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さておととい保留した話題に戻ろう。
さて、そもそも人間は、なぜ碁を殊更精神的なものにしたり、スポーツ的なものと考えるようになったのか。それは、人智において解き明かせない部分があるから、それを解き明かす過程に目をつけ、そこに人間を高めるものをみようと言うことであろう。 だが、ちょっと待って欲しい。確かに解き明かされてはいないが、プロと言う人たちは、碁と言うものを盤上真理を探究するゲームであるとは考えないのだろうか。もちろん勝負の形で真理が出現することは疑いようがない。では、プロ棋士と言う人たちが追い求める真理とは、ただ単に相手に勝つことに尽きてしまうものなのであろうか。 私はそうではないと思う。精神力にせよ、相手を間違わす力にせよ、それはあくまでも付随的なものだ。現段階においてそこまで含んで勝負せざるをえないのが人間の脳ミソだからそうなっているだけである。 私はプロは盤上における絶対的な真理を求められる存在と思っている。もっと言えば、それを通してたかがボードゲームに過ぎない碁が棋道などと偉そうな能書きをたれることが社会的にも承認されるのだと思っている。ただ単に相手に勝てばいいなら、ハメ手が問題視される理由などどこにもない。人間を高めるものとしてなぜ碁が位置づけられてきたか、その点を考えるならば、勝ちを目指す過程を通し真理に到達、さらには人間を高める存在としてのものだからであると思っている。 アマチュアにだって、プロより強い人はいる。私でも5局打てば1局勝てるようなプロだっているらしい。にもかかわらずなぜプロは別格扱いされるかといえば、それは真理の追究者としての使命を帯びているからだと思っている。例え勝因が大ポカであるにせよ、相手より真理に近づいた者が上に上がれる。そういうところだ。 そして、碁において真理をあらわすものとして基準となりうるのは終局時の盤面だけである。勝敗はただの盤面解釈の結果でしかない。終局時の盤面解釈の技法がコミなのだ。ただ、その技法が勝敗そのものをまるまるひっくり返すものだということだ。 そして、私の前記解釈によれば真理に基づいた勝負が求められるプロ碁界で、それを可能にする一つの要素であるコミを当事者の処分権に委ねることはできない。碁における真理は盤上にしかないとする私の見解からは、コミ選択自己責任論は、碁に真理追求としての碁を放棄させかねない。まして勝敗=真理なんてとても言えない。 確かに、人間なんて愚か者に、碁なんか極めつくせませんよと言うある種の開き直りがなければ確かに棋士なんてやっていけないし、相手に勝つことを通じなければその域には達せないのではと思うが、棋士と言う人種のタテマエにそういう言い分が通じていいのだろうか。私は断固ノーだと言いたい。せめてタテマエでもそこを維持してこそ棋士の矜持は保たれると思っている。人間なんて不確定なんだから無理みたいな事を言う棋士がいるとすれば、その内容はある意味で正論だが、棋士としては失格と言いたい。 なお、批判としてコミ6目半では初手or2手目投了説も主張していたが、ある意味ではそうであろう。だが、現在の棋士にはそれを解する力はないだけなのである。さらに、「一局を通じての」真理接近が要求されているのであるから、それ以前に最善を尽くせば負けコースに入ったことは否定されこそすれ、逆転すると言う現象は必ずしも否定されるものではないのである。投了は権利であって義務ではない。 ここまでが、おそらくhide-wさんの見解との根本的な相違点である。真理を勝敗の形でのみ現れ、そこに尽きると考えるhide-wさんと、勝敗は一つのメルクマールで、より高次のものが棋士には求められると考える私と言う構図である。 hide-wさんの発想は、私に言わせれば「人を殺したら殺人罪が成立する」という法律学の通常の現象につき、「殺人罪の成立」までを真理として評価する誤りを犯していることになる。殺人罪の成立は単なる評価に過ぎない。 また、おろかで不完全な人間のゲームだと言うなら真理と勝敗が一致するゲームだと言うのは明らかにおかしいだろう。真理と違う勝敗が出るかもしれないが人間には分からないからそれを飲め、ということである。 ついでに、真理と言う言葉を濫用とまで言われたのは聞き捨てならないので、このあたりについて反論を述べておこう。 張栩vs高尾紳路の件については、元々真理が明らかになっているという前提を用意して語ったものである。真理を求めるプロの棋戦で、こんなことは許されてはいけないぞ、と言うことになる。仮定的真理とは、なかなか便利なものである。司法試験の民法や刑法、法律相談番組なんかがまさにそうだ。どうやって裁判で認定するのか教えろや、と言いたいような事案でも、分かっているものとして論じることになる。 だが、先述したように碁において、「絶対の真理」の根拠たりうるものは「勝敗」でさえない。「終局時の盤面」だけだ。設例なら、張栩が盤面10目勝っている盤面で、それをどう評価すると言う解釈技法の問題がコミである。 更に、人間が真理にたどり着けるはずがないから・・・というのは、私の得意分野としての法律学の手続的正義の発想である。もちろん囲碁にもある程度当てはまると思っているが、法律学に要求する手続的正義を囲碁に「そのまま」横滑りさせるのには私は懐疑的だ。ちょっとしたオマケを大前提のように読まれるとは思わなかったな。 私がなぜ法体系に真理と言う言葉を使わず、碁には真理と言う言葉を使うのか。 大学で比較憲法などと言う講義を受けていると、否が応でも現在存在する法体系と言うのが絶対のそれではなく、一つの時代と国によって存在するものであることを認めざるをえないからである。そして、解釈によって間を埋めていく中で、人によってぐらつきが生じ、そんな領域に真理と言うことはあったとしても認識される可能性すらないであろうということである。極論すれば、およそ全員が支持しているとしても真理と言うわけではない。 絶対の神が神たる能力で裁いてくれるのなら、裁判においては弁護士も検察官も必要ない。少なくとも、天秤を持って目隠しをして正義を量る正義の女神アストレイアは、絶対神ではないということである。 では、碁における基準としての盤上の現象と言うのは、認識が多種多様になったり解釈が分かれるのだろうか。両コウに仮生一つ、取らず三目などのように解釈が分かれうる領域も確かに存在する。 だが、少なくとも最終的な結末の解釈は究極的には一つしかない。最終局面で地がどちらがどれだけと言う、ただ一つの純客観的な基準しか存在しないのである。絶対的真理として存在するのは○○の「盤面で」○目勝ち。そんな絶対的基準について言えば、李昌鎬よりも機械のプログラムの方が速い。現在は死石指定が必要だが、将来的には終局合意さえすれば、事実上死石指定が不要になるようなプログラムを可能にすることはそう遠くないと思っている。 また認識される可能性も存在する。早い話が解明コンピューターにせよ神的人間にせよすべての枝を検討させてアウトプットすればよいのだ。仮に批判が出てくるなら全部においてそれ以上の結末をもたらして潰すことができる。 あのゼロの大群を思い出していただければ分かるとおり途方もない難作業に相違ないが、およそ一切の不可能ではないことはなんとなく理解できるだろう。 [囲碁~それ以外]カテゴリの最新記事
あなたは文系だ(2010年07月16日 07時24分46秒)
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