬くはなかった。
そして、手早くオシメの綺麗な所で、お尻の周りを、
拭き取り、軟らかいティッシュでお尻を拭いた。

8人ほどのデザイナーやパタンナー達が、
固唾を呑んで、只黙って見ていた。

両足を持ち上げオムツカバーを抜いて、そのお尻の、
下に先ほどの汚れたオムツを丸めて敷いた。


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そして、用意していたオムツをカバーの上に載せて、
再度両足を持ち上げオムツカバーをお尻の下に、
差し入れ、先にオムツでお尻を包み、更にオムツカバーで、
オムツの上から包みホックを止めた。

ファッションメーカーの社長と副社長は、
「慣れてますね~」「○さん!もうすぐ結婚でしょう」
「さっきの方法を見てましたか」などと言っていた。

そして、商談の続きに入ったが、
「もう分かりました!」と、社長の一声。

先ほどのオシメを交換する姿に感動しましたと、
その後、5品番4000枚全てに100円アップされた。

オシメの交換ショーを披露しただけで、40万儲かったと、
娘を背負い、背負い布の脇に付いたプラスティックの
環に紐を通しながら思ったりしていた。

メーカーから帰ってくる幹線道路は、それほど
渋滞もなく走ることが出来た。走りながらも、
あなたのお陰で商談も上手くいったねと言いながら、
室内灯を点けると、寝入った娘の顔が、
窓ガラスに反射して映っていた。

その長女が2歳になった時に、長男の誕生の折、
スキー場へ行っていて、後々まで取り沙汰された。

妻は、仕事に、家事に、育児に毎日大変な日々を、
過ごしている折、長男が1歳2ヶ月の時に妊娠した。

長女は3歳2ヶ月で、4年保育に行かせていた。
その送り迎えも大変な事で、私の当番だった。

長男は1歳2ヶ月で、これから段々と、
手が掛かり出す頃だった。

「3人目のお産は妻の実家になった原因」
の続きは、

「家族と私」その9へつづく


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「家族と私」その9


--------9--------

長女はお湯が顔に掛かっても、
両手を振って喜んでいたが、長男は違った。

風呂の中で、身体をお湯に浸けたり、
持ち上げたりと、耳を塞いで、
上下に動かすと泣き出した。

案の定、その後の水泳等の競技は、
不得意な部門となってしまった。


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長男が1歳半頃になると、あちらこちらへ
歩き回るようになったので、紐で縛った。

ウエストに紐でベルト代わりにし、
そこへ、2mほどの太いゴムを付けた。

近所からは、何故そんな動物のような扱いを、
するのかと苦情が来て困った。

工場の前には6mの幅の道路が通っており、
国道から国道へ早く抜けれるために、
大型車もここを通り抜け、交通量が多かった。

もし、ゴム製のベルトを外したならば、
どんな事になるのかと想像しただけでも、
そのゴム製のベルト紐は外す事が出来なかった。

裏には車が15台ほど駐車できるスペースが、
有ったが、こちらは目が届かず、
返って危険だった。

町内会の役員で夜の会合に出ても最後には、
仕事をせず奥さんが子供さんの面倒を見たらと、
意見も出だしたが、その討論をし出すと、
本来の議題が出来なくなるので黙っていた。

妻が面倒を見るためには、外注回りの人材を、
確保せねばならず、服作りの技術が出来て、
外注を回っても問題を解決できる人材は、
中々見つからなかった。

工場の入口の柱に、2.5mの長さの太いゴムを、
縛っておき、朝子供が工場に来ると、
自然に手を挙げる姿を従業員も見ていた。


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社長!この方法は、
「子供さんに悪い影響を与えますよ!」と、
他の従業員から、その人に、
「放したら車にはねられれてしまうわよ」と、
二人で言い合ってました。

30名ほどの従業員(全て女性)は、
見て見ぬふりをして、仕事をしていた。

妻が、外注から帰って来て、次の外注先へ
車に乗って行こうとすると後を追って走るが、
3mほどでゴムの弾力で引き戻された。

車に乗せて回ればいいのではないか?と、
妻に言ったが、長女を乗せ外注に行き、
カーブを曲がったところで、バックミラーを、
見たときに、15mほど後で転んで手を、
振っている長女が見えておかしいと思った。

そして、助手席を見ると長女の姿はなく、
すぐに車を停めて、長女を助け上げたそうだ。

もし、後に車が着いていたらと思ったそうだ。
そして、夜で後も見えなかったらと、
その後、仕事で車に乗せることはしなくなった。

今の車のように、チャイルドロックもない頃の、
話であるが、一歩誤れば、長女は車に、
はねられていたのかも知れない。

町内会でも、喫茶店内でも、寿司屋でも
噂が噂を呼び、1月15日に生まれたあの子が、
犬のような待遇を受けているなどと・・。

このままでは工場の印象まで悪くなると、
妻が、長女・長男を連れて、大自然の島根県の、
妻の在所へ送り届ける事を私は決断した。

妻の居ない9ヶ月以上の私の生活は大変だったが、
新しい生命の誕生の為には仕方ないと思った。

「家族と私」その10へつづく
「家族と私」その10


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