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碁法の谷の庵にて

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2007年05月04日
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 今日の記事は、憲法判例の中でもトップクラスに有名かつ悲惨な例を扱うとしよう。

 最高裁大法廷判例、昭和48年4月4日である。判決文はこれ。pdfだけど。


 この判決は、確かに憲法判例である。憲法の判例百選に載っている。

 だが、同時に世の中の刑事事件を扱う際、一つの指針ともなる事件であると考えている。世間では犯罪者=悪人で「どんな場合でも」厳しく処罰しなければならない…的な発想に基づいて物事を主張する人たちに、私ならずとも多くの人が示す実例である。
 この事例を示されたとき、そういう発想の持ち主は大概の場合、何とかこの場合は例外と言い逃れを試みようとするのだが、全く筋が通っていない場合が多い。それだけで、この事例の強烈さ加減が物語られている。




 今日の「その時」は昭和48年4月4日である。(冗談抜きで「その時歴史は動いた」の題材になりそうな例だ)


 現在、刑法の200条は削除されている。六法などを見ても「刑法200条 削除」としか書かれていない。

 だが、かつての200条には、尊属殺人罪という罪が規定されていた。尊属、つまり民法上自己の親や義理の親、養親など、自分の尊属に当たる人物を殺害した場合、特に殺人罪と異なり、重く処罰するとした規定である。
 当時、普通の殺人罪の法定刑は死刑または無期もしくは3年以上の懲役だった(現在は下限は5年になっているが)が、尊属殺人罪は死刑または無期懲役、という極めて重い法定刑が設定されていたのだ。

 また他にも、尊属傷害致死罪、尊属監禁罪など尊属関連に対する犯罪については罪を重くする立法がなされていた。自己の尊属に対する忠孝・報恩と言った日本に限らず広く認められている儒教的な道徳を、犯罪のときにさらに保護する事を目的としたものであると言われている。

 ところが、尊属殺人罪は実務家泣かせの法律でもあった。なんと言っても、死刑または無期懲役というあまりの法定刑の重さがネックである。昭和27年から昭和44年まで起訴された621件の尊属殺人罪のうち、死刑判決が下されたのは僅かに5件、無期懲役は61件。全体の9割近い残りは、無期懲役でも重いということで情状酌量をつけるなどして刑を下げてきたのだ。当時、死刑判決は漸減の傾向にあったが、それでも年に10~20、あるいはそれ以上の死刑が言い渡されていた時代である。
 それでも、情状酌量では無期懲役を懲役7年にするのが精一杯。さらに、もう一つ減軽の理由(自首とか、心神耗弱とか)を見つけてきても、その刑期を半減する事しかできないので、刑期は懲役3年6ヶ月となる。実際、621件の尊属殺人罪のうち、164件は懲役5年以下になっている。
 だが、これではいかに汲むべき事情がある場合であっても、執行猶予がつけられないと言う厄介な点があった。執行猶予は、懲役3年以下でないとつけられないのである。


 「その時」まで、最高裁判所はこれらの規定について、合憲であるという見解を崩さず、違憲説は学説では極めて有力に主張されていたものの、「その時」まで最高裁の採用する事とはならなかった。
 ただし、最高裁が僅かに抵抗を試みたのが、「配偶者の親(これも尊属です)を殺した場合には、殺した時点で配偶者が生存していた場合にのみ尊属殺人罪になる」という解釈を打ち出した事だった。配偶者の親だけ殺すより、配偶者を殺してから配偶者の親を殺した方が罪が軽い(!)という、かなり無理な解釈であるが、そこまでやっても、実際はむなしい抵抗である。



 そこで起こった事件がこの事件であった。


 犯人の女性Xはまだ14歳であったにもかかわらず実の父親Vに性的な暴行を受け、しかもそれが母親Aなどに訴えられないのをいい事にそれを繰り返すようになった。Xが1年がたってようやく母親Aに打ち明け、母親Aは味方になったのだが、父親Vは刃物を出すなどの脅迫をし、さらにはXを連れて逃げる母親Aを娘ごと連れ戻すなどということもやったのである。
 その後も性的な暴行は収まらず、家出をするXを連れ戻すなどという行為を繰り返し、ついにはAの手元からBを連れ去って自分の子どもを産ませるに至った。その後、父娘は事実上の夫婦状態になって、XはVの子どもを何人も産む羽目になってしまった。
 そんなXに転機が訪れたのは、Xの産んだ娘が就職して、Xの方も家計の足しにと働きに出たとき。そこで恋人ができたのである。結婚すれば、この境遇から抜け出せるかもしれない。
ところが、Vはそれさえ許さなかった。恋人ができたことを知ったVは怒り狂い、暴力をふるいそうになったためXは逃走したのだが、Vに見つかって連れ戻され、しかもXはほとんどVに外に出られないように昼夜監禁状態にし、しかもそのさなかにあいも変わらず性行為を強要する状態になった。
 こうした状態の中で、Xはノイローゼ状態になり、自由になるにはVを殺害するしかないと思い余った末、Vを紐で絞め殺し、自首したのである。



 Xの行動が殺人であるのは間違いないし、まさか検察から尊属殺人罪を違憲というわけにも行かない。人が故意の殺人で死んでいるという結果を考えると、かわいそうだということで不起訴にするわけにはいかなかったのだろう。弁護人より検察官の方が苦悩したかもしれない。他方、弁護人は無償で弁護についたという。


 第一審の地裁判決は、尊属殺重罰規定は違憲とした上で刑を免除するという判決を下した。
 Xには過剰防衛が成立すると考えた上で、過剰防衛は刑を免除する余地がある(刑法36条2項)。心神耗弱状態にあったことや、自首したこと、酷薄な環境の中まじめに暮らしてきたことも考え、刑を免除する規定を使ったのだ。


 ところが、第二審は地裁判決を覆した。
 尊属殺重罰規定は違憲ではないというこれまでの判例に乗った上で、過剰防衛は成立しないとしたのだ。実際、学説でも一審が過剰防衛の成立を認めたのは無理があったという指摘の方が強いようであるし、職権審理した最高裁も過剰防衛を否定した高裁の結論には言及していない。
 その上で、情状酌量と心神耗弱を認め、懲役3年6ヶ月の判決であった。この手の事件に関してこれまでの裁判例の扱いに近い。





 そして、今日のその時である。




 昭和48年4月4日、最高裁判所は判事15人全員が出廷する大法廷を開き、尊属殺人罪の規定が合憲であるという判例を14:1の多数をもって変更。

「刑法二〇〇条は、尊属殺の法定刑を死刑または無期懲役刑のみに限つている点において、その立法目的達成のため必要な限度を遥かに超え、普通殺に関する刑法一九九条の法定刑に比し著しく不合理な差別的取扱いをするものと認められ、憲法一四条一項に違反して無効であるとしなければならず(以下略)」

とし、尊属殺人罪は憲法違反であるとしたのである。
 この判決は、「法律の規定が違憲である」とした日本初の判決でもあった。


 14人の違憲判決のうち、8人は尊属殺人罪という罪を設置する事自体は合憲であるとしつつ、その刑の重さが通常の殺人と比べて著しく不合理で、不合理な差別を禁じた憲法14条に違反するものであると判断。
 これに対し、6人はそもそも尊属に対する加害を特別に重く処罰するという発想自体が身分制道徳の遺産であって違憲であるという意見を書いた。
 1人合憲説を書いたのは下田武三裁判官。あくまでもこれは立法の裁量に任せるべきで裁判所が口を出すべきではないと主張した。ちなみに、下田裁判官はこの判決の前の国民審査で、史上最も国民審査で不信任率が高かった裁判官となっている。もしかしたら一番左に名前があったのかもしれない(一番左に名前があると×がつきやすいらしい)けど。
 各裁判官の判決の内容は、この程度のさわりにとどめ、各人で勉強していただく事としよう。



 こうして、過酷な境遇を強いられた女性は通常の殺人罪で処断され、最高裁でそのまま判断され、(事実関係にさほど争いのない事件だったようだし、言い渡す刑もさほどのものではなく、最高裁での自判も可能だったと思われる)懲役2年6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決が下されて、この事件は幕を閉じた。
 なお、この日にはこの事件のほかにも2つの尊属殺人に関する大法廷判決が開かれ、いずれも尊属殺人罪違憲ということで裁きが下されている。



 新聞などでもこの判決は大々的に扱われ、主要な新聞ははかつて尊属加重規定を巡って法廷で大論争(を繰り広げた斉藤悠輔前最高裁判事(合憲説)と真野毅前最高裁判事(違憲説)を紙面に登場させて激しい論戦を戦わせた。
 読者投稿欄や識者のコメントでも特集が組まれ、賛否が分かれていた。ただ、尊属殺人罪自体を違憲としたことには否定的な見解もあったが、懲役2年6月で執行猶予をつけたことを取り上げて批判する見解はなかったと記憶している。


 その後、検察の方は尊属殺人罪に該当する場合であっても、殺人罪で起訴するようになった。といっても、尊属殺人罪の廃止には政権与党の自民党から難色を示され、使われない条文が長く刑法に残る状態となった。
 また、その他の尊属関連の罪、例えば尊属傷害致死罪などは、合憲とする見解を最高裁判所は崩さなかったし、尊属殺人罪も法定刑を下げれば合憲になったのではともいわれる。

 そして、判決から20年以上経った平成7年。刑法の口語化にあわせ、ついに尊属殺人罪をはじめとする尊属加重規定は全面的に削除される事となった。このとき、国会の答弁に立った法務省刑事局長は、
「その後(昭和48年の判決の後)の二十二年間にわたります裁判の実務の結果の考察によりまして、重かるべきは重く軽かるべきは軽くという、まさに事案に即した量刑が一般の殺人罪の規定の法定刑の枠内で行われている」
 と答弁している。尊属殺人罪がなくとも、殺人罪の法定刑の枠の中でも適正妥当な量刑が行われてきているということが、行政の立場からも認められたのである。





 いかがだっただろうか。

 犯罪というのは、決して救いようのないほどあくどい犯人が利己的に起こすものばかりではない。
 本件はやや極端かもしれないが、こんな事件でも、法は「殺人罪」として裁かなければならないのである。
 マスコミで報道されるような重い、あくどい事件ばかり追い回して、そればかりを基軸に「殺人犯は死刑であるべき」などと言っているのは、全く全体を見ていない妄言なのだ。例え本件ほどではなくとも、汲むべき事情があって実務家が対応に苦慮する事件などいくらでもある。
 
 







あんまり憲法っぽくないな・・・





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最終更新日  2007年05月04日 15時21分58秒
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