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碁法の谷の庵にて

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2006年10月29日
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テーマ:囲碁全般(745)
カテゴリ:囲碁~それ以外
 私には向かない哲学の話であるが、あまりにも気になったので一言。
 
 一番最初の元記事はこれ、それに対する批判として提示されたのがこれである。

 確かに、端数コミの問題と混乱して読める記述があったのは事実であり、その点については言葉が足りなかったのを認めざるを得ない。 
 だが、碁を解き明かさない限り碁の真理の一つとしてコミが分からないというのはひとつの宿命であるし、端数コミだってその産物だと言う認識が私にはある。つまり、碁というのはゲーム内容の充実によってルールの設定がされるという、なんともいびつなゲームとして存在しているのである。


 真理と言う単語を、私はこのブログの歴史上で数えるほどしか使っていない。あれやこれやと法律関連のワードを解説したりしてきても、これこそ真理だなどといったことはない。うちのブログ限定で真理と言う言葉を検索すれば「オウム真理教」ばかりが出てくる。
 解説していることがそれなりに正しい自信はある。しかしそれは現在の法体系が裏にあるからに過ぎない。その法体系=真理というのは必ずしも成り立っているものではない。たかが人間の考えた物事の体系ごときに真理などという評価をすることは出来ないと思っている。
 人間ごときに、何が真理か、などと言うことを解き明かすことはできない。
 だからこそ真理に至るまでの過程が大切にされる・・・と言うのは私の大切にしている手続的正義の考え方である。私の持っている人間観は、ある意味では虚無的だ。
 
 

 さて、今のコミ6目半を決めたのは誰だろうか。まあ一応棋士の多くは6目半に賛成しているから、韓国が6目半だから・・・ということになるだろうか。んで、韓国はと言えば「李昌鎬が6目半だといったから」
 これのどこが真理だろうか。李昌鎬が常勝不敗だとでも言うのならまだしも、李昌鎬だって決して負けていないわけではない。世界トップの一人であると言うことは事実でも、碁を解き明かした神のごとき人間と言うような評価は到底出来まい。ただ単に最強者が言うからそれが真理に近いのかな・・・とおもうだけである。6目とか7目が仮に正解だったところで、それを立証するだけの証拠はどこにもないのである。
 
 
 では、コミ自由選択制にすれば碁は公正かつ真理なのか
 確かに、コミ選択の自己責任を負わせることが出来るという意味では公正ではあるかもしれない。だが、真理などとは言われない。人によってぐらぐらと揺らぐものをどうして真理などと言えるのか、私には皆目分からない。


 アマチュアはそれでもよいだろう。問題なのはプロ棋戦である。

 例えばコミの適正は7目であることが何らかの形で立証されたとしよう。
 そして、名人戦の挑戦手合で、張栩が高尾紳路相手に「コミ10目半」と言って黒を4回引き寄せて4局連続で盤面10目負けしたとしよう。スコアは4-0で高尾紳路の勝ちだ。では、これで勝った高尾紳路は「碁」と言うゲームにおいて最強者たりうるか。

 確かにコミの選択と言う点については張栩より高尾紳路の解釈が勝っていたことになろう。
 だが、盤上において存在するのはどうすれば最終的に自分を1目でも増やし、相手を1目でも減らすかと言う点だけである。その中の最強最善を尽くした場合にどうしても発生してしまう不公平の是正策たる「解釈技法」としてコミが存在するというのがタテマエである。つまり、例えコミの選択を誤ったところで真正なコミが7目である限り碁の真理により近づいたのは張栩だと言うことになるはずであろう。

 アマチュアならともかく、プロの碁は手合は単に相手との関係でのみ優劣を定めるのではなく、碁と言うゲームの中でどちらがより真理に近づいたかを見定めるもの。日本棋院の寄附行為28条の「棋道の研究」というのも、この点を指すと思っている。そして、これは公的なものとして対世効を有すると考えられるだろう。
 だから優勝すればウン千万の賞金と言うことになり、またプロとアマが別格とされるのだ。当事者二人で決めたことをどうぞでは、冗談抜きでプロがプロたる所以の一つを失うとさえ思っている。碁に限らず、何のためにもろもろの競技の協会が使用する道具や場所の規格をいちいちうるさく決めるのか、と言う点と同じだ。


 この点を考えれば、コミ選択制は、本来の碁にとっては一つのオプションに過ぎないものであろう。ちょうど、ペア碁や連碁と同じだ。
 
 
 端数コミだって、真正なコミが不明だからなされる業だ。盤の上にしか真理がない以上、コミの出番である終局時の盤面がコミの基準となる。
 そして終局時の盤面において、交点の数が半目と言う概念はない。半目というコミを導入することは、例えそれが最善のコミに近かったとしても、どちらかに優劣がついていることになる。極論すれば、握りの段階で優劣がついてしまうことになる。
 サッカーで言うなら、ゴールの大きさに差があるところで、コイントスだけを頼りに90分間同じエンドで戦わせようと言うようなものだ。誰がそんなもの認めるか。
 なぜそんなものが許容されているのか。結局分からないからこんなもんでと思われているのに過ぎない。コミが解き明かされるなら、端数コミといういびつな現象も解消されるであろう。





 コンピューター碁の発達による碁の「究め尽くし」をどう評価するかは、難しいところであるのは私自身認識しているところである。つまらない行為だと言う評価も理解できなくはない。例えコミが解明されたところでいやコミはそれとは違う○○でというのも、

「自由だ~!!」


 である。
 だが、碁において真理を求める人たちとしてのプロがそれでよいのかは、別個の考慮を要する。

 碁の真理は盤上のみにあり、コミは解釈技法と捉え、さらにプロを真理の探究者と考える人間の思考でした。
 





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最終更新日  2006年10月29日 12時07分14秒
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