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碁法の谷の庵にて

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2006年04月30日
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カテゴリ:法律いろいろ


 
法の世界における「正義」。



 こんな基本的な単語なのに、この単語の後ろには国民vs法曹で重大な価値観の軋轢がある。そして、以前私が問題視した刑事弁護と世論の軋轢は、少なからず「正義」観の相違による、とも思われる。

 今日はその話をしてみよう。


 例えば、先日の安田弁護士のような弁護活動や、あるいは黙秘を勧めるような弁護活動に対する「一見もっともらしい」批判に、弁護士法1条1項が使われることがある。

「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」


 そんな風に条文にあるので、「真犯人を逃がすような弁護活動は社会正義に合致しない」と噛み付いてくる人がいるわけだ。

 ここで真犯人を逃がすことを不正義ととらない(正確には、一方の優先される正義のためやむをえないととる)のが、「法律家の持つ正義観」であり、おそらく「市民一般になかなか受け入れられない正義観」なのではなかろうか。
 はっきり言って、論客といわれるような人だってこの概念をちっとも理解できていないケースだって珍しくない。そのくせ、この正義観を理解しない者に対して、何を言っても無駄という意味もあるので相当に困った領域だといえる。



 まず、基礎知識として実体法手続法の話から。

 「実体法」というのは、まさしく世の中に存在する普通の法律。
 つまり、「こういう場合にはこういう権利が発生します」「こういうことをしたらこういう処罰をします」と言うような法律である。

 これに対し、「手続法」というのは、裁判に関する法律
 例え実体法に「人を殺した者は死刑または無期もしくは5年以上の懲役」と書いたところで、実際に懲役○年か死刑にできないのでは意味はほとんどない。そんなことをさせないべく、「実体法のとおりにするために」裁判に訴え出る場合どのようにするかを定めた法律である。

 例をあげると、犯罪者を処罰するための実体法である刑法には、手続法として刑事訴訟法がある。
 市民の財産や家族の関係を規律する実体法の民法や商法には手続法として民事訴訟法とか人事訴訟法・家事審判法が用意されている。
行政のあり方を決定する行政諸法には行政事件訴訟法と言うのもある。
 また独占禁止法のように、一つの法律の中に実体法と手続法が一緒に規定されているものもある。



 そして、正義の概念も実は上の二つの大きな法の区分から、「実体的正義」と「手続的正義」の二つに大分される。


 そして、法律学の世界で「実体的正義」といったら、実体法が適正にきちんと実現されること、ということになる。
 「手続的正義」というのは、手続法に基づき、裁判が適正にきちんと行われること、と言うことになる。


 さて、手続法と言うのは実体法を実現するための法律である。
 実現すべき実体法抜きでは、手続法は意味がない。脳ミソのない人間と同じである。逆に言うと、手続法というのは、実は脳ミソ実体法の命令を受ける手足だということが分かる。

 ところが、現在の日本では、手続法は実体法と同格かそれ以上に重要な法律である。手続法が実体法を動かすことだってある。手続法のような「手段」に過ぎないものがどうしてそんなに偉そうな顔をしているのだろうか。


 まず、日本では、国民に裁判を受ける権利が保障されている。また、こと刑事手続に関していえば、適正な手続が保障されている。
 そして、「適正な手続によらなければ、いかなる犯罪者と言えど処罰することは許されない」という建前までが確立している。
 こうした手続をしっかりすることによって、刑罰と言う厳しい人権制約を受けなければならない人間であるかどうかをしっかり見定めることができ、人権保障につながる。国民の権利の制約を合法的に行える刑事法の世界は、国家(民主制と言えどもそれはかわらない)による人権侵害の温床だから、手続をいい加減にすることは許さないよ、と言うことがどうしても必要になる。

 そして、もうちょっと哲学っぽい話もすると、手続法を重視するということはどういうことか。
 それは、「真実に至る過程」を重視するということ。つまり、「結果オーライ」は許さず、真実に至るまでの過程をしっかりしようという発想である。
 人間は、神さまではない。どうしても限界のある生き物である。そんな人間ごときに「真実」などと言うものが予め分かるはずがない。そして、きちんとした過程を踏みもしないで、正しさに至れるはずがない。結果的な正しさを先取りしようとするなら、かえって正義をねじまげてしまうだろう。
 だから、手続はしっかり行う。しっかり行った結果として実体的正義が実現されなくてもやむをえない。そんな考え方が根底にある。





 例えば、100人殺した殺人犯がいたとしよう。彼は裁判では「証拠不十分」だとして、弁護活動や裁判官の判断をふまえて、全くもって適法な手続によって無罪になった。
 ところが、無罪判決を受けて重圧が解けた彼は、今度は「自分が犯人だ、裁判官も検察官もちょろい」と言い放ってふんぞり返っている。後から決定的物証も出てきたが、もう遅い。一事不再理の原則により、もう彼を法廷に引きずり出して刑罰を受けさせることは不可能になる。

 実体法からすれば、彼は本来殺人罪で裁かれるべきだったということになる。
 100人殺せば心神耗弱とか18歳未満でもない限りほぼ間違いなく死刑になるだろう。だが彼を犯人と認定する手続法の段階で待ったがかかったというわけである。

 ここで、裁判手続に何らかのミスがあったら、もしかしたら彼は死刑になっていたかもしれない。弁護人がつかなかったとか、裁判官が証拠能力の判断を誤ったとか、結果オーライで死刑になることは絶対にありえないとはいえない。
 そうなれば、実体法の通りにはなっている。その意味で実体的正義が実現されたといってもよい。そして、その意味では裁判官や弁護人の行動は不正義だ、と言うことにもなる。

 では、それでよいのだろうか。日本の法はそうは考えていない裁判をきちんと行った上で法は執行しなければならない。いかに結果が正しいものであってもそれは「たまたま」。不適法な裁判をやっての死刑など認めない。それは手続的正義が実現されていないし、それによって実現される実体法などダメ、ということになる。
 つまり、彼を弁護した弁護人も、彼を無罪とした裁判官も、しっかり正義を実現したと考えられるのだ。


 光市の妻子殺人事件に当てはめれば、きちんとした弁護活動が行われてこそ「手続的正義」が実現される。弁護活動を省いたら彼が死刑になりました。死刑は適正でめでたしめでたしなどという「正義の先取り」による「実体的正義の実現」など、実は不正義以外の何者でもないということになるのだ。


 「人間の能力ではいかんせん無罪判決が限界だったんだから仕方ない」という、ドライで、遺族とかにとってはおそらく到底受け入れられないであろう感覚。それが手続的正義の発想であり、今日の日本の法体系で基本となる感覚である。




 もちろん、実体的正義も当然実現されるべき価値である。手続的正義の履行がすなわち実体的正義の実現となることが当然の理想である。また、先進国でも、ドイツ・フランスと言ったヨーロッパ大陸法系の国では手続的正義より実体的正義の実現に力が入っていると評される国もある。(私自身は詳しくはないけど・・・)
 日本がこうなったのは、戦後になってアメリカ流の裁判が導入され、それが単なる法制定・法解釈のレベルではなく憲法上の秩序とされたことに大きな由来があるだろう。


 そんな正義認めたくない、と言うのは仕方ない。実際問題、日本人にとって手続的正義論は建前論に過ぎず、本音ではもっと実体的正義論が賛成されているし、手続的正義は煙たいものだと思われているのが実際ではなかろうか。この間のバッシングはその一つの証拠ではないか、とも考えている。

 ただ、こんな正義の捉え方があり、日本の法体系はまさにそのことを第一義的に正義と捉えているのだ、と言うことは、しっかり頭に刻んでほしいものである。この正義の概念が見えてきたとき、日本の司法に対する理解はぐっと進むと私は思う。
 





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最終更新日  2006年04月30日 18時51分56秒
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