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碁法の谷の庵にて

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2006年03月03日
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カテゴリ:その他雑考
 先日、私の先輩のブログでこんな話があった。

体罰の論争をして有利に進めるには自分の土俵に議論を持ち込めばよい
という。
 体罰を肯定する派閥にとっては、学校における秩序や安全の維持が大事。否定派閥を秩序や安全維持と言う議論の土俵に引きずり出せば後は攻撃するだけすることができる。
 体罰を否定する派閥にとっては、大事なのは体罰による生徒個々人への身体的・教育的・人道的影響。肯定派閥を人権論・法解釈論と言う土俵に引きずり出せば後は攻撃するだけすることができる。

 もちろん、先輩も書いていたがこういう議論は聞くに堪えない。おそらくその議論から得られるものは何もないだろう。
 実りのある議論において本当に大事なのは「自説と他説の長所と弱点をはっきりと見据えておく」ことである。

 そうした能力が要求されるのが、実は現行司法試験の択一試験
 択一試験で、特に刑法で大事なのはさまざまに存在する学説や判例について、その長所・短所などをしっかり頭の中で整理しておくこと。それなりの地位を得ている学説には必ず何らかの長所、学説の対立がある場合にはどの説にも大体短所があるので、整理が非常に重要になる。

「この学説に従うのは法律の条文に忠実だけど処罰すべき人間を取り逃がす」(例・コピーの文書性否定説)
「この学説は現代型犯罪に対処できるが処罰する範囲が広くなりすぎる」(例・危惧感説)
「この学説は妥当な結論は得られるが理論的な根拠に乏しい」(例・胎児性傷害論)

などと言った諸々の学説を見据えて、そこにある長所・短所を抑え、議論の概観を把握しておく
 自分で言うのもなんだが、私はそういうのは得意だと思っている。1年半くらい択一試験や択一模試を受けていたが、刑法はほとんど勉強することもなくあっという間に得意科目にした。元々その手の才能(学説を冷静に見据える才能)があったのかもしれない。





 さて、そんな才能がある(いや冗談です)私から、ある程度議論を「実りがある議論にして、しかも優勢」にする一つの方策を伝授しよう。

 それは、「無理に相手からの攻撃を全て受け止めようとするなということである。
 そこは自説の弱いところとおとなしく認めること。そんなところを必死に受け止めるより、同等に、あるいはもっと重大な問題点を探し出してそこを検討するのが先である。


 議論に熱くなっている人には、相手から飛んでくる自説へのありとあらゆる批判を全て残らず受け止めて、全てにおいて自説の優位性を強調しようとする傾向があるように思える。私自身、それをやろうとしていてはっとしたこともある。
 もっと強烈な人になると、相手の議論の土俵(先ほどの体罰の例で言うなら、体罰肯定派にとっての秩序維持の土俵)にわざわざ乗りこんでいって、そこでつぶそうという、血気盛んな人もいる。確かに相手の議論の土俵でまでつぶしてしまえば相手としてはメンツ丸つぶれ、よりどころを持たないいわば議論の落ち武者・流浪の民となる。
 そうなれば議論には真の意味で完全勝利と言ってもいいかもしれない。


 だが、ちょっと待ってもらいたい。
 そんなに簡単にカタがつく問題は、そもそも論争の話題にならないのではないか?世の中で全く疑われていないことにあえて文句をつけているのならともかく、普通はそうじゃないだろう。
 ディベート大会でも質問でもなく、議論を仕掛ける、受けて立つような人間ならば、大概の場合は自説に自信を持っている。
 場合によっては相手には自分とも他の他人とも現在の法律とも異なる、説得など不可能な宗教的信念や価値観が根底にあることもありうる。本当に突飛なことばかり言っている人は特にそうだ。こういう人との議論は最初から水掛け論以外の何物にもならない
 仮にディベート大会なら、およそケリがついてしまっているような論争はお題にならない。どっちの立場を選ぶかで不公平が生じてしまうからだ。

 つまり、議論になる場合、どちらの見解にも長所・短所があるのはほとんど必然。自説だけが全面的に正しくて完全無欠というのはほとんどない。

 それなのに、相手の説を完全に封殺してしまおうとすれば相手から思わぬ反撃を食うのはほぼ必然である。
 それだけではない。大事な議論の中心が見えにくくなる。枝葉の議論で肝心な幹の議論が食いつぶされたり一番大事なところでは優勢に進めている議論なのに枝葉で優位を取られて議論の趨勢が意味不明になったりする。これでは議論が紛糾するばかりでそもそも実りある議論にならない。


 実際、せっかく今までいい事を言っていた人が、「そこは弱いところ。おとなしく相手に譲った方が・・・」と思って見ているとそこも応戦。でも結局自ら相手の土俵に乗って、大して重要でもなさそうな部分で腰が砕けてしまうようなさまを以前見たことがある。
 単に勝敗をつけるゲームだと思ってみている分にはなかなか面白い見世物なのだが、議論はそれでは困る。得るものがなければ何にもならない。




 よく考えてみると、この発想は囲碁と同じ。ある程度実力が接近して、ある程度レベルが高い囲碁はそう簡単に部分でつぶせるものではない。
 かの有名な囲碁十訣でも、
貪不得勝(貪ると勝てない
攻彼顧我(相手を攻めるときには自分を顧みろ
捨小就大(小さいものは捨てて大きいところを大事にせよ
 なんて言うのはこういった論争の方法と相通じるものがある。
 
 ちょっと乱暴な理屈のもっていきかただが、そういうわけで私は上の赤字のことを「囲碁的な議論のコツ」などと呼んでいる。





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最終更新日  2006年03月03日 13時02分59秒
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