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碁法の谷の庵にて
風の精ルーラの囲碁と法律雑記

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2007年08月24日 楽天プロフィール Add to Google XML

甲子園判定に抗議した監督の行動をどう考えるか
[ その他雑考 ]    

 今年の夏の甲子園の決勝において、微妙極まりない判定により点が入ったことにより、決勝に進出した広陵高校の監督が審判を批判し、高野連が注意をするという事態になった。


 私は、法律家志望であるのと同時に、一介の囲碁マニアで、勝負師的な側面もある。なかなか立場としては特殊であるが、今回の甲子園判定問題をどう考えるかをあえて提示してみたい。

 なお、今回の判定の正誤がどうであるかについて論及することは避ける。あくまで監督の行動がどうであるかという視点から論及させていただく。


 まず、誤審がそれ自体としては問題外である事はいうまでもない。最初から誤審は起こるもんなんだから呑めとか言っている人間もいるが、アホの極みというべきであろう。
 囲碁の世界、野球の世界、どちらにしてもほんの僅かな差を巡って関係者がしのぎを削る世界である。私だって半目に泣いたこともある。そして、誤審を起こりうるものとして「容認」してしまうことは、そうした選手たちの努力どころか、その実力原理を全て否定するに等しいことである。運動会でみんなで手をつないで走りなさいとかいうのと同じである。
 起こりうるということと、それを容認するということは全く異なるのである。そういうことを言い続ける人間は、おそらくしのぎを削る勝負をやったことがないのだろう。ずんどこのはずである。


 見世物としてのプロ野球では、誤審は見世物をつまらなくした責任があり、勝負としての高校野球では、誤審は勝負原理と努力の否定である。その意味でも、誤審は厳正に処断されなければならず、そこに救済の手があるのが望ましい。
 ことに、見世物をつまらなくする場合であれば、私は無過失責任も容赦なく追及して良いと考えている。見世物を面白くできない人間はいかなる努力をした人間であろうと退場していただくのは、見世物界の厳然たるルールである。
 もっとも、救済の手は実質的にはない。


 ただし、である。
 監督の行動がどうだったか、と言えば私は墓場まで持っていくべきだったんじゃないか、そこまで行かなくとも、最低限度時と場所を考えるべきだったんじゃないかという気がしてならない。


 監督の発言は、おそらく決勝で勝利した佐賀北のナインをけなす意図は微塵もないものと思う。
 だが、それによって佐賀北の優勝には水をさされてしまった。また、どうあがいたところで、佐賀北の関係者その他が審判を買収したというような事実でもない限りは、判定や勝負がひっくり返ったり再試合になったりすることはない。
 極めて厳しい言い方であるが、この発言は言ってみれば、「言ってすっとするだけ」の域を出ないものである。どうしても言いたいなら、選手たちがいうべきだったのではなかろうか。もちろん選手たちには厳しい非難が集まることであろうし、監督はだからこそ自分で言ったのだと思うが、それは残念ながら言ってすっとするだけのことだけをやったに過ぎない。
 さて、それに何の価値があるのだろう。私には正直分からない。監督として選手たちにもつ愛情を示すなら、もっと他に方法があったような気がしてならない。
 また、将来への提言(技術改革への提言、不服申立制度など)ということであればまだ理解できないではないが、報道される限りではその様な発言がなされた気配もない。ただ審判の失敗に噛み付くだけでは、ますます何をやっているかわからない。


 むろん、監督とて、この程度のことは考えた上で、それでもやらなければならないと思ったからこそ、処分覚悟でこのような行動に走ったのだと思う。もし仮に、この程度の事も考えず、何の反発できる理屈ももたずただ情に任せて言ったのなら、ちょっと監督として適性がどうなのと思う。



 高野連の注意はどうか。
 高野連の真意がどこにあるかは、可能性はいくつか推測しているが、私には読めない。
ただし、判定を正誤どちらと考えるにせよ、注意をしないということはできないように思える。仮に監督の批判が正当であるとしても、今回が正当な前例となれば、今後勝負につまらない水が差される可能性も否定できない。
 仮に誤と認めて監督の言説を正当と認めるとなれば、優勝した佐賀北ナインの優勝は水を差すどころか大打撃である。審判の判定こそが最終という大原則を高野連自らぶち壊すようなことをすることはまずできまい。やるなら一大改革の幕開けである。







 私は、はっきり言って勝負より大切な価値観を殊更に持ち出す見解には反吐が出るタイプである。だから、変に美化された甲子園世界も正直言って嫌いである。
 いや、私自身は勝負より大切なものはあると思うタイプである。また、民法の世界の信義則というような、暗黙のルールというものの存在を認める発想もしている。
 だが、それは勝負において勝ちを目指すことによって得られる高みである。つまり、勝ちを目指さなければ何にもならないのである。仲良しクラブの類を否定するつもりは毛頭ないが、それは勝負世界とは住み分けるべきであろう。

 勝負の世界は泥臭いし、かっこよくもない。ただ実力だけで勝負が決まってしまう、結果責任の領域である。現実はスポ根系の漫画のように、努力すれば上に行けるというものでもない。才能でするするっと上に行ってしまう人だって、世の中にはいる。相手のミスに乗じて勝つようなことも、やらなければならない勝負事は少なくない。少なくとも、およそミスの無い相手に勝つのは、野球では不可能である。(点が入らないだろう)
 私自身の碁も、そのルールで何度もやられてきたと思っているし、逆にそれで何度もやっつけてきたと思っている。



 人は、高野連の体質を前近代的という。だが、私はもっと勝負は「原始的」な実力主義で決されるものだと思っている。
 ルールがいかに高度なものであろうと、最終的にルールの範囲で勝った者が全てである。「教育的配慮」とか「勝負を面白くする」とか何とかを持ち出す以前に、まず勝ってみろと言いたい。
 
 
 こういう考え方は、日本人的な発想からは受け入れ難いかもしれない。最近は、高校駅伝界でも1区は外国人ランナー禁止(速すぎるからということらしい)というような理屈がまかり通っているという。
 私の発想は自分でも相当に古臭いように思う。


 なぜ勝負事なのか。なぜ勝負事が教育たりうるのか。ただの体育の一環ではないのだろう。
 その辺について高野連はもちろんのこと、選手も、監督も、甲子園を見て喜ぶ人たちも、今一度考えるべきであるように思う。


最終更新日  2007年08月24日 16時02分31秒
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