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碁法の谷の庵にて

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2007年06月24日
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カテゴリ:その他雑考
 日本は曲がりなりにも民主国家である。国民の支持によって政権も変わるし、制度も変わる。

 司法権の独立などという大仰な言葉が言われる最高裁判所を頂点にした司法権とて、その例外ではない。
 最高裁の判事は10年に一度とはいえ、国民審査に服さなければならない。国務大臣や総理大臣については国民が直接審査する制度がないのに、最高裁判事はあるのだ。

 また、裁判所が従うべき法律も国民がその意思で変えることができる。場合によっては憲法さえ変える事もできる。ドイツのような強力な憲法裁判所が基本法改正自体に噛み付くような制度は、日本にはない。
 また、司法関係者といえど、国民におよそ無関係でわが道を行く、という人たちは相当に少ないように思う。国民審査でクビになった最高裁判事はいないようだが、やはり×が多いのはこたえるようだ。


 民事訴訟なら、民事訴訟が国民に信頼されないとなるとどうなるか。ヤクザを用いて解決したりして、本来一文も払う義務のない人が金を取り上げられたり、払うべき人から金が取れず、泣き寝入りを強いられたりする事にもなりかねない。
 刑事訴訟とて、刑事訴訟がうまく行っていないと思われたら大変である。復讐権という概念を実際に認めるかどうかはともかく、現実問題としてそれが横行する危険は少なくないし、また刑事罰が機能すればこそなされる民事的な償いも少なくなく、そのしわ寄せがあちこちに及ぶ。

 少なくとも日本において、国民の支持を全く得られないような制度は長続きしないであろう。
 私自身、学部時代のゼミ論文で捜査段階における刑事弁護に関する論文をそれっぽく書いた(今から見れば穴も多いけど)が、「この手の弁護は国民の信頼を失う事も危惧される」みたいなことを何度か書いたことがある。








では、それだけでよいのだろうか。


 ここで一つ、私が大学1年のときの憲法の学部試験で出された問題を提示してみよう。問題は選択式で私はこの問題を解かなかったのだけど。
 担当教授は朝生で有名な水島朝穂教授で、学内でも左翼系と評判が高い感じですが(自動登録されたので水島教授を私自身が選んだわけではないけども)、それでもこれは日本の統治の根本原理なので、知っておいてもらわなければならない。





 国民代表機関たる国会が制定した法律を、国民に直接選挙されるわけではない裁判官(裁判所)が違憲・無効とする仕組みは、どのように正当化できるか。





 最高裁の裁判官は内閣が指名・任命をし最高裁長官だけ天皇が任命する。
 裁判官は独立していて国民は10年に1度の国民審査しかやらない。
 国会の議員は国民が直接選挙する。
 国会が立法機関であって、裁判所には違憲立法審査権がある。(憲法81条)

 知識的にはこれだけあれば、問題文を見て納得できるだろう。ほとんどは高校生レベルの知識である。正三角形の各角に立法・司法・行政があって中央に国民がいてハブ状態になっている図を思い浮かべる人も多いだろう。
 じゃあなぜそうなっているのか、それが正当化できるのはどんな原理なのか答えろっていうわけである。私でも優答が書ける自信は正直言ってないが、私の認識を一渡り書いてみる。
 


 まず、間違いの例から。
 民意を正確に反映するため・・・と答えたらおそらくは赤点である。それなら裁判所は国会で行われた議論の内容とか世論調査しか審査できない事になろう。これが憲法に違反するかしないかなどという審査はほとんどできないのである。議院が二つ(衆参両院)あれば十分じゃないかってことになってしまう。
 ちなみに、法律の制定手続に瑕疵があった云々の主張は、裁判所は認めていない。(最大判昭和37・3・7)


 答えには、憲法が何のための法律なのか考えないといけない。憲法は、自由の基礎法である。近代憲法のよってたつ原理は立憲主義であり、そこにおいて憲法とは、「国家権力を制約する事によって国民の権利や自由を守るための法律である」ということである。帝国憲法といえど、天皇の権限行使は憲法の条規によったのである。

 そして、その原理は民主国家といえど変わることはない。民主国家、まして日本ほどの大規模国家において、意見が完全にまとまることなどありえない。国法・予算・外交といった統一的な国家意思を形成するためには、多数決制度を採用せざるを得なくなる。つまり、国会で採用されるのは、多数の論理だということになる。
 しかし、それによっても守られるべき少数者の不可侵領域、それこそが憲法の最高価値である個人の尊厳、基本的人権に他ならないであろう。例え民主制を採用しているといえど、国家権力を形成するのだから、決してそこから逃れる事はできない。
 だからこそ、民主的な議会に対しても、その歯止めをかけなければならない。もちろん、公務員に憲法尊重擁護義務を課すなどしてはいるが、それだけでは十分とはいえないだろう。「知らず知らずのうちに」憲法の枠を踏み外しているということだってありうるところである。
 そして民主的な議会の法律は多数の論理に貫かれている、それなら多数の論理の及ばない専門家的な人々を設定し、彼らを保護しておこう、その役割が期待されたのが、日本国憲法下における裁判所である。(代わりといってはなんだが、裁判所は文字通り裁判の他は法律や憲法で授権されたことしかできない)

 だからこそ、憲法81条の存在が肯定されるのだ・・・


 というのが、私のひとまずの解答である。異議のある方々は書き込みお待ちしています。


 
 ここまでの論理をよく反芻していただくと見えてくるのが、いかに国民の多数が支持するものであっても、基本的人権を侵害するようなやり方は断固として認めない、そういう立場がまさに裁判所に求められている。これは必ずしも違憲審査に限られるものではない。法解釈に際しても、憲法の趣旨を踏まえ、国民の権利を守りながら法は解釈しなければならないことは決して珍しいことではない。
 また、裁判を進めるに当たって不可欠な構成要素というべき弁護士や検察官についても、これと同じことが言えよう。検察官は準司法的機能があって司法権に準じた独立性が求められるというのはよく言われる話であり、また弁護士会・日弁連も独立している。弁護士個々人に対して懲戒請求が出来るとしても、最終判断権限は原則として日弁連にある。
 これに口を出せるのは適正な手続を経た司法だけ、しかも懲戒を「してはならない」という方向だけである。懲戒しろと裁判所が命じる事さえできない。



 つまり、司法と国民が対立する事は、最初から予定されているのである。

 世の中、囲碁のプロ棋士のように対立の中にも相互の信頼が生まれる・・・とは限らず、対立して口を極めて罵りあい、その人格さえ否定するような例もある。対立によって信頼が吹っ飛ぶということもあるだろう。

 憲法原理からすれば、例え信頼を失ってでも、司法は国民と対決しなければならない場合があるということになる。それにより、国民が法改正ないし憲法改正の挙に出るのかは、国民次第だ、ということになる。



 もちろん、信頼が大切なのはいうまでもない。用もないところでむやみに国民にけんかを売ってそれでよいのか、と言う視点は入る。私のゼミ論も、そういう視点から「用もないのに」そんなことをしては・・・という点から国民の信頼云々を論じている。

 だが、司法vs国民ということが起こることも、今一度認識して欲しいものである。







 タグを見れば、どんな人たちに読んでほしい文章か一目瞭然ですね。





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最終更新日  2007年06月24日 16時32分30秒
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